雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

新・本と映像の森 181 萩尾望都『ポーの一族 3 小鳥の巣』小学館

2018年09月20日 11時28分41秒 | 本と映像の森

 

新・本と映像の森 181 萩尾望都『ポーの一族 3 小鳥の巣』小学館

 以前に3つ、萩尾望都さんの「ポーの一族」について書いた。

 「本と映像の森 214 萩尾望都さん、連作「ポーの一族」を読み返したい
2012年07月06日 06時38分08秒

 「新・本と映像の森 148 萩尾望都『ポーの一族 1』フラワーコミックス、小学館
2018年06月22日 02時15分19秒 | 本と映像の森」

 「新・本と映像の森 79(マンガ12・SF19) 萩尾望都『ポーの一族 春の夢』小学館、2017年 2017年08月07日 14時52分38秒」

 でも、やはり「小鳥の巣」は傑作だと思う。萩尾望都さんの作品で1つだけあげよと言われればボクは「小鳥の巣」をあげる。

 ある年(この作品では具体的な年は言われない)3月、ドイツのギムナジウムに2人の少年が転校してくる。この「小鳥の巣」は、その3月から学園の創立祭の5月までの物語である。

 転校してきたのはエドガーとアラン。

 迎える主な主人公はキリアン・ブルンスウィックと左足の悪いマチアスと委員長テオ。

 出てこない影の主人公はエドガーの妹で死んだメアリーベルと学園で2年前に自殺した少年ロビン・カー。

 あと登場人物はグロフ先生と同級生たち、上級生2人。

 小道具はー

 クツヒモ
 グロフ先生の時計
 エドガーの持っているバラのエッセンス
 マチアスノの温室
 図書室のうえの張り出し窓
 湿地

 舞台装置は学園祭の演劇。

 そして悲劇の幕は切って落とされる。何が悲劇か?過去と現在の二重の意味で。


 以前に「古代史考 マザーグースの葬送歌と『古事記』の葬送歌と萩尾望都さん『小鳥の巣』」を書いた。

 それを再録する。

「古代史考 マザーグースの葬送歌と『古事記』の葬送歌と萩尾望都さん『小鳥の巣』
2012年08月20日 06時34分21秒 | 古代史を考える

 少し、自由に、日本の古代史について、書いていきます。

 イギリスの童謡「マザーグース(直訳すると「母さんガチョウ」)の中に「誰がクックロビンを殺したか」という有名な歌があります。

 「クックロビン」は「雄の駒鳥」のことです。

 以下、訳して見ました。

  誰が 殺した クックロビン、それは私、とスズメが言った、私の弓と矢で、私が殺した クックロビン

  誰が 死ぬのを 見た?、それは私、とハエが言った、私の目で、私が見た、彼が死ぬのを

  誰が 受けた 彼の血を?、それは私とサカナが言った、私の小さな皿で、私は受けた、彼の血を

  誰が つくるの 白い死に装束?、それは私、とカブトムシが言った、私の鍼と糸で、私は作る、死に装束

 まず、この歌をテーマに使った推理小説が、ヴァン・ダインさんが1929年に発表した『僧正殺人事件』です。そして、日本では、漫画家の萩尾望都さんが『小鳥の巣』のなかで使ったので、ボクは初めて、マザーグースの「誰が殺したクックロビン」を知りました。

 ドイツのギムナジウムで、14才の少年たちが織りな思春期の切ない物語です。「小鳥の巣」は、連作「パンパネラ」一族のシリーズなのですが、吸血鬼として永遠の生を生きる、主人公のエドガーやアランと、つかのまの青春を生きる少年達との対比が印象的です。

 「小鳥の巣」は、ロビン・カーが飛び降りてしまったあと、遅れて、学園にやってきたエドガー・アランと、在校生のキリアン、マチアス、テオとの興隆と確執が悲劇に終わります。なにが悲劇か、作品を読んでください。

 「日本古代史考」なのに、何が関係アルの?

 実は、『古事記』に、似たような物語があるのです。

 高天原の神々が、ニニギさんを派遣する前に、実は何人も派遣して失敗していました。その一人が「天の若日子」さんでした。ところが派遣された天の若日子さんは、大國主の娘の下照る姫さんと結婚してしまい、住み着いてしまいました。

 若日子さんが、高天原から「どうなってんの」と派遣された女性を射殺した矢が天井に届いて、それを最高責任者の高木神が投げ返したら、若日子の心臓を貫いて死んでしまいました。

 そこで「若日子が死んだ場所に、もがり屋を建てて、鴈を食べ物を備える役に、サギをほうきで掃き清める役に、カワセミを料理を作る人に、スズメを碓をつく女に、雉を泣く女の役に定めて・・・

 ユーラシア大陸の東の端と・・・西の端と・・・何か関係あるんでしょうね。

ところで、アランは途中で、不慮の事故で消滅しちゃったけど、エドガーは物語の中では・・・2012年の今も。生きているはずです。いまも、10代の若い姿のままで……。

 初めて「ポーの一族」シリーズを読んだ時は、たぶん20代でしょうか。今は、ぼくも、もうじき60才です。」

 「小鳥の巣」の魅力は主人公のモノローグに沿って書かれた萩尾望都さんの詩です。全文を紹介したいくらいだが、みなさんは自分で読んで欲しい。マンガだとふつう「見る」ものだが。

「小鳥の巣」は詩集を読む気で読んで欲しい。

 ストーリーをほとんど書かなかったけど、ま、いいか。

 


切手は世界 1 切手収集趣味について

2018年09月19日 22時24分47秒 | 切手は世界

 

切手は世界 1 切手収集趣味について

 たぶん中学生ぐらい(?)から隠れ「切手収集」趣味でした。あまり公言はせず、こっそりと集めてました。今は集めてはいませんが、コレクションは手放さずにいます。

 少年はなんでも集めたがるもんなんです。

 日本切手も外国切手もあります。何種類ぐらい、あるか判りません。

 その切手を死蔵するのも、手放すのもイヤなので、少しづつ紹介していきます。則子さんには未使用の切手は、それぞれ1枚だけ残して使っちゃっていいですよと言ってあります。

 最初「切手の世界」というタイトルをつけたのですが、フッと気がついて「切手は世界」というタイトルに変えました。「切手は宇宙」というのも思いついたのですが、天文切手だけと誤解されるので、やめました。

 2008年に世界中の切手の種類を数えたら72万種類だったそうです。1日に1つ紹介していくと10年で3650種を紹介できます。まあ、はかない人生ですね。

 次から持っている切手を1枚1枚紹介していくつもりです。

 


古代ブログ 89 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 51 浜松市北区引佐町「北岡大塚古墳」<再録> 20180917

2018年09月19日 15時47分37秒 | 遠州古代史

古代ブログ 89 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 51 浜松市北区引佐町「北岡大塚古墳」<再録> 20180917


 場所が「稲佐」つまり「イナサ」という出雲に縁のある地名、というのは偶然ではないと思う。

 しかも「前方後方墳」なのだ。「出雲型」といっていいのか、ボクは考古学の最新情報に詳しくないから解らない。

 もっと勉強しなくっちゃ。

「遠州の遺跡・寺社・地名 115 浜松市北区引佐町「北岡大塚古墳」
2013年10月18日 20時16分01秒 | 遠州古代史

遠州の遺跡・寺社・地名 115 浜松市北区引佐町「北岡大塚古墳」

 北区引佐町の「前方後方墳」に行ってきました。古墳の位置は「稲佐総合公園」の北西、「稲佐変電所」の北側、「北岡」の山の上です。

 ぼくと則子さんは、「北岡大塚古墳」という看板の出ていた、道路の横の小スペースに軽自動車を止めて山道を登っていきました。

 山道を登って、山の南側を東へ回って行くと、頂上近くで西側に、なんと「墓地」になってます。その墓地の北側の道を西へ入っていくと奥の林のなかに「北岡大塚古墳」があります。ただし、囲われているので、古墳の東から「後方部」を眺めるだけです。

 いまのところ、天竜川西の西遠地方では最古の古墳と推定されています。保育社から発行された『日本の古代遺跡 1 静岡』(1982年、たぶん絶版)には、発掘当時の古墳からの景観写真が掲載されていて「都田川流域を一望できる地に築造された」(p219)、「その立地は井伊谷(いいのや)の盆地だけではなく、都田川中・下流域の平野から、浜名湖や三方原台地までのぞめる地点にあり、浜名湖沿岸地域にはじめて出現した巨大な首長墓にふさわしい土地をえらんでいる」(p220)と書かれています。

 古墳と隣接する現代の「墓地」。もしかして、この古墳に祭られている豪族の現代における末裔たちの「墓地」かもしれない。この「墓地」のお寺はいったいどこなのでしょうか?ぼくたちは南西から登ってきましたが、この墓地へは東や北から道がありました。

 この古墳は1979年(昭和54年)に地元の古代史愛好家が発見し、1980年にまだ合併米の引佐町教育委員会と辰巳和弘さんが発掘しました。

 前方部から後方部(葬られた主体)を見る方向は、ほぼ東です。つまり、東向きです。全町46.5m。東の後方部は1辺が26.5mで、高さ3.6m。西の前方部は1辺が20.0m、高さ2.0mです。

 葺石や埴輪はなくて、浜松市発行のカラーパンフ『浜松の古墳めぐり』(2008年)によれば「古墳時代前期中頃、4世紀前半代の築造」(p42)とされています。

 さらに同パンフでは、48ページの「天竜川流域・都田川流域の古墳編年表」で、都田川流域の古墳のはじまり「北岡大塚古墳」、天竜側東岸の古墳のはじまり「磐田市 小銚子塚古墳」、磐田原台地南部の古墳のはじまり「稲荷山古墳」がいずれも、同じ4世紀初めの同時期に作られ、しかも前兆が北岡大塚46.5、小銚子塚=47,稲荷山=46,とほぼ同規模です。

 つまり、同規格でつくられた?もう少し踏み込むと、同じ、技術者集団が作ったと言ってもいいのでは?」

 


雨宮日記 9月18日(火)の2 映画監督バクリーさんの講演ビデオ編集

2018年09月18日 19時25分34秒 | 雨宮日誌

 雨宮日記 9月18日(火)の2 映画監督バクリーさんの講演ビデオ編集

 9月17日におこなわれた映画監督バクリーさんの講演ビデオを編集した。映画「思いやり」などの監督。

 まず「ニュース」として4分01秒の紹介ビデオを、まず作成した。もう少し長いのは後で。

 


古代ブログ 88 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 50 イナサと小国神社と「国譲り」神話<再録>

2018年09月18日 09時50分25秒 | 雨宮日誌


古代ブログ 88 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 50 イナサと小国神社と「国譲り」神話<再録>

 

「遠州古代史 イナサと小国神社と「国譲り」神話
2012年09月15日 16時51分01秒 | 遠州古代史

 「古代史の本」で紹介した「池田潤著『古事記のコード 太陽のラインと隠された古代地図』戎光祥出版、2011年」に解明されていたことを紹介します。
 新浜松市の北区に「引佐町」があります。この「いなさ」「引佐町」は合併前からの古い町名です。この「引佐」に関連した点です。


 まず出雲神話で高天原からの遠征隊が出雲に降り立って、出雲の王者「大国主(おおくにぬし)」に「国譲り」を迫った歴史的な事件です。この時点で、日本列島の支配権が出雲国家から新しい「天孫族」に移ったわけです。
 この遠征隊が降り立ったのは「稲佐の浜」でその真東に大国主の大神殿「出雲大社」があります。この国譲りは有名な話しです。

 ところがあまり知られてない、別の国譲りの話しが伊勢にあります。『伊勢国風土記逸文』によれば西から進撃してきていったん敗戦で南から大和に侵入したイワレ彦(後世名、神武天皇)が天日別命(あめのひわけみこと)に、ここから東へ行けと命令されて兵を率いて伊勢へ行き、土着の伊勢津彦という神を「国譲り」させ、追い払って(信濃に移住したとあります)伊勢をヤマト国家の領土にしたという話です。
 そしてこの伊勢の地にヤマト国家が創った伊勢神宮が、じつはヤマトのいなさ山の真東にあるのです。

 つまり、2ヶ所で「いなさ」は天孫族による土着の国つ神へのお「国譲り」と関連しています。そして「いなさ」と重要な神社は東西線に乗っています。とすると、浜松の「引佐」も、そういう関連を予測することができます。遠州は出雲系の神々が多いところです。

 遠州の一宮は森町の「小国神社」です。祭神は出雲系のオオナムチ命です。大國主と同一視されますが、それが正しいかは別にしても出雲系であることはたしかです。
 さらに「大国主」「大きい国」にたいする「小さい国」「小国」は呼び方が合っているのではないでしょうか。 
 しかも、小国神社から西に延ばした東西線は、引佐町の中をつっきっています。何か、この線の上に重要な山や神社があるでしょうか?あるいは古墳?

 今日発見したのですが、この線をさらに西に延ばすと、西隣の「三河国」の一宮である「砥鹿(とが)神社」が同じ線上にのってきます。祭神は同じオオナムチ命です。
 漢字にすると「大己貴命」です。
 ネット「ウィキペデイア」で見ると、小国神社は北緯34度50分51秒。砥鹿神社は北緯34度50分51.59秒。わずか0.59秒の違いしかありません。基準点は不明ですが、偶然の一致ではないと思います。どうでしょうか?

 考えられるのは、この遠州にも他の2カ所のような「国譲り」の神話が本来存在して、弥生の出雲系の在来勢力をヤマトから来た新興勢力が征服した実話と物語があったのではないでしょうか。」


雨宮日記 9月18日(火)の1 薔薇は、いつまでも薔薇なのだ

2018年09月18日 08時36分26秒 | 雨宮日誌


 雨宮日記 9月18日(火)の1 薔薇は、いつまでも薔薇なのだ

 家の庭に咲いている花を則子さんが、ボクがめったに庭を見れないからと、切って花瓶様のものに水を入れて射して台所に置いてくれる。

 このバラは2週間前に持ってきたもの。バラはいつまでもバラなのだ、ということをわからせてくれる。

 ところでバラならいいけど、薔薇となると、もう「書けない」。人類の進歩は、一方で人類の退歩です。

 


雨宮日記 9月17日(月) 孫が書いた絵

2018年09月17日 23時09分57秒 | 雨宮日誌


 雨宮日記 9月17日(月) 孫が書いた絵

 写真は14日に則子さんが幼稚園で「祖父母の会」へ行ったときに孫からもらったもの。

 4才の男の子です。もう空想の世界にひたれるので「○○○○になりきって」がおもしろいと則子さんは言ってました。

 下の2才の妹も、もう「痛いの、痛いの、飛んでけー」がわかるといいます。 


古代ブログ 87 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 49 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎<再録>

2018年09月17日 13時03分08秒 | 遠州古代史


古代ブログ 87 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 49 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎<再録>

 「古代ブログ 36 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 20 北区引佐町の天白岩座遺跡<再録>」を再録しているので、これが第1弾。

 「古代ブログ 86 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 48 引佐町の龍潭寺の石庭<再録>」が第2弾。

 これが引佐町のシリーズ第3弾。

 以下、再録。

「遠州の遺跡・寺社 8 「井」の国、引佐町の支配者・井伊氏の謎
2010年04月19日 05時15分17秒 | 遠州古代史

 引佐町の龍湛寺の駐車場から南へ出ると、道は道なりに西へ曲がっていて,西へ曲がったすぐのところに「井伊氏の井戸」の看板が出ていました。

 初めて来たボクは、運転している車を慌てて、左折して細い道へ入りました。すぐ左側にその「井伊氏の井戸」がありました。
 
 井伊氏の始祖は、1010年(寛弘7年)に、この井戸で生まれたという井伊氏祖・備中守共保です。

 井伊共資さんという人が、渭伊社参詣時に 井戸脇に常人に見えぬ神童を発見して、我が子とし、一女と婚せしめたのが井伊家始祖共保という伝説があります。

 井戸のところに書いてあった解説では「又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります」とあり、びっくりしました。

 天日槍命なら日本に渡来した新羅の王子で、明らかに、古代朝鮮の新羅系の人です。
 そうすると、もしかしたら、「橘諸兄」など「橘」氏は、新羅系でしょうか?

 思い出しましたが、引佐町の西隣りの三ヶ日町は、橘諸兄の子孫の橘逸勢が、伊豆国への護送中に、遠江国板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没しました。
 これも何か、井伊氏と関係あるんでしょうか?

 そこで病没したということは、そこで熱心に看病してくれた人たちがいるということだと思います。

 もうすこし「橘」氏のことも調べます。」

 


古代ブログ 86 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 48 引佐町の龍潭寺の石庭<再録>

2018年09月16日 06時51分23秒 | 遠州古代史


古代ブログ 86 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 48 引佐町の龍潭寺の石庭<再録>

 自分でも何を書いたかさだかではなくなります。別に廊下現象や地方症ではありません。あ、老化現象や痴呆症ではありません。

 自分の再確認の意味でも、すこしづつ再録していきます。

「2010年04月13日 05時19分57秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社7 引佐町の龍潭寺の石庭(せきてい)

 4月11日(日)に、龍潭寺にも行きました。ここは、「井の国」=今の「引佐町」をすくなくとも平安時代(あるいはもっと前から)から江戸時代までの地域豪族「井伊氏」の菩提寺です。
 井伊氏の元祖・共保さんから40代の祖先をまつっています。

 ちょうど本堂の工事中でしたが、有名な、小堀遠州さんが設計した「石庭」は見ることができました。
 小堀遠州(こぼりえんしゅう)さんは、父親が豊臣秀吉の弟・豊臣秀長に仕え、遠州さんは茶の湯では、千利休さん→古田織部さん→小堀遠州さんという流れの宗匠です。
 さらに、建築や庭造りにも才能を発揮したマルチタレントです。

 この小堀遠州さんが企画・設計・監督した「石庭」は、龍潭寺へ来る前に見た「天白磐座遺跡」と多くの共通点があります。

 ① 自然の中に、たくさんの石が散在していること。
 ② 中心的な巨石がいくつかあること(天白磐座遺跡では、山頂の3つの石と西南の2つの石、龍潭寺石庭では両脇と中心の3つの石)
 ③ 周囲に緑の森が茂っていて、鳥の声が聞こえること
 ④ どちらも周囲に水が流れていること(天白磐座遺跡は神宮司川が、龍潭寺石庭は人工的な水の流れが)

 ここからは推理なのですが、天白磐座遺跡では、小堀遠州さんの生きていた江戸時代まで、祭祀が続いています。
 
 小堀遠州さんが、井伊家の当主の依頼を受けて、この「龍潭寺石庭」を設計したときに、地元の人あるいは井伊家当主さん自身から天白磐座遺跡のことを聞き、実際に、この天白磐座遺跡を見にいった可能性は大きいのではないでしょうか。
 あまりにも類似点が多すぎます。

 これ以上のことは、もっと小堀遠州さんのことを調べて書きたいと思います。」

 


過去現在未来のメモリーノート 41 組織・集団について変化することの考察

2018年09月14日 12時16分15秒 | 過去現在のメモノート


過去現在未来のメモリーノート 41 組織・集団について変化することの考察

 ① 変わったところ
 ② 変わらないところ
 ③ 変わるべきところ
 ④ 変わるべきでないところ

 もうすこし詳しくすると、わかりやすいかな。

 ① 変わったけど、変わらないところが当然のところ
 ② 変わったけど、変わるべきでない戻すべきところ
 ③ 変わらないけど、変わらないのが当然のところ
 ④ 変わらないけど、変わるべきところ
 ⑤ 捨てるべきところ
 ⑥ 新しく一新するべきところ

 ①④⑥は、区別ができないこともありそうです。②③も似ている。⑤⑥も似ているか。

 哲学用語でいうと「変化・変動・発展」など、政治用語でいうと「打破・革新・保守」など、いろいろある。

 今日は、この程度です。

 いずれにしろ、1人ひとりが自分で考えて責任をもつしかない。他人が責任をもつことはできない。

 20180914投稿

 


雨宮日記 9月14日(金) コオロギの声が…

2018年09月14日 11時38分02秒 | 雨宮日誌


 雨宮日記 9月14日(金) コオロギの声が…

 涼しくなったので、寒くなったら着るための上着を出してもらう。

 朝食のとき、台所でコオロギの声が遠くで聞こえた。「コオロギの声、聞こえる?」と則子さんに聞いたら「聞こえない」という。そこで1句。

 「1句できたよ」
 「どんなの?」
 「コオロギの声 聞こえないと 老婆は言えり」
 「なに?!ローマ?!」
 「いえ、なんでもありません」
 ボクはコオロギはローマにいるだろうかと思った。

 10時頃、則子さんは浜北の長女のところに行く.今日は幼稚園で「祖父母の会」でおじいちゃん・おばあちゃんが4人いるとして、そのうち1人が出席できるのだそうだ。

(「雨宮日誌」2365回)


新・本と映像の森 180 ネット・YouTube「池内さおり事務所開き(Tokyo 12 HAUS)」

2018年09月13日 09時37分05秒 | 本と映像の森


新・本と映像の森 180 ネット・YouTube「池内さおり事務所開き(Tokyo 12 HAUS)」

 この映像がおもしろいというのを紹介していきたい。

 東京12区の衆院候補池内さおりさんは、今年4月に共産党から次回公認を決めました。

 ここは、事務所作りから、たぶん党員だけでなく「サポーター」も主体となっているんだと思う。

 むづかしいけど、やれたら面白い。

 この事務所のコンセプトは

 ① けっして完成しない場所
 ② 一緒につくりあげていく場所
 ③ 地域の為に開かれた場所

 いいですね。

 「2018.09.07「衆議院東京12区 池内さおり事務所開き」: 事務所 (Tokyo 12 HAUS) 紹介 ?〝IKEBA PROJECT〟【2/13】」
  https://www.youtube.com/watch?v=J38s3mrIV14

 

 


戦争と平和 18 「青い地球」原稿 「青い地球」編集に復帰して 雨宮智彦

2018年09月12日 21時47分05秒 | 戦争と平和


戦争と平和 18 「青い地球」原稿 「青い地球」編集に復帰して 雨宮智彦

 今年夏、障害があるなかで、浜松市平和委員会理事になり、浜松市平和委員会機関紙「青い地球」編集長として復帰することができました。

 これも則子さんや仲閒の絶大な支援あってのことです。深く感謝いたします。

 9月15日号「青い地球」に載せたボクの原稿どおりで掲載します。もちろん、名前は実名で掲載されています。

 以下、原稿です。

「「青い地球」編集に復帰して  雨宮智彦

 2年4ヶ月前、2016年5月の真夜中に脳出血で緊急入院しました。64才で右半身不随になり、いまも右手・右足はほとんで動きません。外出する時は車椅子です。
残った左手で本を読み、食事をし、パソコンを打っています。妻の則子さんのアシストと介護でなんとか生きながらえています。

 退院した時は「要介護2」でしたが、1年後に「要支援1」に落とされました。介護行政の冷たさを身で味わいました。今年、介護度は「要介護1」になりましたが、身体の症状はほとんど変わりないのに、そんなに毎回介護度の評価がくるくる変わるのは何か決め方に欠陥があるのだと思います。

 頭と口と左手は幸いだいじょうぶだったようなので、今年の総会で「浜松市平和委員会理事」に選出してもらい、任務として「青い地球編集長」を申し出て受けました。

 もちろん取材・編集・印刷と、仲閒のみんなの協力抜きにはできない仕事です。ぜひあなたも原稿を書いてください。お願いします。

 「ニュー戦前」が急ピッチでボクたちの前に姿を表わしています。それも「改革」「平和」の旗じるしのもとに。 それに抵抗したたかうか、屈従しコントロールされ忖度し生きるか、無関心・無関係を装うか、逃げるか。

 私たちは、当たり前のことですが多数派ではありません。多数の人・中間の人・向こうがわの人・無関係の人をどう説得するか、ボクたちの側でよく考えてよく練った戦略・戦術が今求められているのではないでしょうか。

 ボクがあとどれくらい生きて、平和のために力を尽くせるのか誰にもわかりません。でもまだ自分の命あるかぎり則子さんや仲閒とともに、戦争や核兵器に抵抗しあらがい、平和を広げていきたい。」