雨宮日記 10月18日(水) 腰がいつも痛い
ずっとそうなのがだ、腰が痛い。これは、脳出血の前からの持病で、起きあがるときに腰が痛くてしかたない。
イスにずっと同じ姿勢でいると、痛くなる。季節には、あまり関係はない。
☆
寒くなったので、カモが馬込川に飛んできた、と則子さんが言っていた。おかえりなさい。オオバンたちは、まだらしい。
雨宮日記 10月18日(水) 腰がいつも痛い
ずっとそうなのがだ、腰が痛い。これは、脳出血の前からの持病で、起きあがるときに腰が痛くてしかたない。
イスにずっと同じ姿勢でいると、痛くなる。季節には、あまり関係はない。
☆
寒くなったので、カモが馬込川に飛んできた、と則子さんが言っていた。おかえりなさい。オオバンたちは、まだらしい。
古代ブログ 11 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 4 天竜区の光明山古墳
浜松市の最大規模の前方後円墳は、三方原台地には無く、天竜区の天竜川が平野に出る直前にあります。
光明山(こうみょうさん)古墳は長さ82メートル、浜松市内で最大で、後円部は直径42メートル、高さ8メートルです。
巨大なのと、光明寺に隣接しているので草に覆われていて、古墳の輪郭は定かではありません。ただし、冬に行けば、どうでしょうか。ネットで「Google アース」で見ても、あまりよくわかりません。
☆
『静岡県史 通史編 1 原始・古代』に3箇所で叙述があります。。
219ページ 「すでに松林山古墳、銚子塚古墳など100メートルを超すほどの大型前方後円墳は4世紀代に出現していたが、5世紀になると畿内系の古墳という範疇で理解できるような古墳 ー たとえば天竜市光明山古墳、磐田市堂山古墳などの90~100メートル級の前方後円墳も認められる。同時にこの時期には有数の大型円墳が登場し、首長層の中にも重層的な階層差のあったことがうかがわれる。」
245ページ 「F2【天竜川流域(左岸)ー石田古墳群ーの磐田北大支群】には4世紀の古墳はないが、5世紀の大型前方後円墳(光明山古墳)が含まれている。その占地は、天竜川平野の扇央を押える位置にある。そこで、4世紀代に天竜川の東と西に地域を分けていた勢力圏が5世紀に統一され、群集墳盛行期になるとD・E・Fの3地域に分立したとする構想が成り立つことになる(浜松市博物館『古代の浜松』昭和62年)。」
404ページ 「この地域に土師部がいたことは疑いない。とくに京見塚【磐田市の円墳、直径47m、高さ8.1m、5世紀後半】の埴輪窯で焼かれた円筒埴輪と同一の製品が、天竜川沿いの光明山古墳(全長88メートルの前方後円墳。天竜市山東)と千人塚古墳(径50メートルの円墳。浜松市初生町)から出土しており、水運を使った搬出・輸送も考えられている(『磐田市史』資料編1)。」
また、神谷昌志さんの『遠州歴史散歩』静岡新聞社、1989年、の「光明寺と光明山古墳」(p114~115)によれば「昭和30年に静岡県の文化財に指定された。この古墳は昭和10年光明寺がこの地に移ってきた時点ではまだその存在が判らなかったが、数年後に埴輪の破片が発見されたことから古墳であることが判り、昭和46年古墳の南側に老人憩いの家を建設するにあたって、隣接地にあった円墳を調査したとき、本格的な測量を実施し・・・・天竜市【現在では浜松市】最大の古墳であることが判った。」(p115)
以下、過去の再録を3つ「遠州の遺跡・寺社」の「25」「26」「27」まで
「遠州の遺跡・寺社 25 天竜区の光明山古墳を暑いなか…
2010年08月17日 05時14分57秒 | 遠州古代史
二俣にN子さんと車で出かけたので、ついでに、以前から行ってみたかった光明山古墳(こうみょうさんこふん)と光明寺を見に行きました。
土地勘はないので、天竜区役所(建て替え中)から少し東という感覚で、最初入っていった谷間は、現地の山の西側の谷で、間違いでした。
もう一度、谷間に入った道に戻って目の前に見える山の東側へ回りました。「光明寺」と書いてあったので山裾を巡る道を、車で上へ上りました。
光明寺へ登る階段を見つけたので、空き地に車を止めて、二人で北へ登ろうとして、南側を見たら、なんとそこに「光明山古墳」の看板が立っていました。
あ!これだ!
これが新浜松市内で最大の古墳なんですね。
古墳らしく整備されているのではないので、看板がなければ、樹木のおいしげる、たんなる山です。
たしかに、周りの谷を見下ろす尾根の頂点にあるので、きちんと整備して古墳の前方部に立てるようにしてもらえば、この位置の重要性が感覚出来ると思います。
南北の方向の前方後円墳で、長さ82メートルは浜松市内で最大で、後円部は直径42メートル、高さ8メートルです。
なんで、平野に出たもっと南ではなくて、天竜川が平野に出る直前の山の上に、浜松市内最大の前方後円墳があるのかという問題です。
やはり、これは、長野県に分岐した出雲勢力が天竜川を南下したことからくるのではないでしょうか。
つまり、南から海から来た古墳ではなく、北側から天竜川を南へ下ってきた古墳です。
浜松市の解説では、古墳時代中期の、5世紀後半の古墳のようです。
この古墳を築いた二俣の古代豪族と、もっと南の天竜川に住み着いた豪族との関係を知りたいなと思います。
ちょうど、ほかのご夫婦といっしょになって、そのご夫婦も、いっしょに浜松の古墳を回っているそうで、浜松の古墳談義に花が咲きました。
蛭子森古墳や内野古墳群は行ったそうですので、ぼくのおすすめは「入野古墳は、頂上から下の平野が見れていいですよ」と話しました。
こういう古代史マニアがもっと増えるといいですね。」
「遠州の遺跡・寺社26 天竜区の光明寺と光明山古墳
2010年08月20日 05時12分48秒 | 遠州古代史
「遠州の遺跡・寺社25 天竜区の光明山古墳を暑いなか…」で書いた光明山古墳のすぐ北側の階段を上っていくと、光明寺の境内です。
目の前に、大きな「大黒堂」があって、まさしく金色のお顔の巨大な「大黒様」がニコニコして座っていらっしゃいました。
どうみても、藤子不二雄さん(どっちか忘れました)のマンガの主人公です。いま、あのおじさんの名前が出てきません。年ですねえ。思い出したら、加筆します。
やはり山伏さんや修験道とも関係する山岳寺院なのでしょうね。
右に(東に)ある社務所でN子さんが何か買っているので、ぼくも行って、聞いてみました。
「上の方にあるあの寺院はなんですか?」
「ああ、あそこが、ここのご本尊さまの摩利支天さまですよ」
「へえ、でもこの暑さじゃ、登っていくのはきついですね」
「そうですね、ぜひ涼しい季節においでください」
「はあい、秋になったらまたきますね」
その摩利支天さまですが、かなり複雑な性格のようで、調査研究します。
今日書きたいのは、その光明寺と光明山古墳の関係です。
つまり、光明寺へ登っていく階段を望む位置に、なぜ光明山古墳があるのでしょうか。しかも、光明山古墳は、南北方向なので、被葬者の豪族の遺体は南北向きに寝かせられたとみるのが妥当な線でしょう。
光明山古墳に埋葬されている5世紀の天竜の支配者・族長と、光明寺の関係が問題なのですが、古墳とお寺とどっちが先であるにしろ、古墳に埋葬された支配者(男女かは不明)が、死後に神仏に参拝するとすると、ちょうどいい位置に階段があって、ということになります。
ふつう、考古学者と宗教学者を兼ねる人は、たぶん、いないので、こんな話を書く人も少ないかなと思いますが。
ぼくは、やはり、光明山古墳の被葬者(浜松市内で最大の古墳を築いた本人)が死後も神仏に参拝することを想定して、光明山古墳と光明寺の位置が決まったのだと思います。
もちろん、光明寺はむかしはもっと奥の「光明山」にあったり、という歴史がありますが、基本線は変わらないと思います。
もう一つ、同じような実例をあげておくと、東区の羽鳥八幡神社と蛭子森古墳です。
同じように、南北向きの羽鳥八幡神社の参道を延長すると、道の向かいの蛭子森古墳につきあたります。
しかも、円墳ですが、遺体の向きは南北向きです。
寺社と古墳の関係で、これほど明確ではないですが、近接して同一地内にあると解釈できるのが、浜北の六所神社と興覚寺後古墳、中区の蜆塚遺跡の蜆塚古墳と山神社です。
六所神社は南向きで興覚寺後古墳は東西、蜆塚古墳は円墳で山神社は東向きということで、その意味はもうすこし考えます。」
「遠州の遺跡・寺社27 天竜区二俣・光明山古墳の続き
2010年08月23日 04時56分11秒 | 遠州古代史
『天竜市史 上巻』(天竜市役所編集・発行、1981年)の「原始・古代編」の第2章「古代の天竜市域」の「第1節 光明山古墳」と「第2節 天竜市の古墳群」で、139ページから170ページまで、光明山古墳を始め、天竜市内の47の古墳(うち現存は39基)を解説しています。
145ページで以下のように推理しています。
「光明山古墳に葬られている人が、生前どこに住んでいて、どれ位の範囲に勢力を張っていたかよくわからないが、この古墳を作らした次の首長とその取り巻きは、山東一帯、例えば八幡遺跡や上市場遺跡あたりに居を構えていたのではないかと思われる。
そして、その勢力範囲は、後の古墳群のあり方から見て東は、豊岡村野部あたりまで、西は浜北区根堅から宮口あたりまでと考えられる。
とすれば、それは天竜川三角州地帯の頂点に位置するわけで、天竜川の水利権を掌中にした一大勢力ではなかったかと考えてみたくなる。」
生前どこに住んでいたかはともかく、その勢力範囲についての考察は妥当なものではないだろうかと、思います。
つまり、通常、いまの天竜区と浜北区に分けて、以前で言うと天竜市と浜北市に分けて考えてしまうのっが普通の思考法なのですが、この光明山古墳の主は、天竜区を南へ越えていまの浜北区の範囲まで掌握し、「天竜川の水利権を掌中」のものにしていたというのは妥当でしょう。
さらに推理するなら、その後、この「水利権」は誰かに奪われたと推理すべきでしょう。
この点については「遠州の遺跡・寺社」の別項で推理したいと思います。
そして、光明山古墳付近での古墳造営は断絶したと見て良いのでしょうか、それとも細々と続いていたのでしょうか。」
雨宮日記 10月17日(火) 片付け
「明日のために」、階段の下の物置を則子さんに捜索してもらう。沖縄の紙パネルと原爆パネルは発見する。林和江さん(こういう字で良かったっけ)のパネルは見つからない。
他にもごみかんの頃の紙をゴミ袋1袋ぐらい棄てた。則子さんは、まだまだやりたそうだったが、1時間くらいで今日は終わりとした。
則子さんは両足がなぜか痛い。いまのところ原因不明。
☆
ネットに接続したら、浜松基地のUH-60J1機が遠州灘で行方不明という。乗員のみなさんの安否が心配ですね。
乗員のみなさんが無事でりますように。祈っております。
雨宮日記 10月16日(月) 雨が続く
雨が続くので、お風呂の調子が悪く、追い炊きができない。だましだまし使う。
ビデオ編集、総がかり行動、5月が完成。
戦争遺跡ツアーガイド、則子さんや響夫妻の強力も得て、引き受けることにする。
浜松基地の「T-400移駐」問題の調査は「ピース浜松」の方へ掲載する。
☆
写真は台所に飾ってあるリンドウの花、ちょっとピンぼけ。
古代ブログ 10 緯度シリーズ ② 徳川・織田・豊臣の謎を考える 1
「古代ブログ 3 浜松(引馬)の太陽の東西線 蜆塚遺跡ー宗源院ー西来院ー普済寺ー曳馬城」(2017年09月03日 06時30分21秒 | 遠州古代史)を「緯度シリーズ ①」とする。
今年、徳川家康を何とも頼りない副主人公とするテレビ大河ドラマ、井伊家の「おんな城主 直虎」をやってる時に、家康の支配構図を考えるのも、一興だろう。
< 再録 > 浜松と遠州の歴史 徳川・織田・豊臣の謎を考える 1
2012年04月10日 14時15分43秒 | 浜松・遠州と日本列島の歴史
徳川家康さんは元は、松平元康さんといい、お父さんは松平広忠さん、お母さんはお大の方(かた)です。松平広忠さんは、父の松平清康さんの時代から岡崎城が拠点なので、家康さんも岡崎城で生まれました。
生まれる前に、なかなかお大の方が懐妊しないので、懐妊祈願に夫妻で行ったのが、鳳来寺山です。
家康さんが今川の武将として出陣していたときに、今川義元さんが桶狭間で織田に敗北し死亡、元康さんは独立し、まず最初に岡崎城の北にある松平の菩提寺・大樹寺に入り、それから岡崎城に入ります。
そして、家康さんは、浜松へ侵攻してから武田を織田と共同で攻め滅ぼして、駿府城に住みます。そのあと、江戸城にとなるのですが、最後は駿府城で亡くなり、祀られたのが久能山東照宮です。
これらの地点の緯度経度を並べると、以下のようになります。
岡崎城 愛知県岡崎市康生町
北緯34度57分22.71秒 東経137度09分31.7秒
大樹寺 愛知県岡崎市鶴田町広元5-1
北緯34度59分03.86秒 東経137度09分55.09秒
鳳来寺山 愛知県新城市 標高695m
北緯34度59分02秒 東経137度34分58秒
◎浜松城 静岡県浜松市中区元城町
北緯34度42分42.39秒 東経137度43分29.67秒
駿府城 静岡県静岡市
北緯34度58分45.96秒 東経138度23分00.9秒
久能山東照宮 静岡県静岡市駿河区根古屋
北緯34度57分53.47秒 東経138度28分03.33秒
◎江戸城 東京都千代田区千代田
北緯35度41分17.97秒 東経139度45分15.72秒
つまり、北緯34度40分線の浜松城、北緯35度40分線の江戸城以外の6つは、全て北緯34度57分~59分の範囲に東西に並んでいます。
つまり、家康さんは、こういう東西ラインの信仰、当時の「風水思想」に基づいて、聖なる地点として、駿府城や久能山東照宮を決めたようです。
古代で有名なのは奈良のまんなかを東西に通る「太陽の道」=北緯34度32分線ですが、それいがいにもたくさんの「聖なるライン」があります。
以下は「浜松と遠州の歴史 徳川・豊臣・織田の謎を解く基礎資料1(2012年04月09日 21時22分39秒 | 浜松と遠州の歴史)」のデータを参照してください。
① 九州の政治的中心である「太宰府」の真東に「宇佐神宮」があります。
② 天武天皇時代の政治的中心である飛鳥地方の真東に「伊勢神宮(内宮・外宮)」があります
③ 江戸城は、武田信玄のつつじヶ碕館(現在の甲府市)の真東にあります
④ 岡崎城から西へ35度線を延長していくと、清水寺・比叡山・平安京を通り、秀吉の伏見城・豊国神社を通ります
⑤ 織田信長の名古屋時代や安土城は、その他のラインと全くちがう北緯35度10分線です
⑥ 出雲大社・荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡・出雲の熊野大社・大山(だいせん)・伊吹山・岐阜城(一時期、信長さんが居住)・富士山などが同じ35度20分ラインです。
つまり代々の松平家や成り上がりの豊臣家は35度線の信仰(当時の思想で言うと「結界」でしょうか)を尊重していますが、神も仏もない、おれが神だという織田信長さんは、そういう古来の信仰ラインと関係なく、自分の育った名古屋の緯度に安土城を築いています。
まあ、だからこそ信仰のあつい明智さんに反乱をおこされたのかも、しれませんね。
そのほか、斜めのラインも発見されています。
① 江戸城の真北にある日光東照宮は、富士山と久能山東照宮を結ぶライン上にあります
② 出雲大社と平城京と伊勢神宮は同じラインで結べます
もっと個別に検討することが必要でしょうね。」
古代ブログ 9 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 3 中区上島6丁目の十湖稲荷さま
住宅街の中の神社。なんせ6年前の記事なので、今もそうあるかは不明。右手足がマヒしている現状では、すぐ近くでも、現実を確認するのも、むずかしい。許せ。
今後も、少しづつ過去の再録をしていくつもり。
お稲荷さまのことを理解するためには、たぶん泰(はた)族のことを理解できないといけないので、もっと勉強しないと。
< 再録 > 遠州の遺跡・寺社 65 中区上島6丁目の十湖稲荷さま
2011年11月23日 17時15分49秒 | 遠州古代史
浜松の上島の坂を登ってその途中の段丘の平地、グラウンドの東の住宅街の中にあります。
南北の道を東から入っていくのですが、参道が右に折れて、お稲荷さまは、南向きで、お稲荷様としては普通ですね。
なぜ「十湖」なのか、説明もないのでわかりません。もしかして浜松の俳人「松島十湖」さん?
見ての通り、二宮金次郎さんの読書姿の石像がありました。
なぜかお稲荷さんだけは、○○稲荷とか、□□□稲荷とか、個別の「個人名」ならぬ「個神名」があるようで、他の神さまのように、どこへ行っても同じ「スサノオ命」さんという、同じクローンみたいな感じと違います。すこしづつDNAが違うという主張みたいな。
なぜでしょうか。
☆補足
お稲荷さまは、名前の通り、稲作の神さまで、赤い鳥居と白い狐がシンボルです。
ネット事典の「ウィキペディア」では「日本にある稲荷神社は6万社を超えるとも言われており、屋敷神として企業のビルの屋上や工場の敷地内などに祀られているものまで入れると稲荷神を祀る社は数えきれない」と書かれています。
なかなか複雑な神さまのようで、全国総本山の「伏見稲荷」さまが、朝鮮系渡来人の秦氏の氏神さまのため、秦氏との関係も考えないといけないようですが、それだけではないようです。
研究課題です。
雨宮日記 10月14日(土) 雨の日
一日中、雨。こういう日は、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」がふさわしい。
だからと言って誰のでもいいというわけでもない。最初、YouTube で聞いた「雨の歌」は、耐えられなかった。たしかに楽譜的には「雨の歌」だが。
明日は「エアフェスタ浜松」だけれど、今日は1機も飛ばず、静かな空になった。こういう日ばっかだといいな。
昨日は則子さんに、本屋(高林のイケヤ)で本を買ってきてもらう。今日はこれを読む。中村文明さんの『教団X』と『R帝国』、それに定期購読の月刊雑誌『軍事研究 11月号』。
雑誌『軍事研究』は、事実に即して書かれている、いい雑誌だと思う。ボクは、戦争きらいな、平和大好き派だが、だからといって「軍事」とういう名がつくもの毛嫌い派ではない。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」という人がいて、困るんだ。「平和好き」「戦争嫌い」ということは「自衛隊嫌い」とイコール(同等)では、ありえない。
雨宮日記 10月12日(木) モズが鳴く秋
鋭い声で肉食鳥モズが鳴いている。あれは警戒音。同種類が近くにいるのか。
浜松基地航空祭が15日(日)にあるうので、当日に向けたT-4の飛行訓練なのか、空(そら)がやけにうるさい。
マニアのブログを探すと、T-4の多数編隊飛行をやっている。通常は、浜松の空を3機以上で飛ぶことはないと思う。
10日に衆議院選挙が「公示」。疑問をもって調べてみたら、公職選挙法では、通常の衆参選挙は「公示」で、補欠選挙や自治体選挙などは「告示」だそうです。
ボク、細胞一つだけ賢くなったな。
『落葉松』補遺 2 YS-11松山事故
私が生死の境を味わった二回目は飛行機事故である。昭和四十一年(一九六六年)の秋だった。長男は、来春の大学受験を控えて勉強中だった。
本屋の同業組合の親睦旅行を、その年は初めて飛行機を利用して、松山の道後温泉へ行くことにした。あいにくと朝から雨であった。
大阪まで新幹線で、伊丹空港から飛行機に乗るのであるが、雨が強くて欠航があり、飛行機のやりくりがつかないと見えて、待合室で待つこと予定より半日も遅れていた。
日曜日で大安であったので、新婚らしい若い人々で華やいでいた。やっと乗れるようになったのは午後三時頃であった。まだ雨は降っていた。
家では夕食も済んだ午後七時ごろ、長男は二階でラジオを聞きながら、受験勉強をしていた。
突然、ラジオがニュースで「松山空港で飛行機が墜落した」と報じたので、長男は階段を転げるように降りた。
「飛行機が落ちた!松山でYSー11が落ちた1」
ちょうど家内の母が来ていて話に興じているとろだった。さあ、それからが大変だった。
組合長の奥さんから、
「現地に電話するのだが、なかなか通じないので、もう少し待ってください。」
その後、
「ホテルには、まだ入っていないそうです。」 という連絡があった時は、誰も声を出す者はいなかった。家内の母は、
「私は悪いところへ来てしまった。」
と、オイオイ泣き出した。長男も、大学はあきらめるしかないだろうと思ったそうである。
しばらくして、「全員、ホテルへ着きました。」という連絡が入った。家内も縮まった生命を伸ばすことができた。家内の母は、ショックからか、私の帰りを待たず、翌日早々に帰京してしまった。
私たちの乗った飛行機は、国産プロペラ機のYSー11で、落ちたYSー11は私たちの便のすぐ一便後に着陸しようとして失敗した。
四五人乗りで、滑走路の短い地方航空向きの飛行機だった。天気が良ければ一時間の空路が、この日は一時間半かかり、安全ベルトは遂に降りるまで外すことは無かった。時々、エアーポケットに入ってガクンと落ちたりして、大丈夫かなと思ったものだった。松山空港へ着いた時は、もう薄暗く、雨は余計ひどく、風も強かった。
私たちの乗ったYSー11は、海側から滑走路に入り、山際の手前で止まった。飛行機は風に向かって着陸するので、次の便は、山側から海側に向かって降りたが、滑走路いっぱいでも止まれず、又舞い上がって着陸をやり直そうとして、風にあおられたか失速して海に突っ込んだ。
私たちはホテルに着いてから、テレビで事故を知った。私は、すぐに家に、確かに私が生きていることを電話して、安心してもらった。
運命の分かれ道がどこにあるか知らないが、今度も地獄門まで行きかけて戻ってきた。家内は過去に車事故と、飛行機事故と二回もショックを味わっている。いつも口ぐせに、
「あなたには貸しがあるわよ。」と言っていた。その貸しを、家内の介護で返すことになるとは夢にも思わなかった。
戦争と平和 4 米空軍がB-1Bをたびたび日本海に飛ばすわけ
アメリカ軍は、グアム基地のB-1Bを日本海で北朝鮮近くの空に、何度も飛ばしている。
これは、訓練のためだけか?
おそらく北朝鮮軍がこれを攻撃してくれることを秘かに期待する、挑発の意味があるのではないのか。
アメリカは伝統的に「開戦したい時、相手に先に撃たせる」政策だ。太平洋戦争の時の真珠湾、朝鮮戦争の時の38度線、ベトナム戦争の時のトンキン湾事件、湾岸戦争でのクウエート侵略容認、アフガン=アメリカ戦争の9/11などなど。
これらのアメリカの政策には説明が必要だろうから、別途書く。
現状では、アメリカ国民も武力行使には賛成多数ではない。
わざわざ北朝鮮近くの空を飛行して見せるのは、単なる訓練とは思えない。
北朝鮮軍の地対空ミサイルの射程内に、わざわざ入っているのでは、ないだろうか。
戦争と平和 3 10月7日(土) 空自小松基地に米軍F-16着陸
報道各紙によれば、午後1時10分ごろ、航空自衛隊小松基地(民間空港と共用)で青森県三沢市の米軍三沢基地のFー16戦闘機3機が緊急着陸しました。このため、民間機1機に約5分の到着遅れが出ました。
推定では3機のうち1機のFー16にエンジントラブルがあったようです。
航空自衛隊は「トラブルの詳しい原因や飛行目的など米軍の運用に関わることは答える立場にない」と言っています。
3機が飛び立ったかどうか、まだ不明(9日午後5時現在)。
☆
この米軍Fー16戦闘機3機は、九州・築城基地での「米軍再編に係る三沢飛行場から築城基地への訓練移転に関する訓練」(9月30日(土)~10月7日(土))に10月7日まで参加した機体6機のうち3機という推測が成り立ちます。
このことは報道では触れられていません。
以下、防衛省発表。
「米軍再編に係る三沢飛行場から築城基地への訓練移転に関する訓練計画概要について
平成29年9月22日
防衛省
米軍再編に係る三沢飛行場から築城基地への訓練移転(共同訓練)に関する訓練計画概要について、以下のとおりとなりましたので、お知らせします。
今回で訓練移転は82回目(国内48回、グアム等34回)となり、国内への訓練移転は、平成18年5月の再編実施のための日米のロードマップに基づき、二国間の相互運用性の向上及び米軍飛行場の周辺地域における訓練活動の影響を軽減するために行われるものです。
◯ 期間:
平成29年9月30日(土)~10月7日(土)
(ただし、土、日曜日は、訓練を行わない。)
◯ 参加部隊:
〔米軍〕
第35戦闘航空団(三沢)
〔航空自衛隊〕
第8航空団(築城)、西部航空警戒管制団(春日)
◯ 使用基地:
築城基地
◯ 演練項目:
戦闘機戦闘訓練等
◯ 使用訓練空域:
九州北方空域及び九州西方空域
◯ 参加規模:
タイプⅡ
〔米軍〕
F-16×6機程度、人員100名程度
〔航空自衛隊〕
F-2×4機程度
※ 本内容については、今後、変更される場合があります。
以上」
『落葉松』補遺 1 交通事故で「意識不明の重態」
私(注:節三)は以前、二回静止の境をさまよったことがある。一回目は昭和三十六年(1961年)だった。交通事故であったが、私が被害者で「意識不明の重態」であった。
六月の昼過ぎ、私は自転車で広沢の西来院(せいらいいん)裏の道路を北に向かっていた。蜆塚幼稚園より東進して来たオートバイと出会い頭に衝突したのである。
私は、はねとばされて道の反対側の側溝に頭をぶつけたものと思われるが、事故の時の状況は私は一切、覚えていないので、あとで警察の調書づくりのとき、警官より聞いてわかった。
元城町の山田病院に救急車で運ばれた。意識不明だったから、私は一切知らない。
家の前を救急車が坂を下っていったと、後で家内は言ったが、電話が入った時、家内は一歳になった娘をおぶったまま、室の中をぐるぐる意味も無く廻ったそうである。
病院へ来てから、動転している家内は横になっている私を見て、起こそうとし、
「あなた、あなた。」と顔へ手をやろうとした。看護婦に、
「あ!駄目、駄目、動かしては駄目、さわっちゃ駄目よ。」と叱られた。
「今はね、じいっとさせとなかくては駄目よ」
もしもの場合を考えた家内は、中、小学生の息子二人と一歳の娘をかかえて、どうしたらいいのだろうと思ったが、それ以上には考えられなかったと後で言っていた。
私は、医者が傷口を洗っているか、何か神経にさわって一度気がついたのを覚えているが、そのあとは知らず、医師が戻ったのは夕方であった。
頭を打って、少し切った傷口があって血が出たのがよかった。頭部内出血で、脊髄液をとると、赤く濁っていた。
オートバイの加害者は、高校を出たての青年で、その母親が毎日病室に来て涙ながらに、家内に謝るのであった。
「こんな小さいお嬢さんがあるのに。」
夕方、意識を回復した私は、そのあとは割合早く治って、じっとして動けない毎日であったが、二週間ほどで退院することができた。脊髄液もきれいになっていた。
配達先のある学校の先生は、こう言った。
「なんだ君、生きていたのか。死んだのかと思ったよ。新聞に重態と出ていたからな。」
後年、孫とよくこんな話をした。
「おじいちゃんはね、地獄まで行ってきたのだよ。」
「地獄!鬼がいたでしょ。」
「えんま様がね、おじいちゃんんが来るには早すぎる。帰れ!帰れ!というもんだから、帰って来たのさ。」
「ほんとに、えんま様がいたの?どうして、おじいちゃんは天国に行かなかったの?」
< 「補遺 2」へ続く >
戦争と平和 2 「ピース日記 10月6日(金) 「平和新聞」誤植訂正」
「平和新聞」は日本で唯一の個人加盟の平和運動組織である日本平和委員会の新聞で月3回刊行です。
その10月5日号に間違いがありました(たぶん)ので、東京の日本平和委員会へ電話しておきました。
その(3)面です。大きな写真が掲載されていて、米空軍のBー1B爆撃機が2機、岩国海兵隊のF35Bが2機写っています。
問題はもう1種類、真ん中に写っている戦闘機2機です。写真の見出しには「自衛隊のF2戦闘機」と明記されているのに、写真に写っているのは、明らかに「F-15」です。写真からは日本のものか、韓国のものかは、わかりません。
いずれにしろ航空知識が薄いことから原因で起きたミスだと思います。次号で訂正されるかどうかは、注目です。
「平和新聞」は、毎月400円、郵送の方は月80円プラス。誰でも読めます。
戦争と平和 1 はじめに
新たに「雨宮智彦のブログ」で独立に、この「戦争と平和」を始めることにした。
やはり、戦争と平和の問題は、ボクの20代の若い頃からの、半ば専門、仕方なく専門でやってきた。古代史のように100%喜んで専門ではないのだが。
「ピース浜松 市民の平和ブログ」と共に、長く続くようにしたい。ほぼ公式ブログ「ピース浜松」とは補完の関係にある。
雨宮日記 10月7日(土) 総がかり行動のビデオ3月、完成
総がかり行動のビデオ、3月が完成。「ピース浜松」へアップする。3月の高田健さん講演が大事な内容であると思う。
ちゃんと講演ビデオをつくろうと決める。
則子さんのカゼ悪化、2日目。熱が少しあり、せきが続く。足がふらつくので少し心配。
ぼくは昨日少しせきがあっただけで、すぐ治る。