夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

国家の再建

2010年07月07日 | 国家論

 

国家の再建


一頃、数学者の藤原正彦氏がベストセラー『国家の品格』という著書を書かれて、それを契機に、国家の問題が大きな話題にもなった。それも早いもので、もうすでに一昔前のことになってしまった。しかし、そうした流行とは別に、このブログや私の関心が、いかにしてこの日本国を品格ある国家に再建して行くか、ということにあるのは、今も、また、おそらく、これからも、私の根本的な関心事であることには変わりがないだろうと思う。ただ、私の考える「品格ある国家」と、数学者、藤原正彦氏の武士道に基づく「品格ある国家」とどのように異なっているかは、追々いずれ私自身の国家論を展開し具体化して行くなかで明確になってくるだろう。

品格ある国家の形成のために――もちろん私の考える品格と、数学者藤原正彦氏の「品格」とはその概念内容が異なっているが――その違いを明確にして行くためには、私の目指す国家を、「品位ある国家」と呼んでもいいが、そのためには、まず憲法の改正が根本的な前提となる。それと併行して、新日本国軍の建軍と兵役の義務の復活が要請されることになるだろう。

そして、精神的にもまったくアメリカナイズされた現在の自衛隊を、本来の日本の精神文化に即した、新日本国軍に再構成してゆくことが課題になる。いずれにしても困難な課題ではあるが、太平洋戦争の敗北を契機に、米国によって三流国家に貶められた日本国と国民を、再び誇りと品位のある国家と国民にして行くためには避けて通れない課題である。

もちろん、私とて現在の日本国民一般の「常識」から言えば、このような考えはまったく「荒唐無稽」の世迷い言のように受け取られることもわからないではない。しかし、むしろ現在の日本国民の「常識」を覆すことそのものが、一つの課題であり事業であるだろう。今日の日本社会のあらゆる側面での停滞と行き詰まりを見よ。

それにしても、哲学というものは、国民や大衆の移ろいやすい「常識」や「流行」に頓着するものではなく、ただ、ひたすら「概念」のみを、「真理」のみを課題とすべきであり、実際もともと哲学とはそうしたものである。私たちは、五十年後、百年後、二百年後の国家のあるべき姿を念頭に置いて、憲法草案を構想すべきであるだろう。それは大日本帝国憲法を止揚するものでなければならない。

現在の圧倒的大多数を占める日本国民は、戦後GHQの占領政策と教育政策および資本主義文化の深刻な影響を受けており、したがって私たちはこの世代を相手に仕事をすることはできないのである。真理と概念のみを仕事として、百年後、二百年後の日本国民に期待を託すしかないのである。私たちの現在の仕事もまた、将来の日本国民を対象に行われるものである。

隣国中国と北朝鮮の軍備増強を念頭に置きながら、そして、これら社会主義諸国の体制変革を、アメリカをはじめとする自由主義諸国家と連帯し協力して追求しながら、そうして現在のアメリカ軍にはお礼を言ってできるだけ早く本国に帰ってもらえる条件を整えて、明治時代の日本人のように、日本国は日本国民自身の手で守るという、自由と独立の品位ある国家の原則を確立してゆくことが課題になる。

 

 

 

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