2024(令和6)年09月26日(木)晴れ。#牧野紀之
昨日、本が届いた。
牧野紀之 著『マルクスの空想的社会主義』(論創社2004・06・20)である。本当は、もっと早く手に入れて、私なりに「論評」すべきであったにも関わらず、今になってしまった。しかし、まだここしばらくは机上において、チラチラ覗き読みしながら、準備していきたいと思っている。時間がどれだけかかるかわからない。
というのも、私は『ヘーゲル哲学入門』の翻訳と註解をすでに初めており、それも第二課程の第一篇「精神の現象論または意識の科学」の「第三段 理性」のところまでで、「第二篇 論理学」以下はまったく手つかずのままに残っているからである。それを優先するつもりだし、また、これまで曲がりなりにも行ってきた翻訳と註解も決して満足のゆくものではなく、あらためて見直す必要もあるからである。また、これまで少しだけ手をつけただけに終わっている聖書の『詩篇』の翻訳と註釈にも取り組みたいといった思いもある。
「まえがき」だけ読んだ。
本書は「マルクスとエンゲルスの社会主義思想は空想的社会主義思想の一種でしかなかった」ということを証明することを目的としたものである。(まえがき1)
牧野氏自身は、マルクスやエンゲルスの社会主義思想はフーリエやオーエンたちの社会主義とちがって、空想的ではなく科学的であると信じてきた。しかし、現在はマルクスやエンゲルスの社会主義も「空想的」であると考えるようになった。だから本書は当然に牧野氏の「自己批判の書」でもある。(まえがき1)
「空想」と「科学」との違いを明確に判別するための基準が明らかにされなければならない。そのために、『空想から科学へ』『経済学批判の序言』さらに『資本論第一巻』のマルクス・エンゲルスの三つの著作に対する検証を行う。それは「弁証法的唯物論の認識論」の立場から原理的に考え直すことになる。それが本書の主たる内容になる。(まえがき5)
この牧野氏の自己批判に対し、これまで曲がりなりに行ってきた私のマルクス批判は、「実証的」であり新約聖書の「ブドウ樹の良し悪しは、その実を見ればわかる」といった、もっとシンプルな常識論、認識論からの批判だった。また、過去のマルクス主義の信奉者たちの行ってきた悪行と、共産主義政府の統治下に置かれてきた民衆の抑圧された不自由と貧困の現実も、マルクス主義の理論的実践的破綻をすでに証明している。
これまで牧野紀之氏は生粋の徹底したマルクス主義者だった。しかし、牧野氏は自己批判して、もはやマルキストではない。牧野氏によって「科学的社会主義」の思想的な根拠が否定されてしまった。とすれば、その他の世のいわゆる凡俗共産主義者、自称マルクス信奉者たちはこれから一体どうするつもりなのだろうか。
私のこれまでの論考の中にも、いくつかマルクスの思考の誤りを理論的に指摘しています。
§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2cyzsacj
事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/29z8dm77
価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/2csnagrx
など。
日本には戦前の昔から伝統的にマルクス主義が広く深く浸透しています。アカデミズムやマスコミの世界はもうほんとんど赤の世界と言っていいほどではないでしょうか。だから、我が国には自称「マルクス主義者」たちは五万といるはずなのに、マルクスの考えの誤りについての私の指摘に対する反論は、いまだどこからも聞こえてきません。
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