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夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

国家の再建

2010年07月07日 | 国家論

 

国家の再建


一頃、数学者の藤原正彦氏がベストセラー『国家の品格』という著書を書かれて、それを契機に、国家の問題が大きな話題にもなった。それも早いもので、もうすでに一昔前のことになってしまった。しかし、そうした流行とは別に、このブログや私の関心が、いかにしてこの日本国を品格ある国家に再建して行くか、ということにあるのは、今も、また、おそらく、これからも、私の根本的な関心事であることには変わりがないだろうと思う。ただ、私の考える「品格ある国家」と、数学者、藤原正彦氏の武士道に基づく「品格ある国家」とどのように異なっているかは、追々いずれ私自身の国家論を展開し具体化して行くなかで明確になってくるだろう。

品格ある国家の形成のために――もちろん私の考える品格と、数学者藤原正彦氏の「品格」とはその概念内容が異なっているが――その違いを明確にして行くためには、私の目指す国家を、「品位ある国家」と呼んでもいいが、そのためには、まず憲法の改正が根本的な前提となる。それと併行して、新日本国軍の建軍と兵役の義務の復活が要請されることになるだろう。

そして、精神的にもまったくアメリカナイズされた現在の自衛隊を、本来の日本の精神文化に即した、新日本国軍に再構成してゆくことが課題になる。いずれにしても困難な課題ではあるが、太平洋戦争の敗北を契機に、米国によって三流国家に貶められた日本国と国民を、再び誇りと品位のある国家と国民にして行くためには避けて通れない課題である。

もちろん、私とて現在の日本国民一般の「常識」から言えば、このような考えはまったく「荒唐無稽」の世迷い言のように受け取られることもわからないではない。しかし、むしろ現在の日本国民の「常識」を覆すことそのものが、一つの課題であり事業であるだろう。今日の日本社会のあらゆる側面での停滞と行き詰まりを見よ。

それにしても、哲学というものは、国民や大衆の移ろいやすい「常識」や「流行」に頓着するものではなく、ただ、ひたすら「概念」のみを、「真理」のみを課題とすべきであり、実際もともと哲学とはそうしたものである。私たちは、五十年後、百年後、二百年後の国家のあるべき姿を念頭に置いて、憲法草案を構想すべきであるだろう。それは大日本帝国憲法を止揚するものでなければならない。

現在の圧倒的大多数を占める日本国民は、戦後GHQの占領政策と教育政策および資本主義文化の深刻な影響を受けており、したがって私たちはこの世代を相手に仕事をすることはできないのである。真理と概念のみを仕事として、百年後、二百年後の日本国民に期待を託すしかないのである。私たちの現在の仕事もまた、将来の日本国民を対象に行われるものである。

隣国中国と北朝鮮の軍備増強を念頭に置きながら、そして、これら社会主義諸国の体制変革を、アメリカをはじめとする自由主義諸国家と連帯し協力して追求しながら、そうして現在のアメリカ軍にはお礼を言ってできるだけ早く本国に帰ってもらえる条件を整えて、明治時代の日本人のように、日本国は日本国民自身の手で守るという、自由と独立の品位ある国家の原則を確立してゆくことが課題になる。

 

 

 

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歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン

2010年06月06日 | 国家論
 
 
歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン―――歴史の見方

部分的な真実と全体的な真実

歴史を見る場合でも同じことがいえると思う。真相を把握するためには、単に物事を部分的に見るばかりではなく、全体的に見なければならない。事物について思考し判断する場合と同様に、歴史についても部分を精察するとともに、全体を俯瞰し眺望する必要がある。

先に行われた第二次世界大戦の一環として日米の間で戦われた太平洋戦争についても同じことが言える。二〇世紀も中盤になって太平洋を挟んで日本とアメリカが対峙しあった太平洋戦争も、それを大きな歴史的なパースペクティブで捉えることは欠かせない。

アメリカ大陸の東海岸に―――彼らがその地を後にニューイングランドと名付けたように――上陸したピューリタンたちを端緒として、イギリスからの本格的な入植が始まった。やがて、それも産業革命にともないイギリス本国の産業の発展によって、当時のイギリスの植民地としてアメリカ大陸への入植はいっそう活発になった。入植者たちは新しい新天地と富を求めて、西へ西へと向かう西部開拓を押し進めてゆく。やがてカリフォルニアに金鉱が発見され、いわゆるゴールドラッシュによって、アメリカの西部開拓はさらに加速される。

しかしすべてに終末があるように、いわゆるWASPの後裔たちが、西へ西へと活路を求めていった西部開拓も、彼らがやがて北アメリカ大陸の西岸、カリフォルニアにたどり着いたとき、もはや大陸本土での新天地はなくなった。しかし、工業力の発展に伴って彼らが豊かに生み出すようになった商品や植民地での産物の販路を求めるためには、必然的に太平洋の大海原に乗り出さざるを得ない。北アメリカ大陸からは太平洋の大海原の向こうにあるユーラシア大陸の極東岸にも、遅かれ早かれ彼らもたどり着く。そこに日本は地理的に位置していた。

こうしたいわば歴史的な必然のもとに、ペリー提督が神奈川県沖の浦賀に到達したのである。このとき日本は、まだ江戸幕府300年の太平の眠りについていた。北アメリカ大陸においては、西部開拓の途上で、彼らに敵対していた先住民であるいわゆるインディアンたちは、すでにその牙もすっかり抜かれて、ほとんどの部族は消滅させられていた。彼らは土地を奪われ、狭い居留地に押し込められてゆき、多くのインディアンたちは、西洋人の持つ近代的な武器の前に殺されていった。

アメリカ合衆国人の立場からすれば、太平洋を乗り越えて極東で出逢うことになった日本人もまた、二〇世紀における新たなインディアンに他ならない。このことは、俳優の渡辺兼やトム・クルーズらが登場して、西洋人が彼らの視点から日本人を描いてひととき話題になった映画『ラストサムライ』を見ても明らかである。この映画と、アメリカ・インディアンの視点から合衆国軍との戦いを描いたケビン・コスナー監督主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の二つの映画の本質的な同質性からも見てとれるものである。アメリカ合衆国人から見れば、十九世紀のアメリカ・インディアンも、二〇世紀にアメリカが極東で出逢い太平洋戦争を戦うことになった私たち日本人も本質的に異なるものではない。
 
すでに日本人は相応の文化を保持していたから、もちろん、アメリカ・インディアンとは異なって、簡単には部族を消滅させられることはなかった。むしろ、黒船来航を機に、日本人は明治維新をやり遂げて強力な軍事力を持つ近代国家を確立して、欧米列強と互角に対峙し得るまでになった。とはいえ、すでに歴史に見るとうり、日本人もまたアメリカインディアンと同様に、最終的には原子力爆弾の投下によって力ずくで壊滅させられ、そして、アメリカ合衆国軍による日本の占領統治は現在にいたるまで事実上続いている。

歴史を大きなパースペクティブから見つめるとき、つまり世界史の視点で自己を客観視するとき、あるいはヨーロッパ人やアメリカ合衆国人の視点で日本と日本人を見つめるとき、アメリカ・インディアンも日本人もさしたる違いはないのである。日本人は二〇世紀のインディアンに過ぎない。これからの世界史を私たちが生き抜こうとするとき、こうした歴史の教訓と立場を自覚しておく必要があるだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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国家、国籍、参政権をめぐる問題

2010年03月19日 | 国家論

 

pfaelzerweinさん、お久しぶりです。コメントありがとうございました。

ご承知のように日本はこれからの少子高齢化で、人口が急激に高齢化しかつ減少してゆくことが予想されているわけですが、そうした事態を招くまでに、人口増加のために一刻も早く対策を講じなければならなったのですが、もうすでに時を失したようです。

この困難な問題の解決に取り組む能力のある政治的指導者はかっての自民党時代にも、現在の民主党政権にも残念ながらいないと思います。一人の指導者の力量がどれほど国家や民族の命運を左右することになるでしょう。

鳩山民主党政権がこうした問題にいかに無能力な政権であるかは、その人事を見てみれば一目瞭然です。福島瑞穂女史をよりにもよって少子化対策担当相に任命し、かつまた男女共同参画担当相にもしていることからも、典型的な戦後民主主義人として――「坊ちゃん左翼」などと揶揄されていますが、生育した鳩山由紀夫氏が事実としてどのような思想の持ち主であるかが、こうした彼の人事から見てもわかります。このことは同時に、鳩山由紀夫氏には少子高齢化の問題というような困難な問題を本当に解決する意思も能力もないことを意味しています。

少子高齢化の本当の正しい解決は、もちろん国内の人口を増やすことであって、移民を増やすことではありません。残念ながら現在の政治的な指導者をも含む日本国民の能力では、こうした問題を解決する能力はないと思います。すべては、国家、国民、民族の持つ総合的な能力の問題です。能力、能力、能力の有無がすべてです。

それほど、現在の日本国民の資質が、民族としての総合的な能力が落ちている――それには多くの原因が考えられるでしょうが――からだと思います。

日本国民とは誰のことかと言えば、それは形式的には、もちろん日本国籍を持つ者のことです。そして日本国民であることの要件は、国籍法などに規定されています。さらに具体的にいえば、日本国籍のパスポートを取得する権利を持つ人間のことです。

日本国憲法に「日本国民たる要件」は法律でこれを定めるとあり、その法律とは国籍法のことですが、その重要な変更が、2009年1月に国民に周知徹底されることもないままに改定施行されたことはご承知の通りです。――法律は国民にその存在を周知徹底させることが不可欠ですのに――あたかも、こっそりと誰か陰謀家の策謀のように、改定施行されました。

そもそもこの国籍法の改定については、日本人男性とフィリッピン女性との間のいわゆる婚外子の子供の日本国籍の取得をめぐって下された先の最高裁判決がその根拠になっています。同時に民主党政権になって問題になり始めている外国人参政権や国籍取得などの、国籍や国家や民族などをめぐる一連の問題についても根本的に批判するためには、したがって、そこに示された判事たちの、歴史観、時代観、国家観、民族観、家族観から批判してゆく必要があります。

これらはいずれも私にとって終生のテーマでもあり、あらゆる角度から全面的に客観的に考察してゆく必要のある問題でもあって、早急に結論の出せる問題でもないと思います。いずれ近いうちに、こうした問題についても私なりの論考を明らかにしておきたいとは考えていますが、いずれにせよ、国家や民族の問題を考察するときのスタンスは、先の論考「反日と愛国」で論証した通りです。この絶対的な立場のうえに立脚しない論考は、それがどれほど厳密な論理で構築されようと、結局は砂上の楼閣だと思います。

pfaelzerweinさん、最近になって貴ブログに時折体調不良の記事が散見されています。お仕事上もあるのでしょうが、くれぐれもご自愛下さいますよう。それではまた。

 

 

 

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反日と愛国

2010年03月13日 | 国家論

 

反日と愛国


在日の外国人に参政権を付与することに積極的な民主党が、昨夏以来に国会で多数を占めたところから、「外国人参政権付与問題」がとみに現実性を帯びるようになった。それに応じて、この問題をめぐっても賛成反対の議論がかまびすしくなってきている。

もちろん、言うまでもなく在日の外国人の人権がおろそかにされてよいわけではない。基本的な人権においては日本人と同じよう尊重されるべきであることも言うまでもない。外国人とは友好の関係にあるのが理想で、だから北朝鮮による拉致問題の対応などで朝鮮学校に通う生徒に嫌がらせなどをすることがあってはならないのも今さら言うまでもない。しかし、残念ながら日本人のすべてが聖人君子の紳士というわけにも行かない。そうした醜い行動をする日本人のいるのもたしかだ。これはしかし日本人だけではなく、現在の人類一般のモラル水準の現実がそういうものであるにすぎない。

外国人にも日本人と同じように参政権を与えるのというのが理想的であるのかもしれない。しかし、それは理想であって、人間一般の傾向を見ても、また私自身の心の内面を振り返って見ても、なかなか人間性悪説を捨てきれない立場からすれば、民主党の小沢一郎幹事長や赤松農水相などが最近になって韓国や民団などの会合で「外国人に参政権を付与する」ことを明言していることについて、拙速ではないかという懸念を捨てきれない。外国人に参政権を付与することについてもどうしても慎重な姿勢を崩せないのである。

在日の外国人がすべて善意の人間ばかりであれば、そもそも何の問題もないのである。しかし、現実がなかなかそうではないから問題なのである。外国人の中には敵意と憎悪に満ちた者もいる。それが問題なのである。

外国人のすべての者がもちろんそうであるわけではないが、中国人や在日朝鮮人たち、あるいは帰化日本人たちの中に、日本人や日本に対する憎悪や敵意に満ちた者もいる、それが事実だろう。

とくに中国人や朝鮮人で、何らかの事情で日本に帰化したものの、彼らがすべて日本人や日本国に好意的であるとは限らない。むしろ、彼らの中に反日の敵意と憎悪に満ちた者がいる。彼らは、帰化して国籍を取得することによって、国籍は一応は「日本人」であるのに、日本に対する本当の愛国心を持たない。それどころか、彼らの内心は、日本に対する敵意と憎悪に満ちている。

それでいながら、国籍上はまぎれもなく彼らは「日本人」であるし、また、日本語しか話すことができず、また容貌上も普通の日本人とまったく区別が付かない。だからこそ、まったくの困り者なのである。このような偽日本人が「日本」や「日本人」についての憎悪に満ちた偏見や悪意を、時に触れ折に触れヨーロッパやアメリカなどにまき散らす。彼らの「日本人像」や「日本像」ほど、世界において日本に対する諸外国の誤解や偏見の種になるものはなく、まったくに始末に困るものである。

とくに、もともと本当に日本を愛することもない悪意に満ちたもと在日朝鮮人などの帰化「日本人」が、日本人面したジャーナリストなどになって、従軍慰安婦問題や南京事件などめぐって、諸外国の日本に対する偏見を助長するような記事を書いて、悪魔的な歓びに浸るということもある。

外国人参政権の問題についても、日本在住の外国人がすべて日本に対する善意の保持者であれば問題はない。もちろん、私たちは外国人に対して愛を特別に要求することはできない。普通の常識的な好意を示してくれるだけで感謝し満足すべきであるだろう。しかし、一方で理由もなく日本や日本人に敵意と憎悪を示す外国人や国籍だけが「日本人」という者もいる。これが現実である。だから、日本自身が祖国防衛の観点から、外国人に対する参政権付与の問題について慎重であるのも当然である。外国人の基本的な人権問題との関係においても、あらゆる角度からその利害得失について検討を加え、拙速を招かないようにすべきである。

また、GHQの占領政策が功を奏したのか、敗戦のトラウマか、反日日本人も少なくない。日本人でありながら自国の文化にいちじるしい劣等感と拒絶反応を示し、その一方で盲目的に欧米文化を崇拝して、欧米人たちの傲慢な優越感情に悪のりし、父祖伝来の日本の伝統文化や生活様式を悪し様に罵る。また、自虐的なほどに日本の弱点欠点を外国に向けて吹聴して、欧米人に媚びを売る。

結局は愛の問題だと思う。どれだけ本当に日本を愛しているか、それが判断の基準である。外国人であっても、また帰化日本人であっても、そこら辺の戦後の「植民地日本人」以上に深く偽りなく心の底から日本と日本人を愛している者もいる。彼らはみな日本の友人である。聖書のルツ記にもあるように、たとえ異民族出身の女性であっても義母を愛したルツは、やがてユダ族に嫁いでダビデ王の曾祖母になった。かってみずからが外国の寄留者であったモーゼは、寄留者、外国人を虐げてはならないと命じた。(ルツ記、出エジプト記第23章など)

その言動の根本に日本への誠実な愛を欠くとすれば、それは単にやかましい銅鑼の音や太鼓の音と変わらない。たとい全財産を日本のために施そうと、それは空しい。また、たといわが身を神風特攻隊員のように祖国のために死に渡そうとも、そこに真実の愛がなければ、単なる虚しい物語にすぎない。

 

 

 

 

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国民とは誰のことか

2010年02月28日 | 国家論


国民とは誰のことか                                                                  ――小沢一郎氏の民主主義

民主党や小沢一郎氏などがよく用いる言葉に「国民」という言葉がある。(もちろん、私もこの言葉を多用していますが。)実際においても、この「国民」という言葉は、現代の社会で最も多く使われる言葉の一つのように思われる。

先の二〇〇九年夏に行われた衆議院総選挙でも、民主党はマニフェストのなかで、「国民の生活が第一」であるといったスローガンを掲げて戦っているし、共産党の主張は昔から「国民が主人公」である。本当は「人民こそが主人公である」と言いたいのかもしれないが、国民新党などは党名そのものの中に、「国民」という言葉を使い、「国民のために働く」と言っている。

国民という言葉がこれほど多用されるようになったのも、太平洋戦争の敗戦後に制定された日本国憲法の前文などにおいて、「国民主権」の宣言されたことによるものにちがいない。明治憲法においては、井上毅の原案では「国民」となっていたが、伊藤博文によって「臣民」に代えられた。

しかし、そもそも「国民」とはいったい誰のことか。国民の定義はいったいどのようなものなのか。通常、普通に考えられている国民というのは、日本国民についていえば、日本国籍を有する人間の総体をいうのだろうと思う。さらにまた、たとえば小沢一郎氏などが「国民」という言葉で考えている中身は、具体的には、国民の人口の過半数のことであり、国民の多数者のことであろう。さらには選挙を通じて国民の過半数によって代表される、多数者の意思、いわゆる民意のことであると思われる。

とくに、本質的に権力者であろうとする小沢一郎氏などにとっては、この国民の意思とは、「民意」という自己の権力を確立するための手段であるところの「多数者の意思」に他ならない。

しかし、国民の意思といい、民意と言っても、それはちょうどルソー流の民主主義と同じく、理性や概念とはまったく無関係である。それは単に多数者に共通の、抽象的で悟性的な意思であるにすぎない。だから、フランス大革命の末期や共産党の文化大革命のように、ひとたび憎悪や嫉妬にからめとられると、多数者によるすさまじい暴虐として現象するのである。

それはまたかって共産主義国家や社会主義の歴史において、民主主義の多数者の意思として、政治的に経済的に破綻を招き寄せることになったものである。すでに過去の現実に見たとおりである。そして、鳩山民主党も同じように、この歴史の轍の跡を踏もうとしている。

このルソー流の抽象的な国家原理としての「国民の意思」は、もちろん、GHQの知識人たちの手を通して、現行日本国憲法に持ち込まれたものである。だからこそ、民主党や小沢一郎氏なども、このルソー流の「国民の多数の意思」をもって、いわゆる「民意」をもって国家の原理としようとする。しかし、この多数者の意思は、ただ多数であることを本質とするものであって、そもそも「法」とか「真理」とか「概念」とは無関係である。それゆえに彼らには、理性的な意思の現実としての国家というものに理解が及ばないのである。

その結果、多数を獲得して今やみずからを権力者と自覚するようになった小沢一郎氏は、国民多数の意思をもって、すなわち民意を自己が体しているという傲慢な思いこみの許に、なんらの畏れもおののきもなく、天皇陛下のご意志や国家や民族の理性的な伝統を踏みにじるのである。またそこから、法律違反の嫌疑に対する、検察の法に則った職務の忠実な執行も、小沢一郎氏にしてみれば、彼みずからの信じる民主主義への挑戦としか映らないのである。

民意という名の下に絶対的な意思を獲得したと盲信する小沢一郎氏は、ただひたすらに国会や選挙で多数を獲得することだけに狂奔して、そして、それが民意を体する民主主義を実行することだと悟性的に信じ込んでいる。それは多数に名を借りた「全体主義」であり、そこから小沢一郎氏に対して多くの人々から「独裁者の登場」とかいった批判も生まれてくる。

現実には彼の盲信する「民主主義」によって、かって歴史上に登場した多くの狂信的な革命家が実行したように、伝統や自然法といった現実の生ける理性をズタズタに切り裂いて殺してしまうことになりかねないのである。日本国民は、ただ多数であることをたのみとする小沢一郎氏などのルソー流の民主主義者を警戒する必要があるだろう。


参照


 沖縄県民の民主主義

 【正論】小沢氏の権力集中は独裁の序章 評論家・西尾幹二1.27 
 
 
小沢一郎という私たちの問題(菱海孫)

 ヘーゲル『法の哲学』§258

 

 

 

 

 
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腰抜け国家、日本の行方

2009年05月28日 | 国家論

北朝鮮制裁 臨検強化など焦点に 国連安保理で調整本格化(共同通信) - goo ニュース


腰抜け国家、日本の行方


北朝鮮がふたたび核実験を行った。アメリカやロシア、中国は前回の北朝鮮の核実験の時よりは、北朝鮮に対して厳しい批判を行っているようである。しかし、北朝鮮の暴走をくい止めるだけの牽制力は、アメリカのみならず中国、ロシアのいずれの国にもない。実質的に北朝鮮の金正日体制を崩壊させることのできるのは、アメリカと中国しかないが、この両国は現在の金正日体制の崩壊を事実上望んでいない。そうである以上、金正日体制が当面さしあたって崩壊することはない。したがって金正日体制はなお存続してゆくものと考えなければならない。また金正日が核カードこそが最貧国北朝鮮の国際外交における唯一の交渉カードであると信じている以上、北朝鮮が核弾頭のミサイルを完成させる時が必然的に来る。それを予想しておかなければならない。

そうした状況に立ち至ったときに日本国民がどのような態度をとるか、それが問題である。その時日本と日本国民が自由と民主主義の自らの国家体制を守ろうとすれば、北朝鮮に対する軍事的な対抗手段を―――核武装や敵ミサイル基地に対する先制攻撃を含む――を構築する以外にない。これは独裁国家体制の北朝鮮を地勢的に隣国に抱える日本の宿命である。

拉致及び核に関する北朝鮮問題の根本的な解決は、金正日体制の崩壊以外にないことは明らかである。北朝鮮において、金正日の先軍国家体制が継続するかぎり、拉致問題も核問題も根本的な解決をみることはない。そして、現在の北朝鮮の金正日国家体制を支えているのは、事実上、中国でありロシアでありアメリカである。中国は北朝鮮との貿易関係によって実質的に金正日体制を支えている。

日本国民が先の太平洋戦争の敗北によって、とくに、アメリカ軍による原爆投下によって、実際に国民の国家の独立に対する精神が崩壊させられている事実については、先のいくつかの論考で明らかにしてきた。それほど、先の太平洋戦争における日本国民の戦争に対するトラウマが深刻なものとして刻まれているということである。先の大戦の結果として、すでに日本国民は独立の気概も、戦争に立ち向かう精神も失ってしまったのである。

中国、ロシアは言うまでもなく、もはやアメリカの国益からも、アメリカの核の傘もほころび始めたと考えるべきだろう。果たして、その時に孤独な日本国と日本国民は、自らの自由と民主主義、伝統と文化と独立をどこまで真剣に守る覚悟が出来ているか、それが問われる時が来るのである。

アメリカや中国、ロシアに、北朝鮮の暴走をくい止める努力をどこまで真剣に取り組ませることができるか。それは、北朝鮮の核武装に対して、国家の防衛と存続に日本国民がどれほどの覚悟をもつか。それを国際社会に対して、とくにアメリカ、中国、ロシアに示すことができるかにかかっている。


自己決定権のない国家
http://anowl.exblog.jp/8215603

北朝鮮とアメリカの猿芝居
http://anowl.exblog.jp/5700638

北東アジアの夢―――六カ国協議の遠い行方
http://anowl.exblog.jp/4827679

北朝鮮の核武装
http://anowl.exblog.jp/3977934



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自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)

2009年03月07日 | 国家論

 

自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)

hishikaiさんは、英国保守主義の三原理として、伝統主義と有機体主義と政治的懐疑主義を取りあげられていますが、たしかにこれらの原理は国家における真理を実現してゆくうえでとても大切だと思います。

とくに、このことは太平洋戦争に敗北した結果として、GHQによって制定された日本国憲法に見られる今日の病弊を考えるうえでとても重要な観点だと思います。と言うのも、現行の日本国憲法がその欠陥ゆえに、わが国社会に引き起こしている問題のすべてが、この英国保守主義の三原理、伝統主義、有機体主義、政治的懐疑主義を欠いていることに起因していると考えられるからです。

日本国憲法には、国家を一つの有機体として捉える観点は存在していませんし、日本の過去を「封建主義」の名の下に一蹴してしまって伝統主義のかけらもありません。また、ドグマと化した「平和主義」を狂信的に信奉する日本の憲法第九条擁護論者たちの多くは、自己の思想信条や信念を相対化する能力も、政治的懐疑主義のもつ謙虚さをも、いささかも持ち合わせていない人たちが大半だからです。

東京大学などで教鞭をとっている憲法学者たちにも、浅学な私の知るかぎりにおいても、英国保守主義の三原理の観点から憲法を論じる学者はいないと思います。憲法学者の樋口陽一氏に代表されるように、その多くはフランス革命の系譜を引く大陸系の実定憲法論者たちであり、現行日本国憲法が、あたかも不磨の大典のように、何らの懐疑的な精神もなく信仰されているように思われます。

hishikaiさんが英国保守主義の三原理として取りあげておられる観点を、別な角度から論じるとすれば、それは自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)との違いとしても取りあげることができると思います。

ご承知のように現在のイギリスにおいては憲法は成文化されていません。しかし、憲法が成文化されているか否か、軟性憲法であるか硬性憲法であるかという違いは本質的な問題ではなく、憲法の概念にとってもっとも重要なことは、その憲法が自然憲法(Verfassung)であるか、単なる実定憲法(Konstitution)であるかだと思います。

マッカーサーによって日本国民に与えられた日本国憲法は、たしかに、先の明治期に伊藤博文たちによって起草された大日本帝国憲法よりも、国民主権や国民の人権擁護、自由の規定においてははるかに進んだものでした。しかし、権利の行使や自由と民主主義について12歳のBOYである日本国民自身の自覚と感情は、かならずしも現行日本国憲法の水準に達しておらず、そのために大阪府や夕張市などの日本の地方都市に多く見られるように地方自治の形骸化を、民主主義の変質と堕落を招くことになっています。

それは何よりも現行日本国憲法が、伝統や文化から切り離された「作られた憲法」、実定憲法(Konstitution)であることから来ています。ヘーゲルも言っているように、憲法は「決してたんに作られるものではないからであり、それは数世紀にわたる労作であり、一国民において発展せしめられているかぎりの理念であり理性的なるものの意識」(法の哲学§274)が具体化されたものであるべきはずです。まして現行日本国憲法のように、日本の伝統文化にも無知なGHQの三流の進歩的知識人によって、二週間か三週間の一月足らずの間に作り上げられるようなものが憲法ではありえないからでです。

成文化された硬性のものか、あるいはイギリスの憲法のように不文憲法であるかを問わず、憲法は国民の伝統的精神によってつらぬかれた無条件に神聖で恒久的なものであってはじめて理性的な憲法といえるのだと思います。現行日本国憲法のように、マッカーサー憲法の翻訳にすぎない悟性的憲法では、とうてい国家としての日本国の永遠性も理性(ヌース)も体現したものではありえないのです。現在の日本国が、数学者の藤原正彦氏の言われるような品格無き国家だとすれば、それは日本国憲法が「国民の形而上学」とは無縁のところで成立したものだからだと思います。


『法の哲学』ノート§272(国家体制、憲法)

http://anowl.exblog.jp/8428820

『法の哲学』ノート§273(国家体制、憲法2)

http://anowl.exblog.jp/8437531/

保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20051214

 

 

 

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戦後の欺瞞と日本国の独立の回復

2009年02月11日 | 国家論

 

戦後の欺瞞と日本国の独立の回復

日本国の長い歴史のなかで、日本国がその独立を失った期間はきわめて短く例外的である。四方を海に囲まれるという地理上の位置が幸いにして、独立を失って他民族の支配をうけるという経験はこれまでの歴史上ただ一度あっただけである。しかし、残念なことには、その日本のたった一度の従属国家、被支配国家の経験が、私の生存中の出来事だった。

あまり誰も言う者がいないので、再度言っておこうと思う。戦後六十余年、経済的にはGDPで世界第二位を占めるまでに至っているけれども、国内に外国駐留軍の存在を放置したままであるということである。自国の安全と独立を他国に、それも太平洋戦争の敵であったアメリカ軍に依存したままであること、ここに戦後日本の欺瞞性の根幹がある。

日本が軍事的にも独立を回復することなくして、国家の概念は実現せず、日本国と日本国民の欺瞞性、虚偽性、偽善的性格も解消しない。そこから文化的な退廃、国民の植民地的性格も生じる。この状況も、人間の年齢でいえば還暦を迎えて、本卦還り(ほんけがえり)を迎える歳月を経過してもなお続いている。

世界史の現時点においては、軍事力なくしては国家の独立を確保することができない。したがって、もし日本国が憲法前文の理想にいう「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」自国の軍事力を保持しないとするならば、その理想を選択する結果として、現実においては日米安保条約によって、同じく自由と民主主義を奉じるアメリカ軍の駐留による軍事力によって、日本国の安全と平和を確保せざるをえない。しかしその結果として、自国の独立の防衛を他国に依存するという最大の退廃が生じる。そして、このことが太平洋戦争後の日本国と日本国民の虚偽、欺瞞性の根幹をなしている。この国家の独立という根幹における虚偽を放置したままにして、どのような国民教育も文化も経済的な発展も政治も真実なものではありえない。

憲法第九条擁護の原理主義者たちは、現在の世界史における国家相互間の独立と平和が軍備なくしては保証されないという現実を見ようとせず、自分たちの身勝手な「理想」に陶酔したいがために、その結果として自国の独立と安全の保証を彼らの多くが毛嫌いをするアメリカに依存せざるを得なくなっている。

労働組合の多くは米国原子力航空母艦ジョージ・ワシントンやロナルドレーガンの日本への寄港に反対しているが、これらのアメリカの航空母艦が日本に寄港し、また沖縄や座間、三沢などに米軍基地が存在するのは、軍隊の保持を禁じた憲法第九条の存在のために、日本が独立して自国の防衛を果たすことができないためである。この現実を彼らは見ようとしない。

日本国独自の軍事力で自由と民主主義の体制を守ることができるのなら、日本国内にアメリカ軍基地を認める必要もなく、アメリカ海軍航空母艦の日本寄港に反対する必要もない。

だからといって憲法九条擁護論者や労働組合が自力国防を主張するかというとそうでもない。彼らは憲法の第九条の擁護を狂信的に主張し、自衛のための軍事力を保持することすらひたすら反対しながら、アメリカ軍の駐留や空母の寄港にも反対する。もっとも、彼らの本音は日本国が北朝鮮や中国のような国家になることだから、日本国の独立などどうでもよいのである。

しかし、もし日本国と日本国民が本当の品格を取り戻そうとするなら、大日本帝国憲法下の時代の日本がそうであったように、自国の独立の保証を自国の軍備に求めざるえない。この国家の独立に対する国民の義務の根幹を放置したままでは、どのような経済発展も、政治も、文化も、教育も、その国民の欺瞞性を覆い隠すことはできない。

 

 

 

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国家の基礎としての聖書

2009年01月27日 | 国家論

 

国家の基礎としての聖書

これまでの論考でも、イスラエルやアメリカについてはその国家の基礎にキリスト教、もしくは聖書のあることについていくどか触れてきた。しかし、聖書やキリスト教を基礎としている国家は、アメリカやイスラエルの二カ国だけに留まるものではない。イギリスもスイスもデンマークもドイツもフランスもフィンランドなども、キリスト教や聖書の倫理を基礎としている。聖書の上に国家を築いている。ヨーロッパ諸国はそのほとんどはキリスト教国家である。

宗教を基礎にもたない国家はない。中国や北朝鮮などのように無神論や唯物論という「宗教」の上に成立した国家もある。そして、国民生活の質は宗教によって規定される。だから劣悪な宗教の上に立つ国家と国民は不幸である。

たしかに日本では歴史的に伝統的にいまだ国民の圧倒的大多数は聖書やキリスト教とは無縁なところで暮らしている。伝統的な仏教や儒教、神道などの文化の現状からいっても、日本国の基礎が聖書にあるとかキリスト教にあるなど言うことはとうていできない。

日本は黒船ペリー提督がアメリカから来航して国を開いて以来も、和魂洋才を叫んで科学技術文明と精神文明を切り離し、実利的な国民性からも科学技術だけは手に入れても、キリスト教の流入は防ごうとした。しかし、伊藤博文らが制定の労をとった大日本帝国憲法も西洋キリスト教国の立憲君主制にその範をとったもので、すでに立憲君主制自体に西欧諸国の歴史的な由来がある。そして、西洋諸国の歴史からキリスト教を切り離すことはできない。現代においては世界のどの国も聖書とキリスト教の上に立つ西洋文明の影響からまぬかれることはできないのである。

たしかに仏教や儒教を倫理的な基礎としてきた日本には、論語や法華経などのような経典があった。しかし、西洋キリスト教国のように国民の書としての聖書やキリスト教のような日常的で体系的な倫理体系をもっているとは言えなかった。そのために、いわゆる文明開化後の日本において、国民道徳のみだれに直面した山県有朋たち明治政府の指導者たちは、西洋諸国の聖書のような国民道徳の規範ともすべく、教育勅語を儒学者で東大教授の井上哲治郎などに起草させ、それを天皇の権威において公布した。

教育勅語自体は普遍的な一般道徳を述べたもので、神道などの特定宗教に偏ったものではなかった。けれども、かならずしも十分に民主主義的ではない明治政府によって公布されたため、太平洋戦争時に国家主義を助長することになったとして日本の敗戦後にGHQの占領政策によって失効することになる。

国民に道徳規範を人為的に国家権力の手によって強制することはできない。実際はむしろ逆で、国家が宗教によってその権威と正当性を獲得するものである。国家によって制定された道徳規範は、その国家の崩壊とともに権威と信用を失う。戦後の日本のように敗戦によって道徳の規範である教育勅語が失効してからは、国民は倫理的な価値基準を失って道徳的にもあてどもなく漂流し、その精神的な空白をカルトや共産主義、新興宗教その他で代用し埋めようとする。

古来あらゆる戦争が民族と宗教の間に生じたように、太平洋戦争もまた宗教観をめぐる戦争でもあった。そして、日本の敗北の結果によって制定せられた日本国憲法には、その思想的な背景も大きく変わることになる。すでに伊藤博文の起草になる大日本帝国憲法そのものも「立憲君主制」というイギリスやプロシアのキリスト教諸国の歴史的産物に範を取ることによって、キリスト教の影響を間接的に受けていたが、戦後の日本国憲法にはその人権や個人の尊厳などの規定において、アメリカ・プロテスタンティズムの思想がより直接的に反映することになる。

だから、ある意味ではすでに日本国憲法の下にある現代日本も、思想的には聖書やキリスト教を基礎としていると言うことはできるが、ただそれが国民的な自覚の上には立っていないという現実がある。

戦後六〇余年をへてもなおそうした現状にあるとしても、事柄の必然性からいっても、いずれ日本国も国家としての基礎を聖書に求めるようになるのは、おそらく時間の問題だと思う。もちろん時間といっても、主なる神の眼には千年も一日のごとしという時間の単位の上での話である。いずれ日本国も国家の土台に聖書を据える時が来る。あるいはすでに来ている。聖書が日本国民の「国民的書物」となる日も近いのではないだろうか。毎冬繰り広げられるクリスマスのお祭り騒ぎもそれを証明している。

 

 

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イスラエルとパレスチナの罪――人類の原罪

2009年01月10日 | 国家論

 

レバノンからも砲撃「南北から挟み撃ち」 イスラエルに衝撃(産経新聞) - goo ニュース

イスラエルとパレスチナの罪――人類の原罪

戦争というものは、その当事者のどちらが悪いどちらが善人であるとかというような論争をしても、多くの場合不毛である。現実の世界史においては、敗者は悪人にされ、勝者が善人になる。このことは、日本の歴史でかって戦われた戦争であれ、人類の発生以来に世界中で戦われた戦争であれ、また先の太平洋戦争や現に行われているパレスチナとイスラエルの間の戦争でも本質的には同じである。

2008年末からのガザ地区への侵攻をイスラエルは、ハマスのロケット攻撃から身を守るための自衛のためであると言い、一方のハマスは、イスラエルの建国の結果として、自分たちが難民として悲惨な境遇に追いやられている被害者であると主張しイスラエルの存在自体を認めようとしていない。

民族や国家の間に起きる戦争は、また、たとえ同じ民族の間に生じた戦争であっても、それは正義や善悪を動機として行われるものではなく、利害をめぐって戦われるのが普通である。近代になればなるほど、戦争の道徳的な性格は高まってくるが、古代においては、その戦争の多くは文字通りのむき出しの略奪や支配など利益をめぐって行われたものである。いや、現代においてもなお、国家や民族のあいだに行われるほとんどの戦争というものは、利害対立をめぐって行われる。そこで掲げられる正義というものは互いの利害を隠すための標識にすぎない。世界史の舞台は今もなおライオンが子鹿に襲いかかるような、弱肉強食の世界である。

かって13世紀のユーラシア大陸において、モンゴル帝国のチンギス・ハーンが、東欧やロシア、中国、中東さらに日本にいたるまで、東西にわたって繰り広げた略奪と虐殺の侵略の歴史などはその最たるものといえる。

現在のパレスチナ・イスラエルのあいだの戦争も、3、4000年もの昔からその因縁を引きずっている。聖書の創世記の時代からすでにその起源はある。

聖書によれば現在のパレスチナの土地は神がアブラハムに約束された土地であり、アブラハムは父のテラといっしょにバビロニアのウルを出発して以来、この地ペリシテ人の国にようやくたどり着いて寄留し、やがてそこに定着したものである(創世記第二十章以下)。しかし、とうぜんそこに先住民がすでに住んでいたし、そこで命の綱である水の湧き出る井戸をめぐって争いも起きた。

やがてアブラハムの子孫はそのカナーン地方に定着したが、アブラハムの子孫であるヨセフは飢饉が起きたためにエジプトに逃れる。ヨセフの一族はそこで栄えるがエジプトのファラオの圧迫を受けて奴隷の境遇に置かれることになる。その同胞を解放したのがモーゼであり、彼はふたたび先祖であるアブラハムに約束された土地に彼らを連れて帰る。すでにその時にはカナン人が住んでいたが、それをモーゼの跡を引き継いだヨシュアは、先住民を追い払ってそこに住む。ダビデ、ソロモンの王の時代に民族としての全盛期を迎えるが、それもやがてバビロニアの王国に滅ぼされ、この民族は俘囚の身となって連れ去られる(エレミヤ書)。

歴史的にもヘブライ民族はディアスポーラとして全世界に離散してゆく運命にある。それがほぼ2000年にわたって続くが、20世紀のドイツで行われたヒトラーのホロコーストをきっかけに、ユダヤ人はシオニズム運動により1948年にパレスチナの地にユダヤ人の国家イスラエルを建国する。歴史の眼からすればそれもつい最近のことである。

ユダヤ人が全世界を流浪していた間にも、パレスチナの地では、彼らの子孫とともに多くのイスラム教徒やキリスト教徒たちが先住民として住んでいた。しかし、イスラエルの建国とともに、彼らの多くが難民としての境遇におちいることになる。歴史的に見れば、パレスチナ人もイスラエル人もいずれもが加害者であり被害者でもある。

今日の国家としてのイスラエルは、その本質はユダヤ教徒の国家である。この民族の数千年にわたる全世界の流浪によって、セム系民族としての血統的なアイデンティティはほぼ失われており、現在はただユダヤ教徒であることが唯一の「民族」のアイデンティティとなっている。その意味で国家としてのイスラエルの存在は聖書の神の実存についての歴史的な存在証明でもある。

また、この神は三位一体の神としてアメリカの建国を導いた神でもある。その意味で、キリスト者はアメリカもイスラエルもいずれについても、国家としての神の実存の証明として、その歴史的な存在の必然性を注視せざるをえないものである。

戦争が人間にとって悲惨な出来事であることは、今も昔も変わりはない。なくて良いものに戦争ほどのものはない。それにもかかわらず、人類の歴史と戦争の歴史は歩みをともにしている。イスラエル人もパレスチナ人もそれぞれの生存権を相互に認めない「過激派」が実権をにぎっているかぎり、血を血で洗う流血は避けられない。両者が民主主義の神を認め、互いの宗教の自由、信教の自由を認めあうときの来るまで、この地に紛争の止むときは来ないと思う。

しかし、人間はその原罪の本性を変えることができるか。できなければ、その帰結は、「悪しき霊」によって集められた王たちと指導者たちによって、メギドの丘に行われる終末の戦争を待つだけのことかもしれない(ヨハネ黙示録第十六章第十六節)。

 

 

 

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国家による失業、貧困からの解放②

2008年12月19日 | 国家論

 

人類を失業や貧困から解放することは歴史的な課題であるといえる。失業や貧困に苦しめられているかぎり、人間の尊厳も何もないからである。先の論考でも触れたように、二十世紀の共産主義運動などは、貧困、経済格差、戦争などから人類を解放する試みであったといえるが、歴史的に見ても失敗に終わった。それは生産手段の社会的な所有と私有財産の廃止という社会主義経済、国家による計画統制経済という手段によって、失業や貧困、経済的な不平等などの問題の解決をめざしたものである。労働者階級の歴史的な使命もそこにあるともいわれた。

しかし、歴史的な事実として社会主義的な経済は自由主義市場経済、いわゆる資本主義の経済的な効率性において太刀打ちできないことがわかった。その反面において景気の循環を十分に統制することができず、今に見るような高度化した金融資本主義の恐慌を招き、その結果過剰な労働力が大量の失業者として労働市場にはき出されることになる。それは、みずからの労働でみずからの生計を立てるという人間らしい尊厳を人間から奪い、それが貧困となって他者に寄生して生きる「賤民」を生むにいたる。

歴史的にもかってヒトラーが率いたナチスドイツなどは、国家社会主義労働者党がその正式な呼称であったように、労働者、農民の失業問題の解決を重要な課題としていた。そして、実際にもアウトバーンの建設や、自動車産業、軍需産業などによって完全雇用を実現したのである。

もちろん、私たちはヒトラーのような全体主義の立場に立つことはできないけれども、たとえ自由民主主義国家としてであれ、失業問題の解決が国家の最優先課題であることは言うまでもない。

ここでは失業問題の解決のために詳細な青写真を描くことはできないが、今日の政府は基本的には次のような二つの事業を国家政策の課題とすべきだと思う。二兆円の定額給付金はあまりにも能がなさすぎる。


失業者、生活困窮者一人あたりに月額7万円程度を住宅と食料の最低限の生活保護資金として支給する。また、これを年金最低補償額とすることによって、一時的な失業、傷病、離婚、倒産、老齢などによる生活の危機への対応が保証されることになる。それによって日本国憲法の規定にもある国民に対する最低限の文化的な生活の保証が単なるプログラム規定でなくなる。また、これがセーフティ-ネットとして機能することによって、国民の将来の生活に対する不安を解消することによって、貯蓄にまわって消費に向かわずに冷え込んでしまった国内の需要を、喚起するのに貢献するはずである。


二十万人の国防予備軍を創設して、18歳代から40歳代までの青年男女の志望者、また、壮年の一時的な失業者などを採用して、軍隊教育と職業訓練をかねた生活訓練の場を三年間提供する。それによって経済恐慌時などの青壮年者の失業者の吸収に活用する。また、そこでの、教育訓練を職業的な能力や国家意識の育成を含めた最良の社会的な教育の場にしてゆくことである。また、地震や台風、戦争時の避難所などの避難保護施設の建設や整備に従事する。そのほかに、ハイテク産業技術の訓練や現在の自衛隊基地の開発や整備に従事したり、あるいは災害支援活動、電気ガス水道などのライフラインの地中埋め込み工事など社会資本充実に役立てることもできる。政府、指導者たちの智恵の働かせ方次第であると思う。(現在の無能な国会議員、官僚の定数を半減し、国家の経費の無駄も削減してゆく必要があるのは言うまでもない。)

いずれにしてもおそらく、人類が革命などによって一挙に失業や貧困の不自由から解放されることはないだろう。引き続きこれからも、自由と民主主義を理念としてより深く追求しながら、失業対策、軍隊などの雇用環境などを整備し、国家や地域社会の共同体としての性格を深め強めながら、失業、貧困などの業病から人類を解放して行くしかないようだ。その前提となる日本経済の生産能力も十分に高まってきているのではないか。その実現を妨げているのは、人倫的意識と必要な社会機構についての合理的な知識が日本人に欠けているためである。

 

 

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国家による失業、貧困からの解放①

2008年12月15日 | 国家論

 

この秋の9月15日、アメリカの証券会社リーマンブラザースの破産に端を発した金融危機は、その後いっそう深刻化し、単に英米経済圏のみならず世界中の実体経済に深刻な影響を及ぼしつつある。

金融恐慌や経済不況の実体は過剰生産恐慌によるものである。それは社会的な生産活動と私有財産制との矛盾によって生じ、社会的な生産活動によって可能になった大量生産が、その供給に見合った需要を見いだせないためである。生産における剰余価値の搾取によって、需要を支える購買者の賃金総額がその供給量を消費しきれない。

このような状況は市民社会の形成以来から存在し、フランス革命や共産主義革命などによって、その解決をめざして歴史的にもすでにさまざまな試みが行われてきた。共産主義運動は、生産手段の社会的な所有によって、この問題の解決に取り組もうとした。マルクスなどはブルジョア国家性悪説にたち、プロレタリア独裁国家によって人類から貧困と失業の問題の解決をめざしたが失敗した。

共産主義運動は、それが資本主義の矛盾に対する反対勢力として活動している間は一定の意義を持った。しかし、みずからいったん権力を獲得すると、解放のための権力が、市民社会の自由を抑圧する権力に転化し腐敗した。それは共産主義運動の官僚テクノラートと一般大衆とのあいだに、資本主義以上の深刻な矛盾を引き起こすことになった。市民社会の生産力を解放することにも失敗して貧困の一般化を招き、二〇世紀末には歴史の舞台から退場することになる。

それ以来今日まで、社会的な生産活動と私有財産制と競争原理にもとづく市民社会の自由な生産活動によって引き起こされる過剰生産恐慌の矛盾を解消する理論も実践も生まれていない。今日に至るまで、市民社会の貧困、失業の問題は、恐慌として深刻な循環を繰り返しながら人類を業病のように悩ませている。

こうした景気局面においては、国家による貧困と失業の救済と調整とが必要十分に機能しなければならない。しかし、それを十分に実現しえている国家は未だ世界のどこにもない。階級矛盾の解決は、プロレタリア独裁国家によってではなく、プロテスタント国家、プロテスタント政府の手によって実行されなければならない。ただ今のところその可能性をもっとも近く秘めているのは、残念ながら日本ではなく、やはり北欧諸国やアメリカであるようだ。オバマ政権と麻生政権は、それぞれの国家の本質を見極める上でそのよい比較になる。

 

 

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国家再建のためのメモ

2008年11月24日 | 国家論

 

これまでこのブログでも何度か書いた記事で、国家の再建に関わる事柄について、備忘録をかねてメモ書きしておこうと思う。後ほど、さらに論点を深めることができればいい。

一、腐敗し堕落した政党政治の再構築。選挙談合型利権屋政治から、政界を再編して理念追求型の自由党と民主党の政治へ。自由主義者は自由党へ民主主義者は民主党へ。自由主義は資本主義の立場に近く、民主主義は社会主義の立場に近い。二者相互の緊張関係と切磋琢磨でいずれも国民ために尽くす国民政党であること。国会議員の定数削減をはかり、政治家をモラルと見識における真の選良に限る。日本の政治をまともな「政党政治」に値するものにして行くこと。

一、立憲君主国家体制の追求。自衛隊と防衛省をそれぞれ国防軍と国防省に発展改組すること。同時に国民皆兵制度を確立する。封建時代は武士階級だけだったが、民主国家においては全国民すべてが国防の権利と義務と責任とを担う。

一、大学、大学院の改革。―― 官僚、政治家の資質低下、マスコミや教育の退廃と堕落、今日の国民におけるカルト、新興宗教の蔓延の傾向は、いずれも小中高教育の根幹をなす大学および大学院の教育能力の劣化、退廃によるところが大きい。公教育がその防波堤になりえていないためである。大学・大学院におけるヘーゲル、カント哲学の再興による弁証法教育、哲学科学教育を確立すること。教育立国を実現する。文部科学省、教育委員会、日教組を解体し、教育革命によって、根本から国民教育を再建してゆく。

一、国家体制、憲法の研究。とくにイギリスの立憲君主制国家、スイス、デンマーク、フィンランド、スウェーデン、ノールウェイなどの欧州、北欧諸国の政治経済制度、国家行政機構、憲法、学校教育、宗教などの研究。国会内に専門的な研究チームを立ち上げて本格的な研究に取りくませ、日本の道州制の実現に向けた指針を与える。明治維新以来の日本の国家体制の再構築のために都道府県制から道州制へと転換する。その際に、道や州は経済実力的には北欧諸国の一国に相当するものとして市民社会を構成する。

一、政治風土、政治文化の改革。とくに自民党の政治家たちに見られるような、飲み食い、飲酒のなれ合いもたれ合いの湿った政治家の世界に、合理と能率の乾いた風を通すこと。二世三世議員の輩出も同じ文化的な土壌が゛背景にある。政治家の会合での飲み食いは原則廃止(せいぜいお茶・コーヒー程度)し、政治家・官僚の記者会見も、演説テーブルを使って原則立ったままで行う。座ったままでの記者会見は行わない。

一、社会資本の整備と充実を図る。道路やダム、その他の「箱もの」建設業やその他すでに衰退産業となった地方のローテク産業などスクラップアンドビルドの転換を図り、新規産業分野の開発と、産業構造の根本的な改革をはかる。雇用対策、不景気対策として取り組むべきは、ハイテク、バイオ、自然エネルギーなどの新事業の発掘、電気ガス水道などのライフラインの地中一括埋め込みなどの社会資本充実事業、都市農村の景観改善事業、ビオトープなどによる河岸美化と管理など。アメリカニューディール政策並に、不況対策の国家的プロジェクトとして実行する。

一、二兆円にものぼる定額給付金などの無効無策の経済対策ではなく、雇用機会と税収増加の見込める新規産業、夢ある未来産業の研究開発に取り組む。給付金は国民から自立心を失わせ、依頼心を増長させるだけ。政治家と官僚は夢と実ある政策研究にそのない頭を絞れ。

 

 

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グローバリズムと日本の伝統

2008年11月08日 | 国家論

 

グローバリズムと日本の伝統


hishikaiさん、コメントとTBありがとうございました。
あなたの2008年11月4日の記事『伝統とグローバリゼーション』を読ませていただきました。しばらく所用で時間がとれず、すぐにご返事できませんでした。あらためて読み返してみて、感じたこと考えたことを書きます。あなたの記事を私が誤解しているとすればご指摘いただきたいと思います。

私の先の小論「ソフトバンク孫正義氏にみるグローバリズム 」に対するあなたの批判の要点は、最後の結論の段落に書かれていると思います。引用します。

>>

「全体の状況に注意を払う必要があるのは、私達の生活とそれに伴う伝統が常にその中にあり生きて変化しているためである。全体の状況と伝統の縮約である諸基準とでは、特に時代の分岐点にあってその選択が迫られた場合には、本来的な拘束力で全体の状況が優ると考えなければ伝統それ自体の存続をも危うくする。

例えば明治の文明開化にあって我国の建築家が和風建築から洋風建築へと様式の変更を迫られたとき、建築家の胸にどのような選択が働いたであろうかということを、後世の私達は現在に残る和洋折衷様式の中に発見することができる。それを残念でありながらも最善の選択であったと許すことは卑怯な考え方だろうか。

あるいは弁護士が自分の客に請求された賠償額が妥当ではないと主張するときに「この賠償額は不正だ」と言うだろうか。そうではなく彼は全体の状況に照らして、請求された賠償額は「現在の一般的な水準からはずれている」と言うべきではないだろうか。さもなければ彼は信用を失い、客は全てを失うのではないだろうか。」

>>引用終わり

ソフトバンク社の孫正義氏が「女優のお二人に、一台一千万円もする携帯電話端末をプレゼントされたこと」(以下、孫正義氏の「販促営業行為」と言います。)に対して、先の小論で私は、「日本の先進的な経営者として倫理的にも正しいのだろうか」という問いを投げかけました。

それに対し、 hishikaiさんは、「倫理的にも正しいのだろう」かという私の「狭量な」問題提起は、「現在の一般的な水準からはずれている」というべきではないか、そうでなければ「全体の状況」を見失って、「伝統の縮約である諸基準」すらも誤解され、その「信用」をも失ってしまうと言われているのだと思います。

つまり、孫正義氏が行った「一千万の携帯電話端末のプレゼント」という時代の「全体の状況」は「伝統の縮約である諸基準」に優先されるべきで、さもなければ、「伝統の縮約である諸基準」そのものも存続を危うくしかねないと述べられているのだろうと思います。

hishikaiさんの見解についての私の以上の理解が間違っていないとしたうえで論を進めます。

先の私の小論での用語については、一般的に常識的な概念理解を前提にして論じたつもりでした。が、たとえ学術論文でないとしても、もう少し用語の意味の輪郭をはっきりさておいた方がよいと思います。

ここでの重要なキィワードは「伝統」と「グローバリズム」(あるいは「グローバリゼーション」)だろうと思います。何をもって「伝統」と言うか、また、「グローバリズム」と言うかという問題です。さらにhishikaiさんのおっしゃる「伝統の縮約である諸基準」についても同じことがいえると思います。

私が「伝統」ということばで考えている中身は、普通に日本人が「武士道」などということばでイメージされている、質実倹素な生き方、暮らし方ぐらいの常識で考えてもらえればいいと思います。

私たちの生きる現代の観点から、継承されるべき伝統と否定されるべき伝統のあることは当然です。「伝統」のすべてが、継承、存続されるべきであるとは誰も考えてはいないでしょう。先の小論ではかならずしも厳格に規定はしていませんが、「江戸時代の身分制度」や「戦前の小作人制度」などを、「伝統」の範疇の中にまったく含めていないこと、また、明治時代の「和洋折衷文化」も必ずしも否定していないことも了解していただける思います。

先の私の小論では誤解を招きかねない点があったとすれば、明確にしておく必要があると思います。言うまでもないことですが、「孫正義氏の「一千万円携帯電話端末プレゼント」自体が、法律的にも道徳的にも「悪」であると断罪しようとするものではないということです。

孫正義氏はソフトバンク社の経営者として、営業、販売促進のキャンペーンの一環として、当然の営業行為としてなされたのであろうと思います。ですから当然に私の先の小論の見解も、孫正義氏の「販促営業行為」は法律的にも道徳的にも違反している、すなわち「悪」であるから中止せよ、といっているのではありません。

売り上げの向上という観点から、企業経営の立場から見れば、私の見解がかならずしも正しいとは言えないかもしれません。それに、私がそのようなことを言ったからといって、孫正義氏がそのような営業上のキャンペーンを中止するはずもないでしょう。

孫正義氏の「販促営業行為」は「悪」ではありませんから、続行しようが、中止しようが、いずれにせよ私にそれを阻止する義務も権利もありません。そうしたことは本質的には私にはどうでも良いことで無頓着です。

しかし、ただ私の価値観からいえば、孫正義氏のような「販促営業行為」は「悪」ではないが、経営的にも倫理的にも「低い」とは思っているということです。その見解を一市民の一つの意見として述べただけであります。それ以上でも以下でもありません。その点で「倫理的にも正しいか」と言う表現は、かならずしも適切ではなかったかも知れません。

ちょうど、聖書の中に次のような話があります。

「永遠の命」を探していた大金持ちの青年とイエスが出会ったとき、イエスはその青年に言ったそうです。「もし完全になりたいのなら持ち物を売り払って貧しい人に施し、そして私に付き従ってきなさい」と。イエスがそう勧めると、青年は「悲しみながら立ち去っていった」そうです。(マタイ書19:20、ルカ書18:22、マルコ書10:21など)

もちろん、その青年がイエスに付いて従わなかったからといって、彼が「悪」を行ったことにはなりません。ただ、イエスの価値観からすれば、青年は倫理的には完全ではなかったというにすぎません。

先の私の小論は、日本の企業文化、経営者の意識についての問題提起にすぎません。「一千万円携帯電話端末のプレゼント」も、ひと昔まえの一般の日本人の価値観では、かならずしも賞賛されるようなものではなかったのではないかと、ただ私が推測するだけです。そうであれば、私の価値観はそれに近いと思うだけです。そして、現代日本においては私のような意見は、多くの人に一笑に付されるだけだと言うこともわかっているつもりです。

グローバリズムもすべて否定されるべきだとも考えている訳ではありません。グローバリズムの本家とされるアメリカでも、先に議会でやり玉に挙げられたリーマンブラザースのような経営者ばかりとは限りません。むしろ、公平に見て、企業倫理は全体として見れば、日本よりは欧米諸国の方が高いのではないかと思っています。日本的経営は、多くの点でいまだ国際水準にさえ達していないのではないかと思います。西尾幹二氏などと異なって、いわゆる「小泉改革」なるものが中途半端の失敗に終わったと考える所以です。

さらに付け加えれば、アメリカやイギリスなどのヨーロッパ諸国のグローバリズム、自由主義、個人主義には、キリスト教という宗教的な「伝統」が存在していますが、それをまねた日本の「戦後民主主義文化」にはキリスト教に相当するものがないこと、などもその背景にあると思います。

ですから、孫正義氏の「販売促進営業活動」に対する、一介の市民にすぎない私の見解は、hishikaiさんの言われるような「伝統の縮約である諸基準」に反するものであるとも思いませんし、したがってまた、そうした見解が「全体の状況」に反するために現代日本人の信用を失って「伝統の縮約である諸基準」そのものも存続できなくなるようなものとも考えません。

最後に、グローバリズムの帰結として生じた、いわゆる「経済格差」について、言い添えますと、
「経済格差」そのものがあってはならない、というものではありません。
努力や能力に応じた「格差」がなければ、「悪平等」になってしまいます。

ただ、それが固定化すると、一つの社会内に階級制度が生まれかねません。
課題は、「格差」自体を無くすことではなく、それを固定化させることなく、階層間や、「階級」間の流動化を十分にはかって、制度としての階級を作らないことです。

「いわゆる格差問題について」

 

 

 

 
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原子力空母ジョージ・ワシントン号の横須賀米軍基地寄港

2008年09月26日 | 国家論

 

航空母艦ジョージ・ワシントン2008年9月25日横須賀入港

航空母艦ジョージ・ワシントン


アメリカ海軍の原子力航空母艦ジョージ・ワシントン号が25日の朝、神奈川県の米軍横須賀基地に入港したことが報じられていた。今年の5月に乗組員のたばこの火の不始末?による火災事故のために、一月以上も寄港が遅れたとのことである。

例によって、労働組合や市民団体が、この空母の入港に反対して気勢を挙げていた。放射能の汚染漏れ事故などを恐れてのことであるが、そもそも入港反対派は、日米安保条約それ自体に反対している。

北東アジアの情勢は動揺を深めつつある。北京オリンピック後、上海万博後の中国国内の動向、金正日の健康悪化による北朝鮮の不安定化、それぞれの国で国内矛盾が深刻化しつつある。中国はその海軍力をとみに強めて、東シナ海から太平洋への進出と覇権を目指している。最近も日本の領海内に海上自衛隊の座視するのを尻目に中国海軍の潜水艦は遊弋出没している。

また、アメリカのテロ指定国家解除の延期に業を煮やした北朝鮮は、IEAによる核施設の封印と監視装置を取り外した。中国に近い西部海岸沿いに新たなミサイル発射台が作られているともいう。その矛先は日本である。

今回の空母ジョージ・ワシントンの寄港は、動揺を深める北東アジアの情勢下に、中国や北朝鮮さらにロシアなどに対して、アメリカが日米安保条約にもとづいて、その軍事力の存在を示して抑止効果を狙ったものである。

軍事力の均衡が唯一の平和の条件であるという現実の国際関係の中で、自国の軍事力の放棄をうたった日本国憲法による不備と空白を埋めるためには、安全保障条約にもとづくアメリカの軍事力に依拠するしかないのである。そして、このことは、GHQの対日占領政策の根本目的でもあった。

歴史にみるように、諸国家は相互に排他的であり、つねに対立の生じる必然性におかれている。そうした現実にあって、日本国民が自国の独立の保証を自国の軍備に求めるという独立国としての当然の条件を放棄するとき、日本国はその空白を埋める代償として、アメリカに軍事力の駐留と存在を求めざるをえない。そして、この現実こそが日本国の対米従属と半植民地化の傾向の根源になっている。

日本国憲法の軍事力の放棄の規定そのものが、日本の対アメリカの従属とその半植民地化を必然的な帰結としてもたらしている。それにも関わらず、この現実を現行日本国憲法の擁護論者たちは見ようとせず、自らの自己矛盾を自覚することもない。

安全を他国に依存するという豚の安楽とモラルの退廃から抜け出して、独立国としての自由と主権を日本国民が独自の軍事力に求めて行くことを悲願とするなら、日本国民は国際関係の中で諸国家の間に存在する緊張と不安の中に身を置くことを覚悟せざるをえない。それは自由と独立の代償でもある。

太平洋戦争の敗北という特殊な状況下で制定された現行日本国憲法も、以来半世紀を過ぎ、その間にGNPで世界第二位を占めるなど、国際環境も国内の政治と経済の体制も大きく変化している。そして、いずれ中国海軍とアメリカ海軍が太平洋を支配し利権を分けあおうとする中で、日本が自由と主権を守ろうとするとき、現在の日本のような「経済大国」がいつまでも軍事的、政治的弱小国であり続けることはできない。それは侵略戦争を絶対的に否定する立場とも矛盾するものではない。また日本が完全な民主主義国として世界から認知されるとき、自由と主権の独立を追求するための日本の軍事力を否定する民主主義国はないはずである。

 

 

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