青い銀河とオレンジの花 断片 12 名古屋市昭和区相生山 20201208
最近、中沢新一さんの『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書、2004年)を読んだ。
そのなかで、こう書いてあるので、びっくりした。
「網野さんは名古屋大学に職を得ることになった。最初は単身赴任だっったが、1年ほどして家族みんなで名古屋に住むようになった。昭和区(現天白区)相生山(あいおいやま)の広漠とした丘陵地帯に建てられた新しい団地アパートが今度の住まいである。」(p20)
中沢さんは網野さん一家と相生山を散歩して、奇妙な「焼き鳥屋」と遭遇するのだが、ボクもじつは同じ相生山にいたのだ。
ボクが相生山にいたのは1973年から1976年までの3年間だ。大学を中退して、名勤生協(名古屋勤労市民生協)に就職した。相生山店で精肉部見習いをやっていた。
あの当時は、いま思うと未熟な自分で、周囲の人々にはほんとうに迷惑をかけたと思う。ごめんなさい。
それはともかく住居は当時の長久手村、地下鉄の東の終点から歩いたところにあった生協の寮から毎日、車で通った。最初は同僚に載せてもらって、途中から自分で買った中古の軽自動車「ホンダのゼット」に乗って。
団地の一角にあるお店で働いて、昼休みには近くの喫茶店に行くのが日課だった。団地の外には出たことがないので、相生山周辺のことは何も知らない。
学部にも進学せずに大学を終えたので、当時、名古屋大学にいたはずの網野善彦さんとも会うこともなく、もちろん「焼き鳥屋」さんとも遭遇せず、時は過ぎた。
40数年もあとに、相生山のことをいま読もうとは思いもしなかった。