雨宮日記 5月31日(土) 自分の多面性をさらけ出して書こうと思います
いままで、自分がどこに所属しているかは、かなりぼかして「雨宮日記」を書いて来たように思います。ぼかしている人、多いですよね。それでは、つまらないので、かなりリアルに書くことにしました。
ぼくは小さい頃は雨宮家の次男でしたが、今はその側面はほとんどなくて、大きいのは則子さんの夫・相方・パートナーあるいは参謀・秘書・事務員という立場です。今は2人の娘の父親という側面もほとんど無くて、長女夫妻の長男の祖父の時間もほとんど無く、次女と友達的存在でしょうか。
参加する会議は、平和行進西遠実行委員会と、浜岡原発永久停止裁判に関連する県と西部の会議、県と浜松の学習協の会議、そして共産党の地域支部の会議だけに限っています。
静岡県西部ゴミ環境ネットワークは形式的には存在していますが、実体としては存在しません。
自分の何かの役割のない学習会・講演会などは、ほとんど参加しません。聞くだけの時間は、自分にとってつまらない、ムダな時間です。そんな時間は、自分のほんとうの学習に使います。
自分は何者なんだろう、自分の63才の人生は、いったい何者だったんだろう、と考えたとき、今年、則子さんと結婚して35年目、5年後には「結婚40周年」になるんだな、と思いつきました。
父の自分史「落葉松(からまつ)」を自分で全部打ち込んで、一つのワープロ文書にして、自費出版の本にした経験(まだ少し、本はあります)から、ぼくも、自分と妻の則子さんの体験をきちんと調べ直して、文書にして、残しておきたいと思いました。
1950年代から始まって60年後に至る、激動の時期です。
今から5年をかけて、2019年には形にしたいと思います。もう書き始めました。則子さんとぼくが、偶然に出合ってしまったあの時間から。則子さんに、あのとき、出合っていなければ、ぼくはいずれ、沖縄に移住して、浜松にはいなかったはずなのに・・・・全てが則子さんのせいで、変わってしまいました。
則子さん「私のせいなの?」
うわっ。ごめんなさい。ぼくが則子さんを選択したんです。ぼくの全責任です。でも、でも、少しは、則子さんの魅力の責任も・・・・。
仮タイトルは「青い地球とオレンジの花 ー雨宮夫妻の自分史-」。
たぶん、別巻で、「平和年表 1868年ー2018年 」というのと、ファイルで「経済資本ファイル」「人間思想ファイル」「歴史社会ファイル」「古代遺跡ファイル」「民俗ファイル」ができると思います。
2019年に68才ですので、「72才を人生の24時とする」とその後、4年。
それまでに、わが家のなかの、則子さまの言う、いろんな「智彦くんのゴミ」も処理したいと思います。
つまり、則子さんがいつも言う、「智彦くんのゴミを全部処理しないと、死んじゃダメ」ということです。則子さんの許可が出たら、嬉しく死にますね。