雨宮日記 1月3日(火) 古いカメラ用のリバーサルフィルムが無い!
久しぶりに、多分数ヶ月ぶりに則子さんと馬込川を散歩しました。
冬鳥のカモたち、ヒドリガモやマガモやカルガモなどもいましたが、真っ黒くてクチバシが真っ白いオオバンも9羽見掛けました。
黒と白のコントラストが青い川に映えて、とてもいいですよ。
望遠側に強いデジカメで撮影したのですが、どうもピントが悪くてきれいに撮れないので、しかたなく古いフィルム一眼レフを持ち出して、電池(CR-2を2個)とスライド用のリバーサルフィルムを買いに近くのコンビニを回りました。
ところがネガフィルムしかないのですね。前は、確かに家の近くのコンビニで買ったと思うのですが。
仕方なく、遠くまで買いに行く事にして、今日は断念しました。
今日で短かったお休みは終わり、仕事に入ります。
☆
則子さんとドライブしながら、NHKラジオで宇宙飛行士・向井千秋さんのお話を聞いていて、健康の「自己管理」それも「身体の自己管理」と「心の自己管理」の話をしていたので、いろいろ考えました。
自己管理とは、別の言い方をすると自己コントロールすることです。
自己管理するためには、自分の心の状態を自己認識しないといけません。つまり「私の心はいまこういう状態にある」という客観的な認識です。
そのためには、ジブンの心の中に、自分の主観的な心と、それを客観的に認識する「もう一人の自分」がいないとできません。
つまり、自分を二重化するわけです。
自分の中に、自分を映す鏡(ミラー)がある状態を想像することになります。
そういう「自己認識」「自己管理」の前提は、自分がいかなる他人によってもコントロール・支配されていないというのが前提になります。
つまり他人が「私はこう思う」あるいはマスコミが「解説者はこう言っています」、宗教で「教祖様はこう言っています」、大学で「教授の意見はこうです」などに自分が左右されないことです。
そういう自立した自主的な個人によってしか、正常な民主的な組織・集団は作れないというのがボクの意見です。
ある集団に属することによって、自分が何か変わったように思うのは幻想に過ぎないのではないでしょうか。個人にとってそれは参考資料程度にしか過ぎません。
判断を下すのは一人ひとりであることをつねに厳粛に受け止めて生きていきたいと思います。
最初に戻りますが、正しい判断を下すには、主観的な自分と客観的な自分の二重化、そしてその二重化した2人の自分の対話が必要なのではないでしょうか。
つまり、自分と自分の対話です。
久しぶりに、多分数ヶ月ぶりに則子さんと馬込川を散歩しました。
冬鳥のカモたち、ヒドリガモやマガモやカルガモなどもいましたが、真っ黒くてクチバシが真っ白いオオバンも9羽見掛けました。
黒と白のコントラストが青い川に映えて、とてもいいですよ。
望遠側に強いデジカメで撮影したのですが、どうもピントが悪くてきれいに撮れないので、しかたなく古いフィルム一眼レフを持ち出して、電池(CR-2を2個)とスライド用のリバーサルフィルムを買いに近くのコンビニを回りました。
ところがネガフィルムしかないのですね。前は、確かに家の近くのコンビニで買ったと思うのですが。
仕方なく、遠くまで買いに行く事にして、今日は断念しました。
今日で短かったお休みは終わり、仕事に入ります。
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則子さんとドライブしながら、NHKラジオで宇宙飛行士・向井千秋さんのお話を聞いていて、健康の「自己管理」それも「身体の自己管理」と「心の自己管理」の話をしていたので、いろいろ考えました。
自己管理とは、別の言い方をすると自己コントロールすることです。
自己管理するためには、自分の心の状態を自己認識しないといけません。つまり「私の心はいまこういう状態にある」という客観的な認識です。
そのためには、ジブンの心の中に、自分の主観的な心と、それを客観的に認識する「もう一人の自分」がいないとできません。
つまり、自分を二重化するわけです。
自分の中に、自分を映す鏡(ミラー)がある状態を想像することになります。
そういう「自己認識」「自己管理」の前提は、自分がいかなる他人によってもコントロール・支配されていないというのが前提になります。
つまり他人が「私はこう思う」あるいはマスコミが「解説者はこう言っています」、宗教で「教祖様はこう言っています」、大学で「教授の意見はこうです」などに自分が左右されないことです。
そういう自立した自主的な個人によってしか、正常な民主的な組織・集団は作れないというのがボクの意見です。
ある集団に属することによって、自分が何か変わったように思うのは幻想に過ぎないのではないでしょうか。個人にとってそれは参考資料程度にしか過ぎません。
判断を下すのは一人ひとりであることをつねに厳粛に受け止めて生きていきたいと思います。
最初に戻りますが、正しい判断を下すには、主観的な自分と客観的な自分の二重化、そしてその二重化した2人の自分の対話が必要なのではないでしょうか。
つまり、自分と自分の対話です。