◆ 橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(内部、1975年制作開始、素材=銅、雨水)
写真:高橋孝一
写真:高橋孝一
◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(内部、1978年制作開始、素材=銅、雨水)
写真:高橋孝一
2000年5月20日発行のART&CRAFT FORUM 17号に掲載した記事を改めて下記します。
連載1 造形論のために
『造形的発端について①』 橋本真之
2000年5月20日発行のART&CRAFT FORUM 17号に掲載した記事を改めて下記します。
連載1 造形論のために
『造形的発端について①』 橋本真之
人はいかなる場処からでも、いかなる時からでも、造形的出発は可能である。但し、それはひとつの発端を掴み得れば、ということである。それは内在的な事象であるか、外在的な事象であるかを問わない。
ひとつの発端とは、どの様にして起こり得るのか?おそらく偶然の出来事が切っ掛けなのだが、発端は自我の突出として現われるはずである。その吹き出物のような自我の突出が、確実に外在化する時、それは異物として世界に存在し始める。あるいは、いくつもの発端が起こり、いくつもの発端が消え去って行く。無数の発端が消え去ったのだということを、人は気付き得ないのかも知れない。ようやくにして生長し始めた発端が、消え去って行くこともある。ひとつの発端を生長させるということは、人間にとって意志的な工夫である。意志的な工夫なしには、世界の充満の前では潰えてしまうのだということを、造形的出発を試みる者は思い知るに違いない。我々は必ずしも世界に歓迎されて登場する訳ではない。それは世界の悪意の前で潰えてしまうのだ。あるいは、自らの脆弱が自らを腐らせる。外的に生ずるもの、内的に生ずるもの、いずれにしても、それは同じ腐敗に襲われる。しかし、執拗な工夫によってその腐敗こそ次なる発端を育てるエネルギーとすることも出来るに違いない。
おそらく、発端は磨り潰されて、存在そのものの認知さえもされないのだ。様々な存在の関わりの外縁とも言うべき切っ掛けが、我々を日々刺激して止まぬのだが、少数の者達は、無数の偶然から自らの必然を選び取る。ひとたび自我が突出して選択する時、世界の全ては連鎖的に必然の様相を呈することになる。全ては用意されていたと思える程に、次々に明らかになって行く様は、論理的と形容したくなる程だろう。確かにひとつの筋道ができるのだが、それは言語的論理ではない。なぜなら、この筋道は飛躍を怖れないし、むしろ跳躍の準備のために、糸婁糸婁とした筋道を紡ぎ出すのである。それは、ひとりの自我が紡ぎ出す細々とした理路である。いくたりもの自我が同じ筋道を辿ろうとする時、縒り合わさって一見大きな筋道と見えるかも知れぬが、それでその筋道を普遍とすることは出来ない。造形の理路は細い幾筋もの道が無数に出来るのであって、ここでは多数決は何の役にも立たない。ただそれが磨滅した道であることを知るばかりであろう。磨滅した道は安心である。しかし、それは収穫の跡を行く、ひこばえを育てる道である。
造形的出発はいかなる場処からでも可能であるが、自らの生の根拠を持たぬ限り、いずれ、その展開のエネルギーを失なうことになる。すなわち、造形のつまみ喰いをして歩く破目になる訳だ。こうした造形者達が無数に居る。彼等の仕事は、展開すればする程、その根拠が希薄になって行くのである。造形的出発には、約束された場処なぞ何処にもない。今居るこの場処から出発する他に、いかなる出発する場処もない。「人間の造形史」というものはあるに違いない。真の歴史を書くことが不可能であるのと同様に、誰も真の造形史を見ることも、書くことも出来はしないが、凄じい時を費やされた造形物の地層が、我々の足下に積まれている。ひとつひとつの物体が、造られては破壊されていった総量の、その細目を見ることは出来ぬとしても、この地球上の存在の総量を出ることはない。ひとはその末端に連なろうと覚悟する時、ひとつを付け加えようとする私は何者であるのか?と自問することになる。そして苦々しい思いで、私は何者であり得るのか?と自問することになる。造形的出発が真に創造行為であるためには、自らのための造形史・造形論を書く必要があるだろう。自らにまで連なる造形認識が必要なのだ。この充満する地上の造形史を、自らによって正当な屈折を起こさせる程に、強度を持ち得ないのであれば、造形は日常茶飯事に戻るべきである。それは積み重なった地層に埋没する道である。
強度を持つためには、自然が実存を形成するように、人間も又凄じい忍耐を持って造形作用をする必要がある。通りいっぺんの忍耐なら誰でもする。ひとつの発端が生長するとは、人間的条件を超えて自然のごとく忍耐するということである。いかなる場処からでも、いかなる時からでも出発し得る造形的出発とは、そのような条件のもとに発芽する。
発端Ⅰ 「落ちて来た雀」
雑木林を歩いて行くと、雀達がいっせいに翔び立ったが、小枝を両足でしっかりと握ったままの雀が一羽、私の足もとに落ちて気を失った。おそらく、あわてて翔び立とうとした反動で、止まっていた枯枝が折れたのである。拾い上げた私の両手の中で、驚いたように息を吹き返したので、そのまま放してやると、雀は元気良く翔んで行ったが、その蠢く温もりと、瞬時の喪失は、私の感覚に異様に親密なものを残した。これは、たった一度だけの出来事だが、いくらぼんやりの私でも、二度と繰り返し得ないこの親密を待ち望む愚は犯さないだろう。しかし、かの親密の質について、折々に頭の隅で主張して来る、説明し難い感覚的隆起の内でも、意識の焦点のはっきりした出来事である。
発端Ⅱ 「ころがっていた物体」
学生時代のこと、私は物憂い午後の大学構内を散歩していた。敷地の隅に、かって鬱蒼と樹木におおわれていた名残りのような藪が少し残っていた。私はそうした小径を歩いていて、フットボール程の大きさの奇妙な物体が道にころがり落ちているのを見つけたのである。それは人口物かも知れないと思える程、かって見たことのない形態をしていた。強いて例えるならば、ジャガイモを大きくしたようだった。あるいはスポンジのようなものが焼けこげて、楕球状に丸まったのかも知れないと思えた。実際、ジャガイモ状の形態の表面が破れた内部は薄黄色で、フワフワした物質でできていた。靴の先でちょっと蹴って見ると、ほこりのようなものが舞い上がった。私はおそるおそる両手で取り上げた。それは軽くて枕のようだが、確かに人口物ではなかった。鍛金工房に持ち帰って、物識りの老教授に聞いてみたが、頭をひねるばかりだった。何がこうしたものを出現させたのか?その物体を机の上に置いて見ていると、再び教授がやって来て、科学博物館に持って行って、見てもらったらどうかとすすめた。おそらく教授は、その物体からきりもなく湧き出すほこり状のものに危惧をいだいたのに違いなかった。
近くの国立科学博物館の裏手に回って、研究者達が居そうなあたりを、その物体をささげ持ってうろついていると、白衣を着た研究員に呼び止められた。早速わけを話して、これは何ですか?と質問した。その研究員は事もなげに「鬼フスベ」ト答えた。それはキノコの一種だった。ほこりのように舞い上がるのはキノコの胞子だった。大学はむかし薬草園だった場所だから、鬼フスベが生えていても不思議はないということだった。「博物館に置いて行きますか?」と聞かれたが、持ち帰って、工房の私の机の上に置いて観察していた。しかし、数日する内に、鬼フスベは誰れかに持ち去られた。その失われたことで、いつまでも違和感として、私の記憶を刺激し続けた物体だった。
このふたつの出来事は対照的な経験として、今も私の内に楔のように打ち込まれている。ひとつは親密感の質について、ひとつは違和感の質についてを廻って、私をいつまでも考え込ませるのだったが、ある時、ふたつの事柄の対照性がどこに由来するのかに気付いたのである。それは両手にかかえたふたつの物体の感触の問題が出発だったが、いつの間にか、私を遠く迄導くことになった。雀の親密感は、確かに手の内で蠢く暖もりにあったが、瞬間に認識可能な存在としての、目の前に現われた生きものの感触の確かさにある。一方、鬼フスベの違和感はどこにあるのかと言えば、人口物めいた乾いた印象でありながら、概念化できないもどかしさと、自らの存在を脅かす奇妙さとして、つまり名前を知らされる以前の感覚を、私の心の内にいつまでも残溜させるのだった。その感触の記憶は明確である。
永い間に、私の内でこのふたつの出来事の感覚質の混淆がなされて来て、「親密の距離」という奇妙な考えが産まれた。それは「違和の密接」という対になる考えを伴っているのだが、これは私の造形的思考にひとつの鍵をもたらしたのである。
後に、私はこのふたつの出来事がひとつに重なっている場合を見た。
発端Ⅲ 「生きている物体」
私の二十代に、公園の夜警のアルバイトをしていた短かい時期がある。公園内に幾つかの公衆トイレがあって、その裏にタイムレコーダーがある。警備員はそれを基点にして、15分ごとに交替で巡回するのである。交替の相棒に片腕の初老の男がいて、もと漁船に乗っていた。義手をはずして仮眠をとる準備の間の、男の物語りに聞いた。彼は錨に腕を巻き込まれて、左腕を失ったのだった。ひじの少し上から失われた腕を示して、「これから親指を動かす。」と言った。ピンク色の肉塊となった腕の一部が動いた。また彼は言った。「これから中指を動かす。」そして別の一部の肉塊が動いた。失われた前腕につながる組織は、彼にとっていまだに続いているように感じるのだつた。だから、不意の動作に、失われた手を差し出してしまうことがある、と語っていた。私はピンク色をした蠢く肉塊に手を触れた時、あたたかい「生きている物体」という、私を根底から動揺させる、純粋な衝撃を受けた。
何故、腕の形態をしていない腕が、私に与える感覚は、かくも動揺を伴うのか?私には解った。これは鬼フスベが雀と一緒になっている存在なのだと解ったのである。手という概念はすでに与えられているのに、自らの内の「手」に一致せずに、別の複数の概知となった感覚によって理解せざるを得ないところに、私の動揺が起こるのである。
私はここから造形的意味を引き出すことができる。――日常化された概念的視線には、何も見えない状態になる造形的存在、あるいは「概念化されてしまった感覚」を揺さぶるニュートラルな形態を引き出すこと。これは形態が力を持つために、最初に必要な造形的一撃なのである。しかる後に造形的秩序がやって来るのでなければならないだろう。
造形思考というものが可能であるのは、こうした言葉の上の問題よりも、それが指し示す出来事や形態の質、空間の質、それらの様々な要素の質が、あたかも沼地における踏み石のように、具体的な手応えとして踏み行くことができるために他ならない。たまたまこれらの事柄が言葉にしやすい出来事であったがために、こうして記録され得るけれども、必ずしも全ての造形的問題が言語に置き換え易いとは限らない。このことに誤解があってはなるまい。
例えばこうだ。昨日の仕事場の帰り際には、はっきりしていて、言葉にも出来ていたはずなのに、今朝、仕事場に入ると、その言葉が何を指し示していたのか、ぼやけて確信が持てないことが起こるのである。それだからと言って、造形的思考をあいまいなものとして付ける訳には行くまい。何故なら形はそこに厳然として在り、見失われた問題の基底となっていて、いずれ再び別の手がかりを持てば、出発する足場になることは出来るのだから。
ひとは言語化が困難な感覚質の問題をめぐって、考えを持続するために、様々な手がかりを持って来た。造形美術も音楽も、そのひとつなのである。ひとの心を動かす感覚質の問題を、ひとつひとつ筋道をたどって訪ね行く内に、見慣れたものごとを新たな出来事として見るという驚嘆に出会ったり、あるいは、見知らぬ奇妙な場処に行きつくこともあるだろう。ひとくくりに造形の問題を語ることは出来はしない。訪ね行く造形家達の数だけ、問題は立ち得るのである。そうした造形的筋道同志が出会い、すれ違う時、全き感覚的理解が成立するのかも知れぬ。この通底する全理解なしに、造形が時を経て成立し続けることは難しい。ひとはこの全理解を求め得るならば、事の半ばは成就したと思えるに違いない。他者と通底し得ない造形物は、やがて消え去る他はないのであるから。
(続く)