本と映像の森48 宮崎吾朗さんアニメ『ゲド戦記』
「ゲド戦記」全6巻を読んでしまったので、仕方なく、ツタヤ高林店で、アニメ映画「ゲド戦記」を借りてきて、初めて見ました。
第1印象は、はて、確かに、原作「ゲド戦記」のアレンやハイタカやテナーやテルーは出てくるが、配役はともかく、これが「アースシー」世界か?と言われると、似て非なる世界ではないでしょうか。
「アースシー」世界が生き生きと成り立っているのは、ゲドやアレンやテナーが、風が吹き、星がまたたき、花が咲き、草がそよぐ「現実世界」と深く交流していることからです。
第1巻でも、ゲドは「影」を呼び出してしまった後、深く反省して、自然や動物との交流をすごくしています。
同時に、第1巻「影とのたたかい」のゲドや、第2巻「壊れた腕輪」でのテナーは、そこで自立して、あるいは他の人間への寄りかかりを拒否して、自分自身を取り戻していることです。
こう書いてきて、わかりました。
つまり、肯定すべきものと、否定すべきもの、ですね。
単純に言うと、自然の肯定と、人工の否定、ということでしょうか。
生と死の肯定、と言ってもいいでしょうか。
今日は、まだ思考過程です。
もっと、もっと、N子さんや旅の仲間たちと論議していきたいと思います。
アニメ「ゲド戦記」のいちばんの問題は、自分の影とのたたかい(原作第1巻)と、自分の自立(原作第2巻)と、生と死の問題(原作第3巻)、あるいはそのあとの(原作第4巻から6巻)、それらを、ぜんぶまとめて、いっっきょに、解決しようとしたことではないでしょうか。
原作で読む限り、作者は、一歩一歩、のろいくらいの歩みで、階段を上っていくようです。
それは、ぼく雨宮や、妻のN子さんの人生と同じです。
すこしづつ、すこしづつ、歩いて行きます。
でも、30年も立てば、少しは歩いてきたなと、言えるかな。
「ゲド戦記」全6巻を読んでしまったので、仕方なく、ツタヤ高林店で、アニメ映画「ゲド戦記」を借りてきて、初めて見ました。
第1印象は、はて、確かに、原作「ゲド戦記」のアレンやハイタカやテナーやテルーは出てくるが、配役はともかく、これが「アースシー」世界か?と言われると、似て非なる世界ではないでしょうか。
「アースシー」世界が生き生きと成り立っているのは、ゲドやアレンやテナーが、風が吹き、星がまたたき、花が咲き、草がそよぐ「現実世界」と深く交流していることからです。
第1巻でも、ゲドは「影」を呼び出してしまった後、深く反省して、自然や動物との交流をすごくしています。
同時に、第1巻「影とのたたかい」のゲドや、第2巻「壊れた腕輪」でのテナーは、そこで自立して、あるいは他の人間への寄りかかりを拒否して、自分自身を取り戻していることです。
こう書いてきて、わかりました。
つまり、肯定すべきものと、否定すべきもの、ですね。
単純に言うと、自然の肯定と、人工の否定、ということでしょうか。
生と死の肯定、と言ってもいいでしょうか。
今日は、まだ思考過程です。
もっと、もっと、N子さんや旅の仲間たちと論議していきたいと思います。
アニメ「ゲド戦記」のいちばんの問題は、自分の影とのたたかい(原作第1巻)と、自分の自立(原作第2巻)と、生と死の問題(原作第3巻)、あるいはそのあとの(原作第4巻から6巻)、それらを、ぜんぶまとめて、いっっきょに、解決しようとしたことではないでしょうか。
原作で読む限り、作者は、一歩一歩、のろいくらいの歩みで、階段を上っていくようです。
それは、ぼく雨宮や、妻のN子さんの人生と同じです。
すこしづつ、すこしづつ、歩いて行きます。
でも、30年も立てば、少しは歩いてきたなと、言えるかな。