羽地は古琉球の伝統祭祀・祭礼の中にある、非合理的な神事、
羽地が思う迷信的な儀礼、ユタ、トキ
神がかりてきな政治などを、批判し否定した
伝統祭祀を守ろうとする抵抗勢力から激しい反対
批判を受けながら、羽地は改革を遂行する
多額の経費が掛かる、国家の最高儀礼である
国王の久高島への参拝を廃止し代理を派遣するようにし
祭祀、祭礼を簡素化し廃止した
各地域の祭祀も縮小するようにした
羽地が最も力を入れ改革したのが
経済と地方制度改革である
伊野波(本部)、恩納、大宜味、久志、美里
宜野湾、小禄を間切として独立させ再編成した
そして仕明策(土地の開墾)によって
農民・士族も自ら土地を開墾した
土地の私有と自由に売買を認め
農地は拡大し収穫も増強した
羽地の改革は貿易経済から農業を中心とする
経済に転換し改革は一定の成功を治めた
経済状況は回復し後には国の借金も返済しつつあった
この羽地の改革は、三司官際温に引き継がれていく
摂政に就任、七年間に実施し政策を行った布達文書を
まとめたのが羽地仕置きである
羽地は後に王子の位に就く
1673年摂政職退任、1675年五十九歳の時死去
羽地朝秀の業績は高く評価され
現在でも尊敬を集めている