雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

みなもと

2015-12-31 00:07:10 | 願い
毎年毎年のことでもありますが、この時期の
「今年を振り返って」
的なTV番組を見たりなんかすると、
ちょっと心が苦しくなったりします。

勿論、明るいニュースも沢山ありますが、
ネガティブなニュースや出来事に心が痛む印象の方が
どうしても強く残ってしまいます。
それは、そんなニュースの中に含まれる社会の病理や人間の至らなさ、
未熟さなどを自然と心が感じ取ってしまうからなのでしょうか。

なかなか他人ごととも思えず。
自分も社会を通してそんな出来事達とどこかで繋がっている限り、
その因の一端を担っているのではないか......
というような気持ちになったり、
かといって、
自らの力ではどうにもできないような無力感にも苛まれてしまったり......
そんなことがまた、
心の痛みを増幅させたりもするのでしょうか。

大人ほどの分別が身についていない少年少女の痛ましい事件などからは、
僕ら大人社会が抱える問題や歪み
象徴的に表出しているような感覚を受けたり、
テロや戦争関連のニュースからは
「現」経済システムや宗教の限界を感じたりもします。
気象や地球環境のニュースなどからは
「現」文明の限界まで感じられたりもします。



だからこそ、
より良き未来へ、
僕らは強く進まなければならないのでしょうか......



様々な人々からよく指摘を受けるように、
この世紀までの文明は僕らの持つ「欲」によって
進化を遂げてきたようにも思えます。
それでは、これからの世紀においては、
進化のエネルギーの源泉となるものを、そろそろ、
そんな「欲」以外の何かに変えられるのか?どうか?
実は、そんなことが多くのニュースの奥底に潜んでいて、
この時代を生きる僕ら全員が問われていることの様にも感じます。



なぜそんなふうに感じてしまうのか?



自分がそうだからです。
自分の生活のモチベーションの源泉が
「欲」であることが否定できない事実だからです。
欲だって前進するための大事なエネルギーだと思っているからです。
もちろん、皆がそうだとは思いませんが、
少なくとも、僕に関しては、
そんな自分と毎日向かい合って自問自答をしてもいます。

自分は、
いつか「欲」ベースの邁進エネルギーから脱皮できるのだろうか?
文明の進化が欲エネルギーを基礎とする限り、
どんなに進んだ文明を手に入れたとしても、
そこからは貧困も、差別も、嫉妬も、怒りも、
無くならないのではないのだろうか?
宗教など、
本来はそんなエネルギーの源を正す目的や役割があったハズだと思うのに......
どれだけ意義深き崇高な教えであったとしても、
この世界に生まれ落ちた瞬間から多くの人の欲に絡まれ、
ソレが垢ともなり、
いつしか、誰かの、権力者の、
「利」の為の道具ともなってしまっているのではないか......
そんな道具となった時には最早、
本来の姿ではなくなってしまっているのではないか......



そんな教えや宗教の誕生してからの歩みや姿こそが、
実は、僕ら一人一人の生きる姿と重なって現れている
ことではないのだろうか......



なんなんだよ。殺人て。
なんだよ。テロって。
戦争って......なんなんだよ。
貧しいって、どうすりゃいいんだ。



胸が苦しくなります。



————————ある神様から降ろされた幾つかの言葉......



「暗闇の中でも目が利く事を思い出すのじゃ」

「わかっておるようでわからんのがそなた達の得意とするところ」

「本当の宗教とは何かということ。
そして利のあることでなく強く生きるということを教えてあげることじゃろうて......」



......神の言葉は、きっと、
そこらじゅうに溢れているのだと思います。
ありすぎて、
満ちすぎていて、
だから、気付けないだけかもしれません。
気付かないだけかもしれません。
普段、空気の存在を忘れてしまう様に。
キッチンの蛇口をひねると水が出てくることに何の疑いも持たない様に。



神とは愛そのもののコトなのだとも思います。
だから神も愛も、きっと、
そこらじゅうに溢れているのだと思います。



恋愛。
友愛。
夫婦愛。
動物愛に人類愛。
音楽愛に映画愛。
野球愛にサッカー愛
ゴルフ愛にラグビー愛。
ジャイアンツ愛だ、タレント愛だ、アイドル愛だ。
いや、空気があるのも愛。
海があるのも、山があるのも、
雨が降り、太陽が照って、隣に誰かがいるのも愛。
両親がいるのも愛。
両親がいないのも愛。
子供がいるのも、いないのも愛。
理不尽すらも愛。
苦悩だって愛かもしれない。

あの人も愛で出来ている。
この人も愛から生まれている。
花が咲くのも、枯れるのも愛で、
木が茂り、倒れるのも愛。

愛、アイ、あい。

あれも愛。
これも愛。
たぶん愛。
きっと愛。

ん?(・・?)

なんかの歌みたいやな(´・_・`)

でもきっと、そんなふうに、
愛だって神の言葉と同じ様にそこらじゅうにあるのだと思います。
正確に記せば、
そんな言葉達の様に何にでも付いているのものなのだと思います。
とかく何かと合わさっているから、
純粋にソレだけ取り出して見れない事が多いだけで、
本当はそんな言葉達や存在の分だけ愛はあるのだと思います。
本当は、こんな所では書ききれないほど世界は愛だらけで、
ソレに気づけば、身近な人が一番大切になるのだとも思います。

だから愛を感じるには、
難しいことなんて、きっと、
なぁぁーーーーーーーーーーーーんにもないのかもしれません。
もともとそこらじゅうにあるのですから。
だから、それに気づいた時には
突然世界が愛に満たされて見えたりもするのかもしれません。

そんなことも一瞬、一秒の気づきであれば
きっと誰でも一度は体感もしていることなのかもしれません。

一度も愛を体感していないのだとしたら、
そんなことを忘れているのか、
そんな気付き自体に気付いていないのか。
認めていないのか。
はたまた脳が認めようとしていないのか。
否定の心でもってソレに蓋をしているのか......
そんなこともあるかもしれません。

「欲」ではなく、
ましてや「利」のために変容してしまった教えや宗教でもなく。
そんな、そこかしこにある愛の様に、
神の言葉の様に、

「沢山満ち溢れているモノをエネルギー源と出来る」

ということの確立が、
次の文明や価値観の変容に繋がっていく様な気もします。
ただ、今の若い世代......というか、
満たされた世代というか、
足る事を知る世代というか、には、
そんな「欲世代」では想像も出来ない様なモチベーションや
エネルギーソースで力強く働いている人達も沢山出てきてもいて。
欲世代からすれば、
ソレはちょっと不思議で理解不能な人に見えたりもする様なのですが。
そんなところにも、僕は、
神の意図みたいなものをチラホラと感じ取れたりもするのです。



2015年の最後に、
僕はこんなとりとめの無い事を考えながらコタツにもぐり。
大好きなコナコーヒーを欲にまみれつつ
ポチポチと飲んでいたりしているわけでございます。



「京風うどんすき」の名店「権太呂(ごんたろ)」さん。
京都四条本店♪
名物の「権太呂なべ」。
欲世代にはジュル......( ̄¬ ̄)...っとおいちいのですな......



「愛と愛情の違いってなんだと思う?」

つい最近、こんな会話を、
このお気に入りのうどん屋さんでうちのスタッフとしていました。

「その仕事に関してだけ愛情が持てないんです。なぜだか......」

そう言うスタッフさんの質問に対しての僕からの答えは、
いつも、大体、この
意味論への入り口
という記事で記したことになったりします。

言葉はというものは本当に難しいです。

「愛」も捉えづらいです。

「愛情」も正確に掴むことはなかなか難しいです。

そんな事々は、神様を捉えづらいのと同じ話の様にも思えます。

愛情は「情」という付属部分が取っ掛かりともなれるので、
純然たる「愛」や「神」よりは捉えやすくなっているとは思いますが......
「情」をいかに理解するかによって、
また色々と違ってくるのかもしれません。
そのスタッフさんは、その後、また新しいアプローチで
仕事に挑戦できている様でなんだか良かったのですが。(^_^)
僕もそんなスタッフさんのように、
常に新しい挑戦が出来るような人でありたいと、
「欲世代」なりに切に思う年末年始でもあります。

♪ 毎年よく質問をいただく「初詣」に関しては、
何時ものごとく!?
こちらの記事を参考にしていただければと思います。
よい年末年始をお過ごし下さい。(^^)♫


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