政隆は禁教の浄土宗を布教したと言う理由で
石垣島へ終身流刑となった
政隆が記した、配流日記に石垣島に行く前に
座間味島に一年半ほど滞在し
1856年11月に息子と二人の共が同行して
流刑地石垣島に12月1日真泊に入港したと記されている
石垣島での生活は拘束もなく妻を得て子供を儲け
船を持ち貿易・事業などに従事して
流刑人とはおもえない自由な生活をしている
石垣島で11年間の記録を記した配流日記に
島での出来事を詳細に記述されている
日記の中に島の生活で詠んだ
和歌542首、126首の琉歌が記されている
石垣島では、和歌・琉歌の関心は高く
政隆は島の知識人や
僧侶・上級役人などとの和歌、琉歌を
通して交流を持ち人間関係を深めていった
仲尾次政隆は自身の資産だけを増やすことなく
以前から、王府へ台風や干ばつ(2回)や
王子らが薩摩へ行く旅費
また徳川将軍の即位に行く旅費
学校の建設費などの多額を献上し
無利息の貨与などもしている
中村家・政隆は信仰者として社会に貢献し還元している
仲尾次家の家譜に記述されている