夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

自由と人権

2012年09月22日 | 教育・文化

自由と人権

「自由」と「人権」のかねあいの問題である。個人の人権が侵害されてはならないのは言うまでもないが、そのために言論などの「自由」が冒され、また制限されてよいか、あるいは、「言論の自由はどこまで認められるか」という問題がある。

基 本的な考え方の前提としては、人間には「悪」をも犯す「権利」も保障されなければならないということである。なぜなら、ここにこそ「自由」の核心があり、 人間の尊厳も本質もここにあるからである。人間の自由は「善悪」を知ること、意識できることと、その二者のいずれを選択するか、その自由にあるからであ る。人間は動物とは異なり、環境や必然性に完全に制約されるのではなく、少なくとも意識においては、完全に自由な存在であるということである。

ここで問題にすべきは、一般にいわゆる「人権」論者や「社会主義者」「共産主義者」たちが、彼らの妄想する「理想主義」を実現するためと称して、人間から「悪」をも犯すことさえ、強圧的に禁じようとする傾向があることである。

「無菌状態」の社会、「聖人君子」ばかり「善人」ばかりの社会をどう考えるか。

先 に述べたような人間の本質から言って、実際には完全な「理想社会」はあり得ないのであるが、往々にして、「理想」を実現しようとして、かえって最悪の「現 実」を招くことも多い。社会構成の構成原理として、人間性悪説か人間性善説のいずれの立場に立つか、ということである。いずれの人間観に立つかによって、 構成原理は根本的に異なる。

とくにこの傾向は、プロレタリア独裁として、敵対するブルジョア階級の「搾取」の暴力的禁圧という現象に象徴的に現れている。かってのソ連邦などのいわゆる共産主義国家の実験によっても、その歴史的な帰結は、体験され証明されている。その浅薄な人間観と思想の現実がある。

「人 権」と「自由」という二律背反することがらをどのように克服するか。「人権」と「自由」の価値を比較考量する時、どちらに根本的価値を認めるかによって、 いわゆる人権法案などの制定問題にどのような立場を選択するか、が決まる。というよりも、自由こそが人間にとっての至高の人権であるから、「自由」は「人 権」に優先する。「自由」を制限する法案は、必要最小限にとどめておかなければならない。

このたび民主党や自民党の一部の議員たちによって提出制定されようとしている、いわゆる「人権救済法案」については、このような理由から賛成できない。

我 が国の人権状況については、現行法で「人権」は十分に守られうると考える。あらためて、「人権救済法案」などを法制化して、新たに行政組織をつくることは 政府機構の簡素化に逆行するし、官僚公務員や人権団体関係者らの「利権化」にもつながりかねない。行政の肥大化と硬直化を招くことになる。国民の人権は、 すでに現行法規によって十分に守ることができる。

民主党内閣は、人権救済法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙って閣議決定したそうである。民主党の情報隠蔽体質、陰謀体質は、自民党時代に輪をかけて悪質である。

 

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【主張】人権救済法案 強引な閣議決定おかしい

2012.9.20  産経新聞社説 http://goo.gl/RPsjm

 野田佳彦政権は、新たな人権侵害や言論統制を招きかねないとの批判が出ていた人権侵害救済機関「人権委員会」を法務省外局として設置する法案を閣議決定した。

 今回の閣議決定は不可解な部分が少なくない。藤村修官房長官は「政府として人権擁護の問題に積極的に取り組む姿勢を示す必要がある。次期国会提出を前提に、法案内容を確認する閣議決定だ」と強調した。

 だが、国会提出時には再度、閣議決定を経る必要がある。人権救済法成立に前のめりな党内グループに過度に配慮しただけではないのか。同法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙った節もあり、疑念がつきまとう。

 人権委員会は政府から独立した「三条委員会」で、公正取引委員会と同様の強大な権限を持つ。調査の結果、人権侵害と認められると告発や調停、仲裁などの措置が取られる。

 最大の問題は、人権侵害の定義が相変わらず曖昧なことだ。「特定の者」の「人権」を「侵害する行為」で憲法違反や違法行為を対象とするというが、 これでは何も定義していないに等しい。恣意(しい)的な解釈を許し、言論統制や萎縮、密告による新たな人権侵害を招きかねない。

 こうした法案への疑念や危惧、抵抗感は国民は無論、与党や閣内にも根強い。にもかかわらず、いま行われている民主党代表選、自民党総裁選で、この問題が問われていないのは重大な欠落だ。

 閣議決定に対し、自民党の林芳正政調会長代理は「なぜ、この時期なのか」と政府の意図に疑問を投げた。安倍晋三元首相も法案に対し「大切な言論の自由の弾圧につながる」と指摘した。石破茂前政調会長は以前、法案に反対としながらも、救済組織の必要性は認めていた。

 政府・与党は先の通常国会終盤にも法案提出に意欲を示したが、批判を受けて見送ったばかりだ。国論が二分している法案を閣議決定して既成事実化するやり方は、到底適切な手続きといえない。

 自民党内にも人権法案に前向きな意見もあるが、言論統制とは無縁の自由な社会を維持するために果たしてこの種の法案が必要なのか。民主、自民両党首選の立候補者は少なくともこの問題への立場を鮮明にし、国民的な議論を積み重ねてもらいたい。

© 2012 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

 

 

 

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橋下 徹氏の「日本維新の会」について

2012年09月22日 | 政治・経済

橋下 徹氏の「日本維新の会」について

素人集団で、まだ海の物とも山の物ともつかない人たちの「政治団体」、「日本維新の会」である。現在のトップ、橋下 徹氏が、さらに一回りもふた回りも脱 皮して、大きく成長することなくして、この政治運動は中途で挫折する可能性は大きい。が、それにもかかわらず、橋下氏の「日本維新の会」に政治改革の夢を 託さなければならないというのは、それだけ日本国民の既成政党やその利権政治に対する絶望が深い、ということなのだろう。

それであっても、既成政党が、企業・団体の献金を受け取らないと言って口先だけでは唱えながら、国民を欺くばかりで、実行する力もない自民党や民主党に比べれば、日本維新の会が、企業、団体からの献金禁止を規約に定めたことの意義は大きい。

民主党の政権交代についても、この政党が自民党よりも統治能力、政権担当能力が高いからと信じて国民は政権交代を選んだのでは決してない。お粗末な二世政治家の集団に堕した自民党への懲罰のために、国民はやむを得ずこの選択をしたのである。

しかし、いずれにしても国民の教育が改革され、真に能力の高い政治家が雨後の竹の子のように輩出してくるのでなければ、真に政治改革は実現されない。能力、能力、能力、能力がすべてである。

橋下徹氏の政治改革への意欲は買うし、その綱領にかいま見る理想は尊重するけれども、その実現のための具体的な現実的行程との摺り合わせがあまりにも不十 分なままの出航である。このままではいずれにしても、官僚たちの復権とアンシャンレジュームの三度の復活になり終わる可能性が高い。

そうならないためには、この新しい政治集団「日本維新の会」に卓越したエリートたちをどれだけ結集できるかに掛かっており、そこにはそれこそ、国家国民の 資質、力量が問われている。だがその現状を見る限り、悲観的にならざるをえない。この集団もまたもや選挙利権の談合集団になり終わる可能性は高い。

そうならないためには、指導者、トップである橋下 徹氏の理念と手腕にすべて掛かっているわけだが、戦後民主主義教育の申し子である橋下 徹氏にそれを期 待するのは、当てはずれではないか、という思いも強い。そうでないことが心からの願いではあるけれども。さもなければ、日本の復活はさらに遠のく。

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企業・団体献金受け取らず=日本維新、規約に明記―橋下氏(時事通信) - goo ニュース

企業・団体献金受け取らず=日本維新、規約に明記―橋下氏

時事通信2012年9月19日(水)21:40

 大阪市の橋下徹市長は19日、近く結成する国政新党「日本維新の会」について、「個人献金型の政党を目指す」と述べ、企業・団体献金の受け取り禁止を党の規約で明記する方針を明らかにした。市役所内で記者団の質問に答えた。

 橋下氏は、政党への献金を個人に限ることについて「こうするだけで政治は劇的に変わる」と指摘。その上で、「絶対に自民党や民主党ではできないことだ。 新しい政治のスタイルを目指していく」と強調し、既存政党との違いをアピールした。ただ、政治資金パーティー券の企業・団体への販売は容認するという。

 これに関連し、橋下氏は「個人献金だけでは(党運営に必要な)お金が集まらないから、そこは特定の団体から色の付いたお金をもらうのではなく、政党交付金という形で(国が)政党を支援する。この仕組みは絶対に必要だ」と語った。

 日本維新の綱領となる基本政策集「維新八策」では、政党への企業・団体献金の禁止を掲げている。 

 

 

 

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