『落葉松』補遺 1 交通事故で「意識不明の重態」
私(注:節三)は以前、二回静止の境をさまよったことがある。一回目は昭和三十六年(1961年)だった。交通事故であったが、私が被害者で「意識不明の重態」であった。
六月の昼過ぎ、私は自転車で広沢の西来院(せいらいいん)裏の道路を北に向かっていた。蜆塚幼稚園より東進して来たオートバイと出会い頭に衝突したのである。
私は、はねとばされて道の反対側の側溝に頭をぶつけたものと思われるが、事故の時の状況は私は一切、覚えていないので、あとで警察の調書づくりのとき、警官より聞いてわかった。
元城町の山田病院に救急車で運ばれた。意識不明だったから、私は一切知らない。
家の前を救急車が坂を下っていったと、後で家内は言ったが、電話が入った時、家内は一歳になった娘をおぶったまま、室の中をぐるぐる意味も無く廻ったそうである。
病院へ来てから、動転している家内は横になっている私を見て、起こそうとし、
「あなた、あなた。」と顔へ手をやろうとした。看護婦に、
「あ!駄目、駄目、動かしては駄目、さわっちゃ駄目よ。」と叱られた。
「今はね、じいっとさせとなかくては駄目よ」
もしもの場合を考えた家内は、中、小学生の息子二人と一歳の娘をかかえて、どうしたらいいのだろうと思ったが、それ以上には考えられなかったと後で言っていた。
私は、医者が傷口を洗っているか、何か神経にさわって一度気がついたのを覚えているが、そのあとは知らず、医師が戻ったのは夕方であった。
頭を打って、少し切った傷口があって血が出たのがよかった。頭部内出血で、脊髄液をとると、赤く濁っていた。
オートバイの加害者は、高校を出たての青年で、その母親が毎日病室に来て涙ながらに、家内に謝るのであった。
「こんな小さいお嬢さんがあるのに。」
夕方、意識を回復した私は、そのあとは割合早く治って、じっとして動けない毎日であったが、二週間ほどで退院することができた。脊髄液もきれいになっていた。
配達先のある学校の先生は、こう言った。
「なんだ君、生きていたのか。死んだのかと思ったよ。新聞に重態と出ていたからな。」
後年、孫とよくこんな話をした。
「おじいちゃんはね、地獄まで行ってきたのだよ。」
「地獄!鬼がいたでしょ。」
「えんま様がね、おじいちゃんんが来るには早すぎる。帰れ!帰れ!というもんだから、帰って来たのさ。」
「ほんとに、えんま様がいたの?どうして、おじいちゃんは天国に行かなかったの?」
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