なぜこの干支話は巳年から記し始めたのか。
いち動物が神へと進化する旅。
「一巡」
今年舞い降りて来たのはそんな御言葉。
......新年恒例のポンチキ干支話は続きます。(^ν^)
高い建物の中にある螺旋形の階段。
その起点や終点、曲がるところにある踊り場。
それが12箇所あって。
その12箇所目。
建物の屋上に出れるドアの前にある最後の踊り場。
その踊り場から、
登って来た階段を上から覗きこんでみると、
よくここまで上って来たな、
頑張って登ったな、と。
そんなことを思ったりもして。
ある意味、
一つの到達点。
一方で、前を見ると、
屋上へ出られるドアがあり。
そのドアの手前には、
ドア部分との床面の高さを調整するために設けられた階段が
数段だけあります。
「あのドアを開けると気持ちの良い屋上か。
その先は......」
その先というのが来年の巳年。へび年。
きっとまた新たなレイヤーで、
リフレッシュもした初動的なスタートが待っている。
なので今年は、そんな屋上へ出る手前にある最後の踊り場。
外に比べると少し薄暗い建物の中ですが、
ここ迄の11年間をまとめて感じることもできる、
一旦の整理ができる、
見える、見れる、
そんな場所。
屋上にもいつでもすぐに出れる。
そんなことを一言で表すと
「一巡」
となるようでして。
いちじゅん。
ひとめぐり。
ひと巡りの結(けつ)。
起承転結の結。
一旦のまとめ。
一旦の自己点検。
ここまで何が出来て、
何が出来ていなかったか。
人間としてのレベルは上がっているのか。
人格はちゃんと磨かれているのか。
苦労や苦悩や努力を重ねようやく到達できた場所で、
一旦、色々と整理をしながら、
また次の目標やイメージや自分の在りようを再設定していく。
そんなひと巡りのイメージ。
過去記事にも幾度か記して来ていますが、
僕個人のポンチキな見解としては
辰年こそが干支の巡りの結びであって。
となると、僕としては、
干支の始まりは一般的に言われているネズミ=子年ではなく。
巳年(みどし)と捉えてもいて。
手足の無い、地を這うヘビから始まり、
頑張って、頑張って、やがて手足が生えて来て。
指が出来て、ツノも生え。髭も伸び。
あとは綺麗に輝く鱗(うろこ)を纏えれば......
美しい玉をその手に持つことが出来れば......
龍となり。
大地を這うだけでなく、
天空を泳げるような存在ともなって。
現実にはいなそうな、
自由で自在の存在ともなり。
自然や地球や宇宙と調和する感覚も身について。
物理学的には、
物質の最小単位である量子の動きはスピン量であらわされますが。
故に、エネルギーというものは常に振動し。
うねり。螺旋を描き。
龍とはそんなウネルエネルギーの権化でもあって。
現実世界に存在するモノでありつつも、幻のような、
見えないような存在でもあって......
時に神!?
のような存在でもあるのではないかと。
人よりも自然を護るような厳しさを持つ存在でもあるのではないかと。
それが龍神さんであって。
辰年。辰歳。龍年。龍歳。
干支の巡りを経て、
自分は龍さんのように成れたのか。
成れたとして龍なのか、竜なのか。
龍や竜だとして、指は何本あるのか。
ウロコはあるのか?ないのか。
あるとして、どんな輝きを持っているのか。
玉は持っているのか?いないのか。
龍なのか、龍神なのか。
そんな成長の巡りを点検しつつ、
また次のレイヤーにおける成長ループを見据える。
そして、昨年末の出雲会議後に天から降り下りてくる
そんなイメージに導かれ、
訪れることになったのは......
鹿児島県、種子島。
宝満神社さん。
続きます。(^^)
☆冒頭の写真は草場一壽(くさばかずひさ)さんの
陶彩画(とうさいが)の龍神さんです。
いち動物が神へと進化する旅。
「一巡」
今年舞い降りて来たのはそんな御言葉。
......新年恒例のポンチキ干支話は続きます。(^ν^)
高い建物の中にある螺旋形の階段。
その起点や終点、曲がるところにある踊り場。
それが12箇所あって。
その12箇所目。
建物の屋上に出れるドアの前にある最後の踊り場。
その踊り場から、
登って来た階段を上から覗きこんでみると、
よくここまで上って来たな、
頑張って登ったな、と。
そんなことを思ったりもして。
ある意味、
一つの到達点。
一方で、前を見ると、
屋上へ出られるドアがあり。
そのドアの手前には、
ドア部分との床面の高さを調整するために設けられた階段が
数段だけあります。
「あのドアを開けると気持ちの良い屋上か。
その先は......」
その先というのが来年の巳年。へび年。
きっとまた新たなレイヤーで、
リフレッシュもした初動的なスタートが待っている。
なので今年は、そんな屋上へ出る手前にある最後の踊り場。
外に比べると少し薄暗い建物の中ですが、
ここ迄の11年間をまとめて感じることもできる、
一旦の整理ができる、
見える、見れる、
そんな場所。
屋上にもいつでもすぐに出れる。
そんなことを一言で表すと
「一巡」
となるようでして。
いちじゅん。
ひとめぐり。
ひと巡りの結(けつ)。
起承転結の結。
一旦のまとめ。
一旦の自己点検。
ここまで何が出来て、
何が出来ていなかったか。
人間としてのレベルは上がっているのか。
人格はちゃんと磨かれているのか。
苦労や苦悩や努力を重ねようやく到達できた場所で、
一旦、色々と整理をしながら、
また次の目標やイメージや自分の在りようを再設定していく。
そんなひと巡りのイメージ。
過去記事にも幾度か記して来ていますが、
僕個人のポンチキな見解としては
辰年こそが干支の巡りの結びであって。
となると、僕としては、
干支の始まりは一般的に言われているネズミ=子年ではなく。
巳年(みどし)と捉えてもいて。
手足の無い、地を這うヘビから始まり、
頑張って、頑張って、やがて手足が生えて来て。
指が出来て、ツノも生え。髭も伸び。
あとは綺麗に輝く鱗(うろこ)を纏えれば......
美しい玉をその手に持つことが出来れば......
龍となり。
大地を這うだけでなく、
天空を泳げるような存在ともなって。
現実にはいなそうな、
自由で自在の存在ともなり。
自然や地球や宇宙と調和する感覚も身について。
物理学的には、
物質の最小単位である量子の動きはスピン量であらわされますが。
故に、エネルギーというものは常に振動し。
うねり。螺旋を描き。
龍とはそんなウネルエネルギーの権化でもあって。
現実世界に存在するモノでありつつも、幻のような、
見えないような存在でもあって......
時に神!?
のような存在でもあるのではないかと。
人よりも自然を護るような厳しさを持つ存在でもあるのではないかと。
それが龍神さんであって。
辰年。辰歳。龍年。龍歳。
干支の巡りを経て、
自分は龍さんのように成れたのか。
成れたとして龍なのか、竜なのか。
龍や竜だとして、指は何本あるのか。
ウロコはあるのか?ないのか。
あるとして、どんな輝きを持っているのか。
玉は持っているのか?いないのか。
龍なのか、龍神なのか。
そんな成長の巡りを点検しつつ、
また次のレイヤーにおける成長ループを見据える。
そして、昨年末の出雲会議後に天から降り下りてくる
そんなイメージに導かれ、
訪れることになったのは......
鹿児島県、種子島。
宝満神社さん。
続きます。(^^)
☆冒頭の写真は草場一壽(くさばかずひさ)さんの
陶彩画(とうさいが)の龍神さんです。