1900年を迎えたばかりのある日。
アメリカ大陸とヨーロッパを結ぶ大型蒸気客船
「バージニアン号」のパーティールームにあるグランドピアノの上に、
生まれたばかりの赤ちゃんが一人、
レモンの木箱に入れられ、捨て置かれていました。
その子を拾ったのは、
バージニアン号の機関室で毎日、毎日、
全身を石炭と油で真っ黒にしながら、
ただひたすらに蒸気機関を燃焼させる重労働をしている
大柄な黒人乗り組員。
彼はその赤ちゃんを自分の子として、
船の上で働きながら育てていく決心をします。
その黒人機関員の名前は「ダニー・ブードマン」
赤ちゃんが入っていたレモンの木箱に書かれていた商品名は
「T.D.レモン」
ダニー・ブードマンが自分の分身として赤ちゃんに付けた名前は......
「ダニー・ブードマン・T.D.レモン・1900」
「ダニー・ブードマン・T.D.レモン・ナインティーン・ハンドレッド」
「このくそったれな新世紀の最初の年の、
最初の月に見つけた子なんだ!
だから名前は、、1900!
ナインティーン・ハンドレッドだ!」
機関室の中でダニーはそう叫んでいました。
船のピアノの上に置き去りにされていた子供は、
機関室でひたすら石炭をくべる仕事をするダニーと、
その仲間達に、船をゆりかごにして育てられていきます。
そして、船に置いてあったピアノを、
物心がついた頃からの唯一の友達とおもちゃにして、
やがて船上の「超凄腕」ピアニストに育っていきました。
そんな彼の事を、人は皆
「天才ピアノマン!
ナインティーン・ハンドレッド!」
と、そう呼びます。
......そんな話しが、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画
「THE LEGEND OF 1900
(ザ・レジェンド・オブ・ナインティーン・ハンドレッド)」
邦題は
「海の上のピアニスト」
名作ばかりの彼の映画の中で
「ニューシネマ・パラダイス」
「マレーナ」
と並ぶ3大傑作の一つだと僕は思っています。
大好きな映画です。
そして、
この映画には一つだけ、少し気になる事があります。
それは、冒頭に記したダニーが叫んだ台詞(せりふ)。
「1900年」というのは、
ダニーが劇中で言うような新世紀の始まりの年......
「20世紀の始まりの年」ではありません。
学問的に正確に言うと、
その前の世紀......「19世紀の最後の年」になります。
ダニーの言った20世紀というのは、正確には
「1901年から2000年までの100年間」
のこと。
現在の僕らが暮らしている21世紀は
正確には2001年から始まっていますし。
例えば、5世紀といったら401年から500年まで。
1世紀といえば
「西暦元年である1年から100年までの間」
を指します。
なので......
「このくそったれな新世紀の最初の年の、
最初の月に見つけた子なんだ!
だから名前は、、1900!
ナインティーン・ハンドレッドだ!」
という台詞は、
正しくは
「このくそったれな世紀の最後の年の、
最初の月に見つけたの子なんだ——————————」
という感じになります。
名匠トルナトーレが間違える!?
ううーん......
最後まで見て行くと......
それは恐らく確信犯だと思います......が。
それでも見ていると、その
「間違えている台詞をスッと受け入れてしまう」
くらい、現在の「世紀に関する定義」には、
人が数字に相対した際の自然な感覚との
「大きなズレ=100年のズレ」
があるように思えるのです。
個人的にはダニーの台詞の通り
「1900年が新しい世紀の始まり!」
とする方がしっくりと来てしまう派でして。
1900年代は19世紀!と表したい派!
なのであります。はい。
1世紀と言ったら「百○○年」と思う感覚のほうが
自然じゃないかと思えますし、同様に、
5世紀と言ったら400年代ではなくて、
500年代で言われる方が自然な数字感覚に近いのではないかと思えます。
20世紀と言ったら、
本当は2000年から2099年までの100年間!
と定義してもらう方が分かりやすいのではないでしょうか。
しかし、実際は、20世期は1901年から2000年までのこと。
ヤヤコシイ。
どうしてこんな事に?
......それは「ZERO=ゼロ」の概念が含まれていないからです。
他にも幾つかの理由があるのかもしれませんが、
西洋において現在のような「世紀の定義」が出来た一番の大きな理由は、
「西暦」や「紀元」、「世紀」というものを記し出した時には、
未だ数学的な「0=ゼロ」という概念が無かったからです。
「ゼロ」という概念が最初に数学や算術の中に持ち込まれたのは、
実は6~7世紀頃のインドからでした。
もし、西欧で「紀元」や「世紀」の考え方が生まれた時に、
そのゼロの概念があったなら、
今のキリストが生まれたとされる西暦の1年は西暦0年となります。
そして歴史年表にも「ゼロ世紀」という表記が加わり、
0年から99年までの100年間を、
そんな「ゼロ世紀」と呼ぶ事になります。
すると、1世紀は100年から199年まで。
200年からは2世紀というふうになります。
個人的にはこの方がなんだかスッキリ!するのです。
冒頭紹介した映画「THE LEGEND OF 1900」でダニーが叫んだ台詞も
間違いでは無くなりますし、文字通り、
「1900年は19世紀の始まりの年!」
ということになるのでしょうか。
ゼロという概念は、
一般には「無」や「空」に近い感覚で
理解されているのではないかと思います。
面白いのは、
最新の物理学では、
真空で何も無いと思われていた「無」であるはずの宇宙空間が、
多くの微細なる物質で満たされている......
という事が分かって来ました。
それは一昔前に一度否定された「エーテル」的なもので。
今は「ダークマター」などと呼ばれているものです。
これは、
「無」や「空」は、
そのままの意味での「無」や「空」ではないということです。
「ゼロ」という概念自体は、
インドでの発明を待たずとも、
古代から世界中の人々の中にちゃんと存在していたハズだと思います。
そんな感覚は、
太古の昔から多くの人々はちゃんと理解していたとも思います。
そして
「何かがソコから生まれる」
からには、
ソコには
「有的な何かがきっとあるはずだ」
と。
「有を生む無は完全なる無では無いはずだ」
と。
そんな感覚は現代人でも何となく感じられている事だとも僕は思いますし、
今よりも強く自然や地球と結びついて暮らしていた太古の人々が、
そんな感覚をわからないハズが無いとも思います。
タダ単に、人々が昔から感じてきていたそんな太古の感覚や事実が、
数学や算術という学問的なモノの中に最初に持ち込まれたということが
インドで起きた......
というような表現がコトの真相でもあるのかと思います。
「ゼロ」というのは、
つくづく偉大な発見であり、発明であると思います。
年代の記述や世紀の話しのように、
ゼロの概念が組み込まれるだけで、
色々なモノゴトがスキッと整理出来てきます。
そして、そんな「ゼロ」という言葉や記号や概念があるという時点で、
その、ゼロ自体の実在性を証明しているとも思いますし、
故に、ゼロというのは「無」や「空」ソノモノのことではなく、
僕にはなんだか......
「何かを生む為の根源的な種子みたいなものを含んだ世界」
のように感じられるのです。
だから何かを
「ゼロにする」
というのは、真の意味では
「新たな息吹を宿らせるための作業」
ではないかと。
そう思える時があります。
何かを「ゼロ」にするというのも、
きっと悪い事ではないのでしょう。
時に必要な事でもあるのでしょう。
それは、きっと、また何かを生み出す為に。
「THE LEGEND OF 1900」のDVD。
コノ映画も人それぞれ色々な捉え方や感想があると思います。
最近は色々なレビューもアチコチに溢れていますが、僕の場合......
ダニーの台詞が確信的なものではないか......という事や、
少々映画とは関係ないように思われるかもしれない、
この記事の途中から後半にかけてのお話しが、実は、
決して映画と無関係の話しでは無いのではないか?
という事も、見ると分かってもらえるかもしれないな......と。
とにかくコノ映画は内容は勿論、音楽が......
素晴らし過ぎるのです。(T.T)
アメリカ大陸とヨーロッパを結ぶ大型蒸気客船
「バージニアン号」のパーティールームにあるグランドピアノの上に、
生まれたばかりの赤ちゃんが一人、
レモンの木箱に入れられ、捨て置かれていました。
その子を拾ったのは、
バージニアン号の機関室で毎日、毎日、
全身を石炭と油で真っ黒にしながら、
ただひたすらに蒸気機関を燃焼させる重労働をしている
大柄な黒人乗り組員。
彼はその赤ちゃんを自分の子として、
船の上で働きながら育てていく決心をします。
その黒人機関員の名前は「ダニー・ブードマン」
赤ちゃんが入っていたレモンの木箱に書かれていた商品名は
「T.D.レモン」
ダニー・ブードマンが自分の分身として赤ちゃんに付けた名前は......
「ダニー・ブードマン・T.D.レモン・1900」
「ダニー・ブードマン・T.D.レモン・ナインティーン・ハンドレッド」
「このくそったれな新世紀の最初の年の、
最初の月に見つけた子なんだ!
だから名前は、、1900!
ナインティーン・ハンドレッドだ!」
機関室の中でダニーはそう叫んでいました。
船のピアノの上に置き去りにされていた子供は、
機関室でひたすら石炭をくべる仕事をするダニーと、
その仲間達に、船をゆりかごにして育てられていきます。
そして、船に置いてあったピアノを、
物心がついた頃からの唯一の友達とおもちゃにして、
やがて船上の「超凄腕」ピアニストに育っていきました。
そんな彼の事を、人は皆
「天才ピアノマン!
ナインティーン・ハンドレッド!」
と、そう呼びます。
......そんな話しが、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画
「THE LEGEND OF 1900
(ザ・レジェンド・オブ・ナインティーン・ハンドレッド)」
邦題は
「海の上のピアニスト」
名作ばかりの彼の映画の中で
「ニューシネマ・パラダイス」
「マレーナ」
と並ぶ3大傑作の一つだと僕は思っています。
大好きな映画です。
そして、
この映画には一つだけ、少し気になる事があります。
それは、冒頭に記したダニーが叫んだ台詞(せりふ)。
「1900年」というのは、
ダニーが劇中で言うような新世紀の始まりの年......
「20世紀の始まりの年」ではありません。
学問的に正確に言うと、
その前の世紀......「19世紀の最後の年」になります。
ダニーの言った20世紀というのは、正確には
「1901年から2000年までの100年間」
のこと。
現在の僕らが暮らしている21世紀は
正確には2001年から始まっていますし。
例えば、5世紀といったら401年から500年まで。
1世紀といえば
「西暦元年である1年から100年までの間」
を指します。
なので......
「このくそったれな新世紀の最初の年の、
最初の月に見つけた子なんだ!
だから名前は、、1900!
ナインティーン・ハンドレッドだ!」
という台詞は、
正しくは
「このくそったれな世紀の最後の年の、
最初の月に見つけたの子なんだ——————————」
という感じになります。
名匠トルナトーレが間違える!?
ううーん......
最後まで見て行くと......
それは恐らく確信犯だと思います......が。
それでも見ていると、その
「間違えている台詞をスッと受け入れてしまう」
くらい、現在の「世紀に関する定義」には、
人が数字に相対した際の自然な感覚との
「大きなズレ=100年のズレ」
があるように思えるのです。
個人的にはダニーの台詞の通り
「1900年が新しい世紀の始まり!」
とする方がしっくりと来てしまう派でして。
1900年代は19世紀!と表したい派!
なのであります。はい。
1世紀と言ったら「百○○年」と思う感覚のほうが
自然じゃないかと思えますし、同様に、
5世紀と言ったら400年代ではなくて、
500年代で言われる方が自然な数字感覚に近いのではないかと思えます。
20世紀と言ったら、
本当は2000年から2099年までの100年間!
と定義してもらう方が分かりやすいのではないでしょうか。
しかし、実際は、20世期は1901年から2000年までのこと。
ヤヤコシイ。
どうしてこんな事に?
......それは「ZERO=ゼロ」の概念が含まれていないからです。
他にも幾つかの理由があるのかもしれませんが、
西洋において現在のような「世紀の定義」が出来た一番の大きな理由は、
「西暦」や「紀元」、「世紀」というものを記し出した時には、
未だ数学的な「0=ゼロ」という概念が無かったからです。
「ゼロ」という概念が最初に数学や算術の中に持ち込まれたのは、
実は6~7世紀頃のインドからでした。
もし、西欧で「紀元」や「世紀」の考え方が生まれた時に、
そのゼロの概念があったなら、
今のキリストが生まれたとされる西暦の1年は西暦0年となります。
そして歴史年表にも「ゼロ世紀」という表記が加わり、
0年から99年までの100年間を、
そんな「ゼロ世紀」と呼ぶ事になります。
すると、1世紀は100年から199年まで。
200年からは2世紀というふうになります。
個人的にはこの方がなんだかスッキリ!するのです。
冒頭紹介した映画「THE LEGEND OF 1900」でダニーが叫んだ台詞も
間違いでは無くなりますし、文字通り、
「1900年は19世紀の始まりの年!」
ということになるのでしょうか。
ゼロという概念は、
一般には「無」や「空」に近い感覚で
理解されているのではないかと思います。
面白いのは、
最新の物理学では、
真空で何も無いと思われていた「無」であるはずの宇宙空間が、
多くの微細なる物質で満たされている......
という事が分かって来ました。
それは一昔前に一度否定された「エーテル」的なもので。
今は「ダークマター」などと呼ばれているものです。
これは、
「無」や「空」は、
そのままの意味での「無」や「空」ではないということです。
「ゼロ」という概念自体は、
インドでの発明を待たずとも、
古代から世界中の人々の中にちゃんと存在していたハズだと思います。
そんな感覚は、
太古の昔から多くの人々はちゃんと理解していたとも思います。
そして
「何かがソコから生まれる」
からには、
ソコには
「有的な何かがきっとあるはずだ」
と。
「有を生む無は完全なる無では無いはずだ」
と。
そんな感覚は現代人でも何となく感じられている事だとも僕は思いますし、
今よりも強く自然や地球と結びついて暮らしていた太古の人々が、
そんな感覚をわからないハズが無いとも思います。
タダ単に、人々が昔から感じてきていたそんな太古の感覚や事実が、
数学や算術という学問的なモノの中に最初に持ち込まれたということが
インドで起きた......
というような表現がコトの真相でもあるのかと思います。
「ゼロ」というのは、
つくづく偉大な発見であり、発明であると思います。
年代の記述や世紀の話しのように、
ゼロの概念が組み込まれるだけで、
色々なモノゴトがスキッと整理出来てきます。
そして、そんな「ゼロ」という言葉や記号や概念があるという時点で、
その、ゼロ自体の実在性を証明しているとも思いますし、
故に、ゼロというのは「無」や「空」ソノモノのことではなく、
僕にはなんだか......
「何かを生む為の根源的な種子みたいなものを含んだ世界」
のように感じられるのです。
だから何かを
「ゼロにする」
というのは、真の意味では
「新たな息吹を宿らせるための作業」
ではないかと。
そう思える時があります。
何かを「ゼロ」にするというのも、
きっと悪い事ではないのでしょう。
時に必要な事でもあるのでしょう。
それは、きっと、また何かを生み出す為に。
「THE LEGEND OF 1900」のDVD。
コノ映画も人それぞれ色々な捉え方や感想があると思います。
最近は色々なレビューもアチコチに溢れていますが、僕の場合......
ダニーの台詞が確信的なものではないか......という事や、
少々映画とは関係ないように思われるかもしれない、
この記事の途中から後半にかけてのお話しが、実は、
決して映画と無関係の話しでは無いのではないか?
という事も、見ると分かってもらえるかもしれないな......と。
とにかくコノ映画は内容は勿論、音楽が......
素晴らし過ぎるのです。(T.T)
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