羽地朝秀は、父羽地王子朝泰(羽地御殿五世)の
七人兄弟の長男として1617年6月6日誕生
からびなー(童名)は思亀、からな(唐名)は呉象賢
名乗りは重家
呉象賢・羽地按司重家、号は通外である
1640年に家督、羽地御殿を継いで
羽地間切の按司地頭となる
朝秀は大和(薩摩)に留学し三年の間に数々の
学問を習得したと伝えられている
帰国後、尚質王の命により琉球国最初の国史
中山世鑑を編纂した
琉球国の創始(開闢説話)から
1555年四代目尚清王の治世まで
六冊を和文で記述されている
琉球の人々の祖先は、日本からの渡来人で
琉球最初の王統、舜天王は源為朝の子で
清和源氏の末裔と称している
源為朝は保元の乱で敗れて伊豆大島へ流刑になったが
為朝は島を脱出し嵐に遭い、
運を天に任せると祈ったところ、琉球に流れ着いた
着いたところを「運天」と名付けられている
その後、為朝は大里按司の妹を妻とし
子が生まれ尊敦と名付けた後の「舜天王」である
源為朝渡来伝説は、日本の文献最初は京都五山の
臨済宗僧侶月舟寿桂(1470~1533年)の
幻雲文集・鶴翁宇銘井序(1572)においてである
1807年頃には有名な曲亭馬琴の椿説張月や
鎮西琉球記などにも記され江戸時代には広く知られている
また為朝来琉説が十六世紀前半には京都五山の
僧侶の間では琉布していた事実が確認でき
琉日の僧侶の交流によって琉球国へ伝えられている
また琉球に滞在していた袋中僧侶が1605年に編纂した
琉球神道記にも源為朝来琉記記述されている
為朝琉布文献は、中山世鑑を編纂される際に大きな
影響を与えたのではないかと言われている
源為朝来琉説は史実的根拠はなく伝説の域を出ない
この伝説は羽地朝秀の琉日同祖論として多く議論されている