10代をどう過ごしたか?
が、20代の自分を決め。
20代をどう過ごしたのか?が30代の自分を決め。
30代を如何に生きたか?が40代の自分を創り。
40代を如何に生きるかによって50代の自分も見えてくる......
そして、50代をどう生きたかによって......
......なんて、
最近の様々なニュースに出てくる人達を見ていると、
そんなことを考えている自分がいます。
社会的に地位も力もあって、お金も持っていて。
しかし、恐ろしく醜い。
「みにくい」というのは、勿論、外見の話などではなく。
その人が内側に持っているもの。
本性。
生きて来た中で作り上げられてきた価値観や人生観。人間性。
そんなモノモノが本人も自覚出来てないところで隠しようも無く浮き出て来る......
その浮き出ているものがヒドク醜い。
恐ろしく醜い。
これまでのことが、今、表れる。
そして、
「これから」は、
「これまで」が創り上げる。表れる。
悪質なタックルをしてしまったアメフトの選手さんも。
選手がそんなコトをせざるを得ない環境を作ってきた監督さんも。
コーチさんも。
その大学の理事長さんも。
そんな大学の記者会見を仕切っていた元マスコミの広報司会者さんも。
そんなアメフト・クラブのある大学そのものも。
日本のアメリカンフットボール競技世界だって。
突然解任になったサッカー日本代表監督さんだって。
新しく就任した監督さんにしても、
選ばれたW杯代表選手の皆さんにしても。
芸能や音楽の世界にしたって、
解散してしまったスマップさん達だって。
厳しい状況に晒されてしまったTOKIOの皆さん一人一人も、きっと。
未だ解決していないのに、
忘れ置かれた様になってしまっている放射能汚染だって。
その発電所を作った電力会社だって。
怪しい賃貸業と知りながら、
長きに渡り大金を融資し続けて来た大手銀行だって。
国に益など無い話を延々と繰り返している国会や議員さん達だって。
そんな事ごとを許してしまっている社会も国も人々も。
メディアの皆さんの言動だって。
きっと、そうなる。
いわんや、
僕だって。
「天網恢恢疎にして漏らさず」
「てんもうかいかい そにして もらさず」
名著「老子」にある一節。
今こそ、
この言葉の意味を深く考える時なのでしょうか?
天が張り巡らしているこの世の網は、なんだか結構目が粗く。
穴だらけで。
一見すると悪事だろうが悪人だろうが、
どんなことも目の荒いザルのように悠々と通り抜けさせてしまい、
消し流しているようにも思えるけれど。
しかしその実は、全くもって何事も、何物も、
一つたりとて漏らさずに捉える網となっていて。
それが分からないコトこそが疎(そ、粗)なることなのだ!と?
老子はそんなコトが言いたかった?のでしょうか......
果たして、
老子はどんな意味でこの言葉を残したのでしょうか。
老子の言葉は常に曖昧で。
余白や余地が沢山あって。
孔子の「論語」に比べれば実用性と説得力を欠き。
多くの人から批判的な捉え方をされることも多く。
「社会や生きることに対して積極性を欠いているのではないか?」
とか、そんな感じで。
ただ、
闘い過ぎは、闘わないことと同じにも思え。
では、「闘う」とはどういうことなのか?
と。
良き闘いとは?積極性とは?
如何なるものなのか。形なのか。
もしかしたら、
心のよりどころなどもうけないことだ!
......なんて事の様にも......思われ......
それでも生きていられるということが強いということなのだ!
と。
老子の言葉からはそんな響きも聞き取れもして......
今、僕の眼前に広がるギリシャの海はただひたすらに青く。
その青さはどこまでも真っ直ぐで。
己を溶け込ませることがとても自然に出来るような紺碧さ。
どこか......
大切なことを教えられているような気も......します。
こんな青さを持つ者達がいたとして、
そんな者達の前では、この所の......いや、もうずっと続いている、
日本という国の権力者的大人達が繰り広げるメディア・ショーなどは、
見るも無残な、
淀んだヘドロのようにしか見えていないのではないだろうか......と。
酷く燻んだ、
限りなく黒い灰色にしか見えていないのではないだろうか......と。
もう、僕等は。
そんな言葉を聞きたくはないのだ、と。
そんな質問や疑義も見たくはないのだ、と。
もっと話さなければいけない真実や、
大切で大事なことがあるのではないのか?と。
僕等に聞こえているのは、
見えているのは、
そんな言葉と姿の後ろ側に大きく横たわっている、
気持ちの悪いナニカなのだ、と。
恐ろしく歪み、
恐ろしく汚れた、
とてつもなく尊大で、
無駄に大きく、
虚構的で、
私利と私欲だけで育ってしまった巨大な化け物や、
醜い組織の姿が見えているのだ、と。
貴方のこれまでの生き方が見えているのだと。
そして貴方は、
皆ちゃんとそんな事を分かっているのだ......というコトも、
分からない大人なのであろうか?と。
もう一度。
いや、いつも。
青き水と炎とは、この手の中に澄んだままで持っておきたく。
どうか、善き人となれます様に。
強き大人になれます様に。
死の直前まで頑張れる自分でいれます様に。
が、20代の自分を決め。
20代をどう過ごしたのか?が30代の自分を決め。
30代を如何に生きたか?が40代の自分を創り。
40代を如何に生きるかによって50代の自分も見えてくる......
そして、50代をどう生きたかによって......
......なんて、
最近の様々なニュースに出てくる人達を見ていると、
そんなことを考えている自分がいます。
社会的に地位も力もあって、お金も持っていて。
しかし、恐ろしく醜い。
「みにくい」というのは、勿論、外見の話などではなく。
その人が内側に持っているもの。
本性。
生きて来た中で作り上げられてきた価値観や人生観。人間性。
そんなモノモノが本人も自覚出来てないところで隠しようも無く浮き出て来る......
その浮き出ているものがヒドク醜い。
恐ろしく醜い。
これまでのことが、今、表れる。
そして、
「これから」は、
「これまで」が創り上げる。表れる。
悪質なタックルをしてしまったアメフトの選手さんも。
選手がそんなコトをせざるを得ない環境を作ってきた監督さんも。
コーチさんも。
その大学の理事長さんも。
そんな大学の記者会見を仕切っていた元マスコミの広報司会者さんも。
そんなアメフト・クラブのある大学そのものも。
日本のアメリカンフットボール競技世界だって。
突然解任になったサッカー日本代表監督さんだって。
新しく就任した監督さんにしても、
選ばれたW杯代表選手の皆さんにしても。
芸能や音楽の世界にしたって、
解散してしまったスマップさん達だって。
厳しい状況に晒されてしまったTOKIOの皆さん一人一人も、きっと。
未だ解決していないのに、
忘れ置かれた様になってしまっている放射能汚染だって。
その発電所を作った電力会社だって。
怪しい賃貸業と知りながら、
長きに渡り大金を融資し続けて来た大手銀行だって。
国に益など無い話を延々と繰り返している国会や議員さん達だって。
そんな事ごとを許してしまっている社会も国も人々も。
メディアの皆さんの言動だって。
きっと、そうなる。
いわんや、
僕だって。
「天網恢恢疎にして漏らさず」
「てんもうかいかい そにして もらさず」
名著「老子」にある一節。
今こそ、
この言葉の意味を深く考える時なのでしょうか?
天が張り巡らしているこの世の網は、なんだか結構目が粗く。
穴だらけで。
一見すると悪事だろうが悪人だろうが、
どんなことも目の荒いザルのように悠々と通り抜けさせてしまい、
消し流しているようにも思えるけれど。
しかしその実は、全くもって何事も、何物も、
一つたりとて漏らさずに捉える網となっていて。
それが分からないコトこそが疎(そ、粗)なることなのだ!と?
老子はそんなコトが言いたかった?のでしょうか......
果たして、
老子はどんな意味でこの言葉を残したのでしょうか。
老子の言葉は常に曖昧で。
余白や余地が沢山あって。
孔子の「論語」に比べれば実用性と説得力を欠き。
多くの人から批判的な捉え方をされることも多く。
「社会や生きることに対して積極性を欠いているのではないか?」
とか、そんな感じで。
ただ、
闘い過ぎは、闘わないことと同じにも思え。
では、「闘う」とはどういうことなのか?
と。
良き闘いとは?積極性とは?
如何なるものなのか。形なのか。
もしかしたら、
心のよりどころなどもうけないことだ!
......なんて事の様にも......思われ......
それでも生きていられるということが強いということなのだ!
と。
老子の言葉からはそんな響きも聞き取れもして......
今、僕の眼前に広がるギリシャの海はただひたすらに青く。
その青さはどこまでも真っ直ぐで。
己を溶け込ませることがとても自然に出来るような紺碧さ。
どこか......
大切なことを教えられているような気も......します。
こんな青さを持つ者達がいたとして、
そんな者達の前では、この所の......いや、もうずっと続いている、
日本という国の権力者的大人達が繰り広げるメディア・ショーなどは、
見るも無残な、
淀んだヘドロのようにしか見えていないのではないだろうか......と。
酷く燻んだ、
限りなく黒い灰色にしか見えていないのではないだろうか......と。
もう、僕等は。
そんな言葉を聞きたくはないのだ、と。
そんな質問や疑義も見たくはないのだ、と。
もっと話さなければいけない真実や、
大切で大事なことがあるのではないのか?と。
僕等に聞こえているのは、
見えているのは、
そんな言葉と姿の後ろ側に大きく横たわっている、
気持ちの悪いナニカなのだ、と。
恐ろしく歪み、
恐ろしく汚れた、
とてつもなく尊大で、
無駄に大きく、
虚構的で、
私利と私欲だけで育ってしまった巨大な化け物や、
醜い組織の姿が見えているのだ、と。
貴方のこれまでの生き方が見えているのだと。
そして貴方は、
皆ちゃんとそんな事を分かっているのだ......というコトも、
分からない大人なのであろうか?と。
もう一度。
いや、いつも。
青き水と炎とは、この手の中に澄んだままで持っておきたく。
どうか、善き人となれます様に。
強き大人になれます様に。
死の直前まで頑張れる自分でいれます様に。