......血は、血ででしか濯(すす)げないのか......
7人はソレゾレに様々な思いを抱えながら若神子神社を後にしました。
僕らはこの日も朝早くから動き回っていたので、
「この辺で休憩も兼ねてお茶でもしようか!」
と、「骨寺村荘園交流館」というところに寄ることにしました。
そこには骨寺村の名前の由来となる2つの伝承が記されている資料もあって。
見てみると、なんとなく、
どちらの説にも大本には共通する何かがあるように僕には感じられました。
そんな共通するモノこそが、
この村の深奥に秘されているものなのではないのか?
......と。そう思えました。
お話は「8」へと続きます。
「骨寺村荘園交流館」はこんな感じで。
鼻血で汚れた皆の手や、
ねーさんの服を洗ったりしながら一休みもしつつ......
館内にはカフェやシアターもあって。
空撮された骨寺村や、
その歴史などを見たり学んだりすることも出来ました。
この時のメンバーは全員、訳ありで?集まった?この地に縁深い人達だった為か、
上映中にはほぼ全員、
大の大人がそれぞれの感性と理由とで涙を流していました。
映像が終わり、シアターの明かりがつくと、
「ちょっと!どーしちゃったの?あんた達?何かあったの!?」
なんてスタッフさんに言われちゃう!的な。
かなりオカシナ画ズラだったと思います。
まぁ、ポンチキ極まりないメンバーで。
ほんと。呆れちゃいまちゅ。ええ。
そして、村の名前の由来に関しては以下の様な
二つの説明文がありました......
=================================
国の重要文化財となっている鎌倉時代に描かれた骨寺村の絵図には
「骨寺跡」「骨寺堂跡」という文字と、
建物の礎石のような図像が描かれています。
かつてここに骨寺という寺があって、
絵図が描かれた鎌倉時代の後期には廃寺になっていたことが分かります。
今はその跡も確認できませんが、
その寺の名前が村の由来になったと考えられます。
骨寺とは珍しい名前ですが、
亡くなった人の骨の一部を特定の聖地に納める風習(分骨)があります。
この骨寺はそのための場だったのではないでしょうか。
=================================
=================================
鎌倉時代の『撰集抄』という説話集に、平泉郡にいた一人の娘が、
天井裏の髑髏から法華経の読み方を習い、
その髑髏(ドクロ)を逆柴山に葬ったという話があります。
その髑髏は、
比叡山の高僧第18代座主の慈恵大師良源の髑髏(ドクロ)で、
葬った場所が慈恵塚だと本寺では伝えられています。
このことが、骨寺村という名前の由来であるともいわれています。
=================================
......やはり、
どこか共通点が潜んでいる逸話達の様に思えるのですが......
僕等はこんな感じで休憩のひと時を過ごし。
最後にもう一箇所だけ、
神々に言われていた場所へと向かうことにしました。
ソレが骨寺村の最奥地とも言える「山王窟(さんのういわや)」
骨寺村の南を流れる磐井川(いわいがわ)の上流、
矢櫃ダム(やびつだむ)の横に聳える断崖です。
この場所に関しては、
交流館のパンフレットには以下の解説がありました。
==================================
かつて骨寺村(ほねでらむら)と呼ばれた一関市厳美町本寺地区。
その西の境に山王窟(さんのうのいわや)という
切り立った岩山があります。
ここは昔「山王の鬼」と呼ばれた蝦夷(えみし)が立て籠もり、
ヘイダ(坂上田村麻呂:さかのうえたむらまろ)と激しく戦った場所といわれています。
ヘイダが陸奥国へ攻めて来ると、
最初に蝦夷の大武丸(おおたけまる)の一族は
鬼となって激しく抵抗しましたが、
家を焼かれ田畑を奪われた鬼たちは、逃げて
「五串村(いつくしむら:現在の厳美町)」
の山奥に立て籠もりました。
しかし一族を率いた大武丸は捕らえられ、後に
「鬼死骸(おにしがい:現在の一関市真柴)」
と呼ばれた里で首を切られ殺されてしまいました。
その時死骸を埋めた上に置かれた石は、
「鬼石(おにいし)」
と呼ばれています。
転がって落ちた大武丸の首は、目を見開いたまま跳びあがり、
飛び散った血飛沫(ちしぶき)は虻(あぶ)や蚊となって相手を刺し、
目に飛び込んで戦いました。
やがて力尽きたその首は
「鬼越沢(おにごしざわ)」
を飛越え、宮城県の
「鬼首(おにこうべ)」
に落ちて息絶えたといわれます。
五串村の山奥に立て籠もった大武丸の一族を追ったヘイダは、
ここ骨寺村まで攻めて来ました。
真坂の裏山の大きな穴に潜んでいた鬼たちは、
怒涛(どとう)のごとく押し寄せてきた大軍を防ぎようもなく、
磐井川を飛越えて逃げようとしました。
それを追って雨のように飛んでくる矢に討たれ、
倒れた鬼たちの死骸で埋め尽くされた場所は
「鬼地谷起(おにちやぎ)」
と呼ばれています。
ヘイダはさらに真坂から駒形へと西へ兵を進め、
最後に戦ったのが山王の鬼とその一族でした。
山王の鬼たちは、
「牛首戸(うしくびど)」
に柵を築いて頑丈(がんじょう)な門をつくり、
門の扉には魔よけに敵を睨む牛の生首を張りつけました。
それに恐れをなした兵たちは、
柵に近づけず門を打ち破ることすらできませんでした。
苛立ったヘイダは軍を引いて磐井川を渡り、
「的場(まとば)」
と呼ばれる地に集まり、
やがて山王窟と的場を挟んで烈しい矢の打ち合いが始まりました。
飛び交う矢はすさまじく、
落ちた無数の矢で埋め尽くされた場所は
「矢渕(やぶち)」
となり、後に
「矢櫃(やびつ)」
の地名になりました。
「山王窟」は山王の鬼が一族を率いて立て籠もり、
その熾烈な戦いで仲間の多くが殺された場所です。
山王の鬼とその2人の息子も捕らえられて、
首を打ち落とされ殺されてしまいました。
その後ヘイダは祟りを恐れて、山王の鬼の首を
「祭畤山(まつるべやま)」
に、2人の息子の首を
「二子山(ふたごやま)」
に葬りその霊を弔(とむら)いました。
しかし、親兄弟を失った蝦夷の哀しみに満ちた声は、
去っていくヘイダの後を追っていつまでも奥深い沢に響き渡り、
消えることはありませんでした。
後にその沢は人知れず
「鳴沢(なくさわ)」
と呼ばれましたが、今では
「鳴沢(なるさわ)」
といわれており、
哀しくも怨念(おんねん)に満ちたこの伝説を知る人も
ほとんどいなくなりました。
==================================
そんな山王窟(さんのうのいわや)。
ココに用があるのは......きっと......僕さん。
ちとワケありで......間違いなし。
若神子神社と同様に「イワクツキ」の場所でもありますし、
皆に迷惑をかけるわけにもいかず。
みんなには崖下の道の辺りでチョイと待っていてもらうことにして。
僕は一人、聳え立つ砦の崖を、
その袂のあたりまでよじ登って行きました。
この時の僕を通りがかりの人が見たら、
阿呆者が無邪気に崖登りをしている様にしか思われない感じだったかも?
しれませんが、一日中胸を刺され続けている僕としたら、ソレはもう、
この地に来たことを少し後悔もする気持ちが湧いて来るくらいの
決死の覚悟だったりもしたわけでして......
僕は崖の中にこの場所のツボ的な所を見出し。
そこにお酒を置き。
神様にも言われていた和解の意を込めた祝詞を唱えました。
そして、ココに来るまでの様々な物語と気持ちとをポツリポツリと真摯に話しました。
そんな一通りのことが終わると、
僕は崖を降りて皆のもとへと戻りました。
皆は、僕のそんな行動を遠目に見守っていてくれて、
遠くからでも、
僕の動きに合わせて一緒に祈りまで込めてくれていた様でした。
泣けます(T . T)ぶぇ。
ありがちゅー。
特に、蝦夷軍の御霊(みたま)のカケラを宿していた
プリリンねーさんとEriさんとミワンさんがいてくれたことというのは、
僕にとっても、
この地に理不尽なる思いで散っていった蝦夷皆さんにとっても、
とても意味があったことの様で。
山王窟一帯に暖かな空気が満ち出でていく大きな助けともなりました。
不思議ですが、この後。
骨寺村に入ってからずっと痛かった胸の痛みが無くなりました。
それは、
同じくその痛みに苦しんでいたmikoちゃんもそうだった様で。
体も心もフワリと、とても軽くなって。
気持ちも明るくなっている自分に気づきました。
ダムに戻ると、そこには美しい滝虹も掛かっていて。
卑弥呼の御霊(みたま)と蝦夷の御霊。
なんとか、僕らは、
僕らなりのケジメをつけることが出来た様ではありました。
全ては空想的、異空のポンチキ物語。
卑弥呼の時代から坂上田村麻呂の時代にかけての物語。
西暦にして、
200年ぐらいから800年ぐらいにかけての物語となるのでしょうか。
骨寺村という地には奥州藤原氏以前の物語が隠れているらしく。
それは、この国の「何か」を象徴する様な物語でもあるらしく。
この国のカルマでもあり、人間の至らなさの物語でもあり。
調和の印の虹を掛けなければいけないことでもある様で。
この日以来、今も、
僕の手の中に残っている一つだけ確かな感触は、
この国に鬼などいない、ということ。
敵などいないということ。
敵とは本来、
自身の成長のために切磋琢磨し合う本当の仲間なのだということ。
それを「敵」という言葉が見合うほどのものに変えてしまうのは、
恐ろしく稚拙で未成熟な精神性であるということ。
もう7年ほど前になるでしょうか。
このブログにも幾度か登場してくれている、
僕の体を定期的に見てくれている気功師の「Yさん」は、
出会った頃の僕にこんなことを言いました。
それは僕自身、長く考えて来た事と見事に重なったことなので、
Yさんへの信頼を深めた出来事の一つでもあります。
「矛盾していることは、魂は朝廷、支配者、天孫なのに、
肉体は征伐に行った蝦夷のものをまとって生まれています。
征夷という使命、仕事だったのにも関わらず、
多くの蝦夷の人々に触れるにつけ、
彼等を愛していったのでしょう。深い愛を感じます。
肉体と精神のアンバランスさが難しさとしてあります。」
嘘か、真か。良い話しなのか、悪い話しなのか。
そんなことは全くわかりませんが。
僕には僕のやるべきことがあるのだろうと。
成長させなければいけない自分があるのだろう、と。
そんな自分であるが故に出来ることがあるのかもしれない.......と。
そんなことを思い、自分に言い聞かせながら、
今日もあくせくと泥にまみれて働いております。
旅の仕上げには美味しいものを(^_^)ええ。ええ。
一関駅のほど近くにある
「蔵元レストラン せきのいち」さんの「くわうどん」。
桑の葉を練り込んだ!うどんさんなのです。
世嬉の一酒造(せきのいちしゅぞう)さんが
酒蔵の一部を改装して経営しています。
グルメ馬鹿一代の「K様」に教わって以来、
僕はもう何度か伺っているお気に入りのお店さんなのですが、
酒蔵さんらしいフレッシュで美味しい甘酒とか、
他にも一関名物でもある餅を
「ハレの日」用にアレンジした「果報もち膳」とか、
「ハット」と呼ばれる、
小麦粉の練り生地を自分で千切って鍋に放り込んで作る
「手切りはっと膳」など。
どのメニューも美味しいっす(^^)♪
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「邪馬台国徒然」
「邪馬台国徒然 2」
「邪馬台国徒然 3」
「邪馬台国徒然 4」
「邪馬台国徒然 5」
「邪馬台国徒然 6」
「邪馬台国徒然 7」
「日本中央」
「日本中央 2」
「日本中央 3」
「日本中央 4」
「アテルイ」
「アテルイ 2」
「アテルイ 3」
「アラハバキ」
「おもさげながんす」
7人はソレゾレに様々な思いを抱えながら若神子神社を後にしました。
僕らはこの日も朝早くから動き回っていたので、
「この辺で休憩も兼ねてお茶でもしようか!」
と、「骨寺村荘園交流館」というところに寄ることにしました。
そこには骨寺村の名前の由来となる2つの伝承が記されている資料もあって。
見てみると、なんとなく、
どちらの説にも大本には共通する何かがあるように僕には感じられました。
そんな共通するモノこそが、
この村の深奥に秘されているものなのではないのか?
......と。そう思えました。
お話は「8」へと続きます。
「骨寺村荘園交流館」はこんな感じで。
鼻血で汚れた皆の手や、
ねーさんの服を洗ったりしながら一休みもしつつ......
館内にはカフェやシアターもあって。
空撮された骨寺村や、
その歴史などを見たり学んだりすることも出来ました。
この時のメンバーは全員、訳ありで?集まった?この地に縁深い人達だった為か、
上映中にはほぼ全員、
大の大人がそれぞれの感性と理由とで涙を流していました。
映像が終わり、シアターの明かりがつくと、
「ちょっと!どーしちゃったの?あんた達?何かあったの!?」
なんてスタッフさんに言われちゃう!的な。
かなりオカシナ画ズラだったと思います。
まぁ、ポンチキ極まりないメンバーで。
ほんと。呆れちゃいまちゅ。ええ。
そして、村の名前の由来に関しては以下の様な
二つの説明文がありました......
=================================
国の重要文化財となっている鎌倉時代に描かれた骨寺村の絵図には
「骨寺跡」「骨寺堂跡」という文字と、
建物の礎石のような図像が描かれています。
かつてここに骨寺という寺があって、
絵図が描かれた鎌倉時代の後期には廃寺になっていたことが分かります。
今はその跡も確認できませんが、
その寺の名前が村の由来になったと考えられます。
骨寺とは珍しい名前ですが、
亡くなった人の骨の一部を特定の聖地に納める風習(分骨)があります。
この骨寺はそのための場だったのではないでしょうか。
=================================
=================================
鎌倉時代の『撰集抄』という説話集に、平泉郡にいた一人の娘が、
天井裏の髑髏から法華経の読み方を習い、
その髑髏(ドクロ)を逆柴山に葬ったという話があります。
その髑髏は、
比叡山の高僧第18代座主の慈恵大師良源の髑髏(ドクロ)で、
葬った場所が慈恵塚だと本寺では伝えられています。
このことが、骨寺村という名前の由来であるともいわれています。
=================================
......やはり、
どこか共通点が潜んでいる逸話達の様に思えるのですが......
僕等はこんな感じで休憩のひと時を過ごし。
最後にもう一箇所だけ、
神々に言われていた場所へと向かうことにしました。
ソレが骨寺村の最奥地とも言える「山王窟(さんのういわや)」
骨寺村の南を流れる磐井川(いわいがわ)の上流、
矢櫃ダム(やびつだむ)の横に聳える断崖です。
この場所に関しては、
交流館のパンフレットには以下の解説がありました。
==================================
かつて骨寺村(ほねでらむら)と呼ばれた一関市厳美町本寺地区。
その西の境に山王窟(さんのうのいわや)という
切り立った岩山があります。
ここは昔「山王の鬼」と呼ばれた蝦夷(えみし)が立て籠もり、
ヘイダ(坂上田村麻呂:さかのうえたむらまろ)と激しく戦った場所といわれています。
ヘイダが陸奥国へ攻めて来ると、
最初に蝦夷の大武丸(おおたけまる)の一族は
鬼となって激しく抵抗しましたが、
家を焼かれ田畑を奪われた鬼たちは、逃げて
「五串村(いつくしむら:現在の厳美町)」
の山奥に立て籠もりました。
しかし一族を率いた大武丸は捕らえられ、後に
「鬼死骸(おにしがい:現在の一関市真柴)」
と呼ばれた里で首を切られ殺されてしまいました。
その時死骸を埋めた上に置かれた石は、
「鬼石(おにいし)」
と呼ばれています。
転がって落ちた大武丸の首は、目を見開いたまま跳びあがり、
飛び散った血飛沫(ちしぶき)は虻(あぶ)や蚊となって相手を刺し、
目に飛び込んで戦いました。
やがて力尽きたその首は
「鬼越沢(おにごしざわ)」
を飛越え、宮城県の
「鬼首(おにこうべ)」
に落ちて息絶えたといわれます。
五串村の山奥に立て籠もった大武丸の一族を追ったヘイダは、
ここ骨寺村まで攻めて来ました。
真坂の裏山の大きな穴に潜んでいた鬼たちは、
怒涛(どとう)のごとく押し寄せてきた大軍を防ぎようもなく、
磐井川を飛越えて逃げようとしました。
それを追って雨のように飛んでくる矢に討たれ、
倒れた鬼たちの死骸で埋め尽くされた場所は
「鬼地谷起(おにちやぎ)」
と呼ばれています。
ヘイダはさらに真坂から駒形へと西へ兵を進め、
最後に戦ったのが山王の鬼とその一族でした。
山王の鬼たちは、
「牛首戸(うしくびど)」
に柵を築いて頑丈(がんじょう)な門をつくり、
門の扉には魔よけに敵を睨む牛の生首を張りつけました。
それに恐れをなした兵たちは、
柵に近づけず門を打ち破ることすらできませんでした。
苛立ったヘイダは軍を引いて磐井川を渡り、
「的場(まとば)」
と呼ばれる地に集まり、
やがて山王窟と的場を挟んで烈しい矢の打ち合いが始まりました。
飛び交う矢はすさまじく、
落ちた無数の矢で埋め尽くされた場所は
「矢渕(やぶち)」
となり、後に
「矢櫃(やびつ)」
の地名になりました。
「山王窟」は山王の鬼が一族を率いて立て籠もり、
その熾烈な戦いで仲間の多くが殺された場所です。
山王の鬼とその2人の息子も捕らえられて、
首を打ち落とされ殺されてしまいました。
その後ヘイダは祟りを恐れて、山王の鬼の首を
「祭畤山(まつるべやま)」
に、2人の息子の首を
「二子山(ふたごやま)」
に葬りその霊を弔(とむら)いました。
しかし、親兄弟を失った蝦夷の哀しみに満ちた声は、
去っていくヘイダの後を追っていつまでも奥深い沢に響き渡り、
消えることはありませんでした。
後にその沢は人知れず
「鳴沢(なくさわ)」
と呼ばれましたが、今では
「鳴沢(なるさわ)」
といわれており、
哀しくも怨念(おんねん)に満ちたこの伝説を知る人も
ほとんどいなくなりました。
==================================
そんな山王窟(さんのうのいわや)。
ココに用があるのは......きっと......僕さん。
ちとワケありで......間違いなし。
若神子神社と同様に「イワクツキ」の場所でもありますし、
皆に迷惑をかけるわけにもいかず。
みんなには崖下の道の辺りでチョイと待っていてもらうことにして。
僕は一人、聳え立つ砦の崖を、
その袂のあたりまでよじ登って行きました。
この時の僕を通りがかりの人が見たら、
阿呆者が無邪気に崖登りをしている様にしか思われない感じだったかも?
しれませんが、一日中胸を刺され続けている僕としたら、ソレはもう、
この地に来たことを少し後悔もする気持ちが湧いて来るくらいの
決死の覚悟だったりもしたわけでして......
僕は崖の中にこの場所のツボ的な所を見出し。
そこにお酒を置き。
神様にも言われていた和解の意を込めた祝詞を唱えました。
そして、ココに来るまでの様々な物語と気持ちとをポツリポツリと真摯に話しました。
そんな一通りのことが終わると、
僕は崖を降りて皆のもとへと戻りました。
皆は、僕のそんな行動を遠目に見守っていてくれて、
遠くからでも、
僕の動きに合わせて一緒に祈りまで込めてくれていた様でした。
泣けます(T . T)ぶぇ。
ありがちゅー。
特に、蝦夷軍の御霊(みたま)のカケラを宿していた
プリリンねーさんとEriさんとミワンさんがいてくれたことというのは、
僕にとっても、
この地に理不尽なる思いで散っていった蝦夷皆さんにとっても、
とても意味があったことの様で。
山王窟一帯に暖かな空気が満ち出でていく大きな助けともなりました。
不思議ですが、この後。
骨寺村に入ってからずっと痛かった胸の痛みが無くなりました。
それは、
同じくその痛みに苦しんでいたmikoちゃんもそうだった様で。
体も心もフワリと、とても軽くなって。
気持ちも明るくなっている自分に気づきました。
ダムに戻ると、そこには美しい滝虹も掛かっていて。
卑弥呼の御霊(みたま)と蝦夷の御霊。
なんとか、僕らは、
僕らなりのケジメをつけることが出来た様ではありました。
全ては空想的、異空のポンチキ物語。
卑弥呼の時代から坂上田村麻呂の時代にかけての物語。
西暦にして、
200年ぐらいから800年ぐらいにかけての物語となるのでしょうか。
骨寺村という地には奥州藤原氏以前の物語が隠れているらしく。
それは、この国の「何か」を象徴する様な物語でもあるらしく。
この国のカルマでもあり、人間の至らなさの物語でもあり。
調和の印の虹を掛けなければいけないことでもある様で。
この日以来、今も、
僕の手の中に残っている一つだけ確かな感触は、
この国に鬼などいない、ということ。
敵などいないということ。
敵とは本来、
自身の成長のために切磋琢磨し合う本当の仲間なのだということ。
それを「敵」という言葉が見合うほどのものに変えてしまうのは、
恐ろしく稚拙で未成熟な精神性であるということ。
もう7年ほど前になるでしょうか。
このブログにも幾度か登場してくれている、
僕の体を定期的に見てくれている気功師の「Yさん」は、
出会った頃の僕にこんなことを言いました。
それは僕自身、長く考えて来た事と見事に重なったことなので、
Yさんへの信頼を深めた出来事の一つでもあります。
「矛盾していることは、魂は朝廷、支配者、天孫なのに、
肉体は征伐に行った蝦夷のものをまとって生まれています。
征夷という使命、仕事だったのにも関わらず、
多くの蝦夷の人々に触れるにつけ、
彼等を愛していったのでしょう。深い愛を感じます。
肉体と精神のアンバランスさが難しさとしてあります。」
嘘か、真か。良い話しなのか、悪い話しなのか。
そんなことは全くわかりませんが。
僕には僕のやるべきことがあるのだろうと。
成長させなければいけない自分があるのだろう、と。
そんな自分であるが故に出来ることがあるのかもしれない.......と。
そんなことを思い、自分に言い聞かせながら、
今日もあくせくと泥にまみれて働いております。
旅の仕上げには美味しいものを(^_^)ええ。ええ。
一関駅のほど近くにある
「蔵元レストラン せきのいち」さんの「くわうどん」。
桑の葉を練り込んだ!うどんさんなのです。
世嬉の一酒造(せきのいちしゅぞう)さんが
酒蔵の一部を改装して経営しています。
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他にも一関名物でもある餅を
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「おもさげながんす」
シアターには、私達だけで本当に良かったですね。
あんなに泣いている人達は、あまりいないと思いますから。
私は、ダムで見た虹に感動しました。
シアターの方が虹は午前中しか見えないとおっしゃっていたからですね。
祈りが通じたサインに思えました。
自分を閉じ込めていること
完全であることに気付かない
いつも守られている
ひとつである
先ずは自分が信じることから
始まるのだと思います
岩手に住みながら無関心だった、鬼の手形で有名な三石神社に急に引き寄せられて初めて行ったのですよね。
出ました。日輪🙆♀️
この記事を読んで、ふと、
あの⭕️は、鬼と扱われてきた魂の解放の印だったらいいなぁと思いました。
ポンチキーズの思い出話でした(^人^)