雨宮智彦古代史メモリー 22 20200209 日本古代史の学習2 女王国(邪馬壱国)と倭王の居場所 20100213
日本古代史の学習2 女王国(邪馬壱国)と倭王の居場所
2010年02月13日 04時14分27秒 | 古代史を考える
「魏志倭人伝」による女王国(邪馬壱国)と倭王の居場所の2回目です。
「倭人伝」では、1で指摘した楽浪郡からの行程記事のほかにも、女王国と伊都国の位置関係を示す文章があります。
1つ目は以下の文章です。
「女王国より以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余のボウ国は遠絶にして得て詳かにすべからず。」(岩波文庫版、p41から42)
つまり、女王国(邪馬壱国)から北にある対馬や壱岐や末ロや伊都は、その戸数・道里のデータはは得ることができて略載したが、それ以外の「遠絶」の遠い国はデータが得られなかったというのです。
「倭人伝」によれば「正始元年(西暦240年)」に魏の使者が「証書・印綬を奉じて、倭国に」行って「倭王に拝仮し」とあります。(岩波文庫版、p52)
つまり、魏の使者は、倭国に実際に行って、倭王卑弥呼会っているのです。
それはそうです。現代の外交でも、アメリカ大統領が日本の首都・東京まで来て、日本の首相には会わずに外務大臣や秘書とだけ会って、なんてことはありえません。
この岩波文庫版のp41から42の叙述の「女王国以北」に、「注8」で次のように奇怪なことが書かれています。
「本居は以北を以西とし、その前の不弥国よりの方角南をすべて東とする」(p43)
つまり、江戸時代の学者・本居宣長さんが、北を西に、南を東に、すべて90度ずらした解釈のルーツなわけです。
この本居さんの解釈は正しいでしょうか。
倭人伝の後半でこういう原文があります。
「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。またシュジュ(小人)国ありり、その南にあり。人の長、三、四尺、女王を去る四千余里。また裸国・黒歯国あり、またその東南にあり。」(p50)
本居さんの解釈でいくと、上の原文は以下のようになります。
「女王国の北、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。またシュジュ(小人)国ありり、その東にあり。人の長、三、四尺、女王を去る四千余里。また裸国・黒歯国あり、またその東北にあり。」
これでは、まったく意味をなしていません。
本居さんの修正は、誤っていると思います。」