『落葉松』補遺 2 YS-11松山事故
私が生死の境を味わった二回目は飛行機事故である。昭和四十一年(一九六六年)の秋だった。長男は、来春の大学受験を控えて勉強中だった。
本屋の同業組合の親睦旅行を、その年は初めて飛行機を利用して、松山の道後温泉へ行くことにした。あいにくと朝から雨であった。
大阪まで新幹線で、伊丹空港から飛行機に乗るのであるが、雨が強くて欠航があり、飛行機のやりくりがつかないと見えて、待合室で待つこと予定より半日も遅れていた。
日曜日で大安であったので、新婚らしい若い人々で華やいでいた。やっと乗れるようになったのは午後三時頃であった。まだ雨は降っていた。
家では夕食も済んだ午後七時ごろ、長男は二階でラジオを聞きながら、受験勉強をしていた。
突然、ラジオがニュースで「松山空港で飛行機が墜落した」と報じたので、長男は階段を転げるように降りた。
「飛行機が落ちた!松山でYSー11が落ちた1」
ちょうど家内の母が来ていて話に興じているとろだった。さあ、それからが大変だった。
組合長の奥さんから、
「現地に電話するのだが、なかなか通じないので、もう少し待ってください。」
その後、
「ホテルには、まだ入っていないそうです。」 という連絡があった時は、誰も声を出す者はいなかった。家内の母は、
「私は悪いところへ来てしまった。」
と、オイオイ泣き出した。長男も、大学はあきらめるしかないだろうと思ったそうである。
しばらくして、「全員、ホテルへ着きました。」という連絡が入った。家内も縮まった生命を伸ばすことができた。家内の母は、ショックからか、私の帰りを待たず、翌日早々に帰京してしまった。
私たちの乗った飛行機は、国産プロペラ機のYSー11で、落ちたYSー11は私たちの便のすぐ一便後に着陸しようとして失敗した。
四五人乗りで、滑走路の短い地方航空向きの飛行機だった。天気が良ければ一時間の空路が、この日は一時間半かかり、安全ベルトは遂に降りるまで外すことは無かった。時々、エアーポケットに入ってガクンと落ちたりして、大丈夫かなと思ったものだった。松山空港へ着いた時は、もう薄暗く、雨は余計ひどく、風も強かった。
私たちの乗ったYSー11は、海側から滑走路に入り、山際の手前で止まった。飛行機は風に向かって着陸するので、次の便は、山側から海側に向かって降りたが、滑走路いっぱいでも止まれず、又舞い上がって着陸をやり直そうとして、風にあおられたか失速して海に突っ込んだ。
私たちはホテルに着いてから、テレビで事故を知った。私は、すぐに家に、確かに私が生きていることを電話して、安心してもらった。
運命の分かれ道がどこにあるか知らないが、今度も地獄門まで行きかけて戻ってきた。家内は過去に車事故と、飛行機事故と二回もショックを味わっている。いつも口ぐせに、
「あなたには貸しがあるわよ。」と言っていた。その貸しを、家内の介護で返すことになるとは夢にも思わなかった。