雨宮日記 9月17日(月) 孫が書いた絵
写真は14日に則子さんが幼稚園で「祖父母の会」へ行ったときに孫からもらったもの。
4才の男の子です。もう空想の世界にひたれるので「○○○○になりきって」がおもしろいと則子さんは言ってました。
下の2才の妹も、もう「痛いの、痛いの、飛んでけー」がわかるといいます。
雨宮日記 9月17日(月) 孫が書いた絵
写真は14日に則子さんが幼稚園で「祖父母の会」へ行ったときに孫からもらったもの。
4才の男の子です。もう空想の世界にひたれるので「○○○○になりきって」がおもしろいと則子さんは言ってました。
下の2才の妹も、もう「痛いの、痛いの、飛んでけー」がわかるといいます。
古代ブログ 87 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 49 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎<再録>
「古代ブログ 36 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 20 北区引佐町の天白岩座遺跡<再録>」を再録しているので、これが第1弾。
「古代ブログ 86 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 48 引佐町の龍潭寺の石庭<再録>」が第2弾。
これが引佐町のシリーズ第3弾。
以下、再録。
「遠州の遺跡・寺社 8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎
2010年04月19日 05時15分17秒 | 遠州古代史
引佐町の龍湛寺の駐車場から南へ出ると、道は道なりに西へ曲がっていて,西へ曲がったすぐのところに「井伊氏の井戸」の看板が出ていました。
初めて来たボクは、運転している車を慌てて、左折して細い道へ入りました。すぐ左側にその「井伊氏の井戸」がありました。
井伊氏の始祖は、1010年(寛弘7年)に、この井戸で生まれたという井伊氏祖・備中守共保です。
井伊共資さんという人が、渭伊社参詣時に 井戸脇に常人に見えぬ神童を発見して、我が子とし、一女と婚せしめたのが井伊家始祖共保という伝説があります。
井戸のところに書いてあった解説では「又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります」とあり、びっくりしました。
天日槍命なら日本に渡来した新羅の王子で、明らかに、古代朝鮮の新羅系の人です。
そうすると、もしかしたら、「橘諸兄」など「橘」氏は、新羅系でしょうか?
思い出しましたが、引佐町の西隣りの三ヶ日町は、橘諸兄の子孫の橘逸勢が、伊豆国への護送中に、遠江国板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没しました。
これも何か、井伊氏と関係あるんでしょうか?
そこで病没したということは、そこで熱心に看病してくれた人たちがいるということだと思います。
もうすこし「橘」氏のことも調べます。」