雨宮智彦哲学経済学メモリー 5 20200215 哲学の学習4 「発展」と「展開」 その2 20100104
「哲学の学習4 「発展」と「展開」その2
2010年01月04日 03時56分51秒 | 人間・生命・宇宙
1月1日に書いた「哲学の学習3 「発展」と「展開」」の続きです。
「弁証法」の例証として、植物が種から芽が出て、葉が出て、花が咲いて、実が成るとという例が書いてあるテキストもあるのですが、これは弁証法の「発展」の例にはなりません。
なぜなら、たしかに「非可逆的変化」「不可逆的変化」であっても、これは遺伝子(DNA)に事前にプログラミングされた変化であって、「発展」ではなく「展開」と名付けるべきものです。
「発展」は決して出発点に戻りませんが、生物の遺伝子の「展開」は有性生殖の動物で言うと精子と卵子の会合から始まって幼生からこども・大人になって、必ず精子・卵子に戻ります。戻らなければ、生物は存在できないからです。
つまり同じ環境の下で、同じような生物がそこに適応して繁栄しているのです。
マルクスさんの『資本論 第1巻』で言うと、市場経済と商品生産から「貨幣」が出てくるのは、必然的な「展開」の過程です。商品が発生すれば貨幣は出てきます。
しかし、その後、「貨幣」が出てくれば「資本」が発生するかというと、これは必然的「展開」の過程ではありません。マルクスさんが『資本論』で何回も述べているように、これは「ここがロードス島だ!ここで跳べ!」という、必死の飛躍の過程なのです。跳んでも失敗して「資本」になれない場合が世界史では、多々あったのではないでしょうか。
資本主義社会から社会主義社会に転化する「革命」も、必然的「展開」ではなく必ずしもそうならないという偶然性を含む「発展」ではないかと考えています。
つまり、資本主義社会(たとえば現代日本)から社会主義社会に「転化」するのは、生物のた根から親への「必然的過程」ではなくて、偶然性や、滅亡したくないならどうしたらいいかという必死の「ここで跳べ!」という思考も、そこに大きく作用するのではないでしょうか。
生物の進化の場合も同じだと思います。たとえば、中生代の恐竜ワールドから、新生代の哺乳類ワールドへの転換は、偶然の隕石落下を含みながら、必然的な、かならずそうなるというのではなく、偶然性も含んだ、かなり未来決定の幅のあることだろうと思います。
さらに思考を続けていきます。」