過去現在未来のメモリーノート 54 「社会主義リアリズム」について 20181210
「唯物弁証法的創作方法」「社会主義リアリズム」というものがある。2つとも戦前の日本の「プロレタリア文学」運動において、指導的理論となったものである。
今年「第十回手塚英孝賞受賞作」は、谷本諭さんの「「社会主義リアリズム」とは何だったのか ー 二一世紀の目で考える」という論文です。今日はこれを検討しようというのではありません。
「唯物弁証法的創作方法」「社会主義リアリズム」を見るのに谷本諭さんの論文が適しているので、これで一瞥した上でボクの意見を書こうと思う。
「唯物弁証法的創作方法」「社会主義リアリズム」の命名に、文学の方法的混迷が現れているように思う。
「唯物弁証法的創作方法」というが、「唯物弁証法」は哲学の理論である。哲学と文学ではジャンルが違い、方法も違うと思う。
「唯物弁証法」は哲学の方法ですらない。哲学の方法で到達した理論的結晶が「唯物弁証法」だと思う。「方法」ではない。
なにか勘違いか過誤がありそうなのだが、蔵原惟人さんの評論がまだ手に入らないので、今回はパスしておく。
「社会主義リアリズム」のほうは、さらにおかしい。「社会主義」は社会体制である。どうして体制名を文学の潮流名にするのか。
「奴隷制ロマンティシズム」「封建制リアリズム」「資本主義ロマンティシズム」「共産主義リアリズム」は存在するのか。
「進歩的リアリズム」とか「批判的リアリズム」という言い方なら、その当否は別にして、感覚的にわかる。
哲学や歴史の方法を、そのまま文学の方法とすることの無理・無茶について考えてみるべきではないか?