「元々本々」
「げんげんぽんぽん」
「もともとほんぼん」
とも読めますが、
この言葉をよく知る方々の間では、
「はじめをはじめとし、もとをもととする」
と読むことが多いようです。
伊勢神宮を創り上げた......と言っても過言ではない、
倭姫(やまとひめ)さんの話した言葉として
「倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)」
という書物に刻まれています。
———————黒心なくして、丹心をもちて。
清く潔く斎り慎しみ。
左の物を右に移さず、
右の物を左に移さずして、
左を左とし、右を右とし、
左に帰り右に廻る事も、
万事違う事なくして大神に仕え奉る。
元を元とし、
本を本とする故なり—————————————
汚なき心を無くして、良き心を持ちて。
清く、いさぎよく、いつきり、つつしみ。
左のものを右に移さず、
右のものを左に移さずして、
左を左とし、右を右とし、
左に帰り、右に廻ることも、
万事違うこと無くして大神につかえたまわる。
はじめをはじめとし、
もとをもととするゆえなり。
「倭姫命世記」は、
伊勢の度会氏(わたらいし)が編纂したと言われる伝承的書物でもあり、
様々な議論が交わされる書でもありますが、もしかしたら、
この言葉こそが伊勢の神宮の
大元の教義と言えるものなのかも知れない、と。
個人的にはそんなことを思っていたりもします。
最近、令和という時代を迎えて、
自然と家にある色々なものを一新するようなことが
多くなっているのですが、その度に、
不思議とこの言葉が僕の心中に響いてくるのです......
「元を元とし、本を本とする」
簡素な言葉の内にある深遠さ。
なんだか、とても気持ちが引き締まります。
そして、熱く込み上げてくる情感も......少し。
理解出来そうで出来なくて。
実践出来そうで難しく。
倭姫さんの崇高な心や御姿にも思いを馳せてしまうのです。
奈良県、大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社でもある
桧原神社(ひばらじんじゃ、檜原神社)。
「皇大神宮聖蹟 倭笠縫邑(こうたいじんぐうせいせき やまとかさぬいむら」
の文字も。
僕が最初に倭姫さんをリアルに感じることが出来たところ。
九州などではよく見られる古い形の鳥居と、
やはり、貴重なる三ツ鳥居。
倭姫さんを感じた瞬間は胸が焦げる様に熱くなり、
強く込み上げてくるものもありました。
それ以来、
大神神社(おおみわじんじゃ)に訪れる際は必ず寄る様になった場所。
最近はとても綺麗に整備されていますが、
僕が最初に訪れた頃はかなりひなびた感じでした、が、
もう、その頃から気高さや気品さは段違いの神社さんであって。
とにかく背筋を正し、
気持ちを整えてからでないと鳥居をくぐることは出来ませんでした。
それは今も全く変わりません。
思えば、倭姫さんには幾度か、
清々しくも鋭い戒めをいただいたようなこともありましたが。
僕にとってはいつも緊張と感激と憧れと、
その間で揺れ動く気持ちで対することになる女神様。
そんな倭姫さんが語ったと記されている言葉には、
他にも自然と背筋が伸びてしまうものがあったりするのですが.......
———————人は天下の神物なり。
心神を傷ましむことなかれ。
神は垂るるに祈祷をもって先となし、
冥は加うるに正直をもって本となせり。
神を祭るの礼は、清浄をもって先となし、
真信をもって宗となす—————————
「心神を傷ましむことなかれ」
「礼は清浄をもって先とする」
この国の神道(しんとう)とは、決して宗教などではなく。
シンプルで根源的なアニミズムであり、
磨き抜かれた哲学であり、
深遠なる人生の訓戒(くんかい)でもあるのではないか、と。
僕はつくづくそんな風に思うのです。
魂の高嶺はまだまだ遠くにある様です。
倭姫さんと同じように、
同じ奈良で背筋が伸びてしまう場所はもう一つ。
何故なのか?こちらの神社。
明日香村にある飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)。
その境内奥にポツリとある
「太神宮(だいじんぐう)」
こちらはただ事でなく強烈な!?アマテラス感。
令和のタイミングで刷新したものは
かなり長い間使っていたモノモノで。
先ずはリビングに敷いていた二枚の大きな
グリーンのラグマットとフロアランプ。
それと、寝具周りも、
しばらく変えていなかったものは全て新調。
長年使っていたベッドや、
ブログ読者の「こもりくさん」のアドバイスも頂いた
ベッドパッドやタオルケット。枕。
枕カバーもこれまでのものは全て破棄して新しいものに。
そんな刷新したモノモノを改めて眺め、考えてみると、
一つ気がつくことがあって。
それは、どうも直接体に触れることが多いモノモノで。
もしかしたら自分の苦心と苦悩と悲しみと血と汗と涙!?とが、
長きにわたり一番染み込んでいたものかもしれない!?
なんていうもの。
そんなものをイザ刷新!してみると、
意外なほど部屋や家の空気が一変もして。
これからはもっと短い周期で変えていってみようか、と。
最近はそんな気持ちにもなっています。
「げんげんぽんぽん」
「もともとほんぼん」
とも読めますが、
この言葉をよく知る方々の間では、
「はじめをはじめとし、もとをもととする」
と読むことが多いようです。
伊勢神宮を創り上げた......と言っても過言ではない、
倭姫(やまとひめ)さんの話した言葉として
「倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)」
という書物に刻まれています。
———————黒心なくして、丹心をもちて。
清く潔く斎り慎しみ。
左の物を右に移さず、
右の物を左に移さずして、
左を左とし、右を右とし、
左に帰り右に廻る事も、
万事違う事なくして大神に仕え奉る。
元を元とし、
本を本とする故なり—————————————
汚なき心を無くして、良き心を持ちて。
清く、いさぎよく、いつきり、つつしみ。
左のものを右に移さず、
右のものを左に移さずして、
左を左とし、右を右とし、
左に帰り、右に廻ることも、
万事違うこと無くして大神につかえたまわる。
はじめをはじめとし、
もとをもととするゆえなり。
「倭姫命世記」は、
伊勢の度会氏(わたらいし)が編纂したと言われる伝承的書物でもあり、
様々な議論が交わされる書でもありますが、もしかしたら、
この言葉こそが伊勢の神宮の
大元の教義と言えるものなのかも知れない、と。
個人的にはそんなことを思っていたりもします。
最近、令和という時代を迎えて、
自然と家にある色々なものを一新するようなことが
多くなっているのですが、その度に、
不思議とこの言葉が僕の心中に響いてくるのです......
「元を元とし、本を本とする」
簡素な言葉の内にある深遠さ。
なんだか、とても気持ちが引き締まります。
そして、熱く込み上げてくる情感も......少し。
理解出来そうで出来なくて。
実践出来そうで難しく。
倭姫さんの崇高な心や御姿にも思いを馳せてしまうのです。
奈良県、大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社でもある
桧原神社(ひばらじんじゃ、檜原神社)。
「皇大神宮聖蹟 倭笠縫邑(こうたいじんぐうせいせき やまとかさぬいむら」
の文字も。
僕が最初に倭姫さんをリアルに感じることが出来たところ。
九州などではよく見られる古い形の鳥居と、
やはり、貴重なる三ツ鳥居。
倭姫さんを感じた瞬間は胸が焦げる様に熱くなり、
強く込み上げてくるものもありました。
それ以来、
大神神社(おおみわじんじゃ)に訪れる際は必ず寄る様になった場所。
最近はとても綺麗に整備されていますが、
僕が最初に訪れた頃はかなりひなびた感じでした、が、
もう、その頃から気高さや気品さは段違いの神社さんであって。
とにかく背筋を正し、
気持ちを整えてからでないと鳥居をくぐることは出来ませんでした。
それは今も全く変わりません。
思えば、倭姫さんには幾度か、
清々しくも鋭い戒めをいただいたようなこともありましたが。
僕にとってはいつも緊張と感激と憧れと、
その間で揺れ動く気持ちで対することになる女神様。
そんな倭姫さんが語ったと記されている言葉には、
他にも自然と背筋が伸びてしまうものがあったりするのですが.......
———————人は天下の神物なり。
心神を傷ましむことなかれ。
神は垂るるに祈祷をもって先となし、
冥は加うるに正直をもって本となせり。
神を祭るの礼は、清浄をもって先となし、
真信をもって宗となす—————————
「心神を傷ましむことなかれ」
「礼は清浄をもって先とする」
この国の神道(しんとう)とは、決して宗教などではなく。
シンプルで根源的なアニミズムであり、
磨き抜かれた哲学であり、
深遠なる人生の訓戒(くんかい)でもあるのではないか、と。
僕はつくづくそんな風に思うのです。
魂の高嶺はまだまだ遠くにある様です。
倭姫さんと同じように、
同じ奈良で背筋が伸びてしまう場所はもう一つ。
何故なのか?こちらの神社。
明日香村にある飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)。
その境内奥にポツリとある
「太神宮(だいじんぐう)」
こちらはただ事でなく強烈な!?アマテラス感。
令和のタイミングで刷新したものは
かなり長い間使っていたモノモノで。
先ずはリビングに敷いていた二枚の大きな
グリーンのラグマットとフロアランプ。
それと、寝具周りも、
しばらく変えていなかったものは全て新調。
長年使っていたベッドや、
ブログ読者の「こもりくさん」のアドバイスも頂いた
ベッドパッドやタオルケット。枕。
枕カバーもこれまでのものは全て破棄して新しいものに。
そんな刷新したモノモノを改めて眺め、考えてみると、
一つ気がつくことがあって。
それは、どうも直接体に触れることが多いモノモノで。
もしかしたら自分の苦心と苦悩と悲しみと血と汗と涙!?とが、
長きにわたり一番染み込んでいたものかもしれない!?
なんていうもの。
そんなものをイザ刷新!してみると、
意外なほど部屋や家の空気が一変もして。
これからはもっと短い周期で変えていってみようか、と。
最近はそんな気持ちにもなっています。
檜原神社はとても静謐で
背筋が伸びます。
倭姫さん、厳しさの中の
優しさ。
飛鳥坐神社
アニミズムそのもの?!
年に一度、奇祭で賑わいます。
たくさんのもの
新調されたんですね。
身体に触れるもの刷新
タイミングよくてよかったです。
我が家も少し変わりました!
身体には、丹田と呼ばれる場所がありますが、
良い心を育む所 でもあるのでしょうか?
「人は天下の神物なり。心神を傷ましむことなかれ。」
とても嬉しくなり、心癒される言葉です。
投稿ありがとうございました。
「赤き心」
以前「朱の女神」という記事で詳しく記していた通り、赤は本来、生命力を表す言葉であって、
魔除けや命そのものを表す言葉でもあります。
丹という鉱物から転じて貴重なものという意味も含まれるかとも思います。
よって、丹田は「体の中でとても大事な場所」「中心となる場所」という意味でつけられていると理解出来ると思います。
今回記した「意訳」は、あくまで多くの人に分かりやすく伝わるであろう言葉を選択したということですので、
「黒」にしても本来は「汚れ」や「悪」などという意味も無いわけで、
あくまで色の持つ心的効果や対比の便宜として捉えてもらえたらありがたく思います。
言葉に込められている意味に思いを致しました。
以前のブログ記事も読みにいきます。
教えて下さり、ありがとうございました。