§ 75補註
— review (@myenzyklo) 2016年10月10日 - 06:27
〔契約国家説批判〕国家を万人と万人との契約と見ることは、近代において極めて歓迎されるところとなっている。万人は君主と契約を結び、君主はまた臣民と契約を結んだといわれる。この見解の由来は、単に種々に異なる意志の一つの統一を表面的に思いつくところから来ているに過ぎない。
けれども契約には、双方の人格(Person)をなし、かつ所有者であることを欲し続ける二つの同一の意思が存在する。したがって契約は人の恣意から発している。このような出発点を持っている点では婚姻も契約と共通している。しかし、国家においてはこの点は全く異なっている。なぜなら人間は
— review (@myenzyklo) 2016年10月10日 - 06:36
もともとその自然な側面からしても国家の公民であるから、国家から個人を分離することは、個人の恣意に基づくことではないからである。人間の理性的な規定は、国家のうちに生きることにあり、もし国家がなお存在しない場合にも、国家を建設しようとする理性の要求は存在する。国家の一員となるか、
— review (@myenzyklo) 2016年10月10日 - 06:41
もしくは国家を脱し去るかに対する許可を与えるものはまさに国家でなければならない。したがってこれは個人の恣意に任せられるものではない。かくして国家は恣意を前提とした契約に基づくものではない。国家をもって万人の恣意によって基礎づけられるべきもののようにいうとすれば、それは誤りである。
— review (@myenzyklo) 2016年10月10日 - 06:47
各人が国家のうちにあるべきことこそ、むしろ各人にとって絶対的に必然的なことである。近代における国家の偉大な進歩は、国家がつねに絶対的な目的をなし、国家に関しては各人は、中世におけるように自分の私的な協約に従って振る舞うことは許されないことによるのである。
— review (@myenzyklo) 2016年10月10日 - 06:52
※ 追記20161012
ここに取り上げた契約国家観は言うまでもなく社会契約論で主張されたルソ―ならびに啓蒙思想家たちの国家観である。
近現代において、この国家観と並んで大きな影響力を持ったのがマルクスの階級国家説である。国家は無産階級に対して有産階級を護る組織であり、文明の基礎は一階級による他階級の搾取であるとする国家観である。このマルクスのように国家は階級に従属するものと見るか、それともヘーゲルの理性国家のように、国家は階級から独立したものと見るか国家の本質についての議論は分かれる。
ただ、プロレタリア階級の独裁の必然性とその意義を主張したマルクスの思想は、やはり啓蒙思想の特質である「悟性的思考」の限界を示している。労働者階級は資本家階級の存在なくしてはありえず、そのまた逆もそうである。マルクスはこの両者を両立しないものとして、労働者階級によって資本家階級の消滅を図ろうとして国家そのものを殺してしまう。
そうではなく、問題の真の解決は、本質的に階級から独立した国家によって、矛盾敵対するこの両階級をより高い段階に理性的にアウフヘーベンしてゆくことである。それによって生命としての国家は活力を保つことができる。