中村宇兵衛は、貿易船を所有し
琉球から薩摩へ貢納米運送、貿易などで財を成した
中村家の三男として生まれた
政隆は勉学に努め
今帰仁の間切りの地頭・那覇総横目
那覇船改め奉行などの
要職を務め、仲尾次親雲上(ペークミー)政隆と称していた
また当時の士族として、高い教養を身に付けた政隆であった
歌人の宜野湾朝保から和歌を学び
書は久米村の儀間より
弓は三司官の小禄親方から
鉢は村山鍛三に学び
ほかにも人相学・医術・風水・土木・生け花
茶など学んだと言われている
薩摩で禁制していた
キリスト教、浄土宗を
琉球侵攻(1609年)後、支配していた
琉球においても禁制にした
禁教の浄土宗の一信徒であったが
本願寺から了覚と言う法名与えられ
その熱心さから布教し続けていた
特に遊女に布教していた、
その実は大きく三百人を超える信者が帰依し
目立つようになり拠点を自宅に移し
中山子尼講社と称する講社を結成し活動するが
王府に発覚し詮議の結果
石垣島へ、無期の流刑となった
仲尾次政隆45歳の頃と言われている