ART&CRAFT forum

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造形論のために『造形的発端について②』 橋本真之

2016-11-05 12:49:38 | 橋本真之
◆橋本真之「雪国の杉の下で」(銅)
 大地の芸術祭、越後妻有アートトリエンナーレ2000出品

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(1978年~2000年制作)
知覚するかたち展 (福井県立美術館)  出品作品

◆橋本真之「雪国の杉の下で」 (銅)
大地の芸術祭、越後妻有アートトリエンナーレ2000出品

2000年9月20日発行のART&CRAFT FORUM 18号に掲載した記事を改めて下記します。

連載1 造形論のために
 『造形的発端について②』   橋本真之

 人は産まれ出た時から、世界を概念化することを学んで成長する。それは生きるために必要な、最低限の素養である。それがなければ、世界はまとまりを持たず、掴えどころのない危険な混沌のままであろう。存在世界の感触の不安は、おそらく、そのあたりに根を持っている。幼年期の認識の成長は、世界を概念化することによって混沌を忘れる方に向かう。4・5歳くらいまでの内に、身の回りの世界の概念的認識によって、手がかりを持つことになるが、母親の与える充足、あるいは安心と外世界の不安との裏腹な感覚は、共に手がかりを持たぬ世界へ追いやられることになる。それらの混沌に属する掴えどころのない事象は、容易には概念化を与えられなかったのであり、人が生きるために、最低限必要とは認められなかったのである。それらの事象を意識的に思い出すのは、すでに我々には困難に属することである。母親の乳房を口に含む感触や、背中に密着する感触、背負われている自分のあごに当たる肩の動きの感触と、脇腹に食い込む背負いひもの感触。そういう場処から世界を見ていた時、あたりは見分けのつかない不安に充ちていたが、やさしい充足した世界にも密着していたのである。

 ある時、突然、私は放り出された。家中が大騒ぎで、雨戸を立てきった薄暗い産屋はテンテコ舞いだった。二歳下の弟の誕生である。赤ん坊の泣き声を聞いた時、私は柱につかまって、ひとり取り残されていた。これが「孤独」というものの最初の自覚的経験だった。私には、その赤ん坊をのぞき込んだ記憶がない。私にとっては、その黒ずんだ角の磨耗した柱の感触が鮮明な記憶となっているが、「孤独」というひとつの言葉が、これ程の多量な事象をひとまとめにする呪文なのであると認識するのは、もっとずっと後のことである。「孤独」という言葉が抒情詩人たちによって手垢まみれになっているのであれば、私には、それらの事々を「黒ずんだ一本の柱」と概念化した方が、もっとふさわしい手垢まみれな物体であるような気がする。この一本の柱の記憶は、混沌の一部を石の塊のようにしてまとめる力があったのだが、他の私の家族にとっても、同じ力を発起し得たかどうかは定かではない。おそらく彼等には、素通りして記憶にさえも残っていないのではなかろうか?私にとって「柱にもたれる」とは、そのような事象をひとまとめにして引き連れて来るのだが、こうした存在が、それぞれの人々に固有にあるに違いない。我々は混沌に向けて光を当てて注視する時、その僅かばかりの変化によって、概念のすき間に確かな手応えを感じることになるのである。それらにも言葉の概念を与えるべきなのか?それとも、それらの特殊な手応えは、私達の概念に替わる存在として、足を踏み行く場処となるべきなのだろうか?造形的思考に向かう者にとって、これらは必ずしも言葉になる必要はないのだろう。ひとつの物体の感触として、記憶しやすいものがある場合は良いだろうが、もっと消えやすくて掴えどころが無いのに、確かに感覚可能なものが、私達の混沌には無数にある。そうした概念化の間に注意を向けることが、私達の生を丸ごと充足させるためには、必要なのである。けれども、概念化されていない事象は思い出すことが難しい。それらは不意に私達の存在を横切るようにして顕われ、再び注視をそれると見えなくなって行く。概念化し得た存在とは、そうした混沌たる事象の突出した部分なのである。

 日常の生活の中で信号機の色の変化を見ていながら、輝きや質についてのみ関心を持ったまま、その色の指示する意味に無頓着であるとすれば、人は野生動物のように、社会生活から抹殺されるだろう。人はそうした社会生活の意味するところに教育されて、世界を丸ごと認識する力を失って行くのである。「りんごは赤い」と思い込むのは、幼年期の概念的な教育の結果であったが、そうした「しるし」に過ぎない認識を口にした途端、自らを恥じる気持で怒りを覚えた五歳頃の記憶が、青年期になっても繰り返し立ち顕われて沸騰していた。

「外在的発端・林檎」
 18歳の時、自室で林檎を前にして油絵具で写生を始めたが、数日で仕上がるものと思っていた。マチェールの密度が満足の行くものになるためには、絵具を塗ったり削ったりの時間が必要だぐらいには考えてもいた。テーブルの上に四つばかりの林檎を寄せ集めた状態で観察していた。当時、私は絵画の密度というものを、マチェールの問題と取り違えていたと言うべきだろうか?美術大学の受験期を了えたばかりの私にとって、すでに充分確立した他者の表現の方法を学ぶことに飽き飽きしていた。自分に見えている目の前の存在の強度に匹敵し得る、絵具の層の視覚的な強度を求めるという心づもりだった。けれども、それは確かに写生のはずだった。私は毎夜、自室に帰って来ると、林檎を前にして観察しては、それに匹敵する色彩とマチェールの強度を求めていたのだったから。画面はいつまでも濁った油絵具のぐずぐずした状態で、ひと月もそんな状態が続いただろうか?目の前の林檎は、最初の堅い緊張した形態を失なって、内部に流動的なものを孕んだ状態になって来た。私の観察はそうした変化につき従っていたために、ひとつひとつの林檎を替えて最初から出発しなおすよりも、もう少しこのまま続けて行けば、何とか仕上げられるだろうという、もくろみだったのである。

 ゆるんだゴム風船のように、のびきった形態をして来た林檎は、やがて表面に小さな皺を寄せ始めて、日々その皺を深くして行った。乾燥が始まったのである。それまで部屋の中は林檎の芳香に充ちていたが、それが腐臭に変わり始めた頃、林檎の中から虫が這い始めた。小さな穴がいくつも開いて虫が出入りしている。それぞれの林檎は次第に収縮を始めて、接触していた林檎同志が少しずつ離れて行くのだった。毎夜、小さな画面にひと渡り絵具が乗ってしまうと、手のほどこしようが無くなった画面を前にしながら、林檎を見ていた。数枚のキャンバスを併行して手がけていたが、いつのまにか、私には絵をものにするというよりも、変化して行く林檎を見ていることの方が重要になっていて、筆を手にしたまま凝視する夜が続いた。

 皺は林檎の中心に向かって深く入り込んで峡谷となり、うねって行く。半年ばかり林檎を見続けていると、ある夜、凝視し続けた目の前の林檎がぐらりと動いた。私の安定した観察者としての視覚は瞬時にくずれて、私自身の視覚全体がうねるように流動する状態に極まった。ただごとではない事態に、私は動転した。安定を欠いた視覚の向こう側で動いた林檎を、私の意志の力で動かすことは出来ないのだが、視界の膜の流動は意志通りにもとの安定した状態に戻すことが出来ることを知ると、ついで再び流動状態に解放することも出来ることを確認した。驚天動地の状態で居ながら、自らの眼筋の操作ひとつで安定状態を掴むことが出来ることに安吐したが、私は日々深みにはまって行くのを覚えた。これが幻覚であるとすれば、私には薬物の必要はなかったし、当時、酒も煙草も必要なかった。ただ見続けることだけで視覚変動に見舞われたのだった。私は全く覚醒していた。筆を置いて眠ろうとしても、容易に眠りに入ることが出来なかった。醒え切った頭が疲れて、明け方ようやく眠りにつくのだった。

 ひからびた林檎の隣りに、いくども新たな林檎を置いて凝集に向かう変化を見続けた。その変化の途上の形態の動きが、私を釘づけにしたのである。そして私自身の視覚が安定した状態と流動する状態とを往き来することに慣れ親しんで来ると、安定した視覚というものが唯一絶対な感覚状態である訳ではなく、様々な習慣的状態のひとつに過ぎぬことを自覚しはじめたのである。私はへきえきとしていた林檎の腐臭にさえ慣れ親しんでいた。

 私自身の感覚を傷めつけること、そのことによって顕われて来る外世界の存在との、尋常ではない感応が起こっていることに、私は驚きおそれた。目の前にある視覚としての林檎は、私自身の感覚変化を反映して運動していた。疲れて階下の寝室で横になると、時として、望遠鏡を逆から覗いているように天井がひどく遠い距離に見えるのだった。あるいは又、別の夜のことだが、目を閉じると、自分の手や身体が象のように大きなものとして感じ、噛み合わせた歯が巨大な石臼のようなものとして感じるのである。私の意識は皮膚に包まれていながら、ひどく小さな存在になって行くように思えた。その様になって、私は眠りに入ることが芝々だった。私の外界と内界は揺れ動いていたが、私の精神、あるいは自我は強靭だった。けれども私の内臓が破綻した。芝々私は胃痙攣を起こして、七転八倒の思いをしなければならなかった。一度胃をやられると、一週間は満足に物が食べられないのだった。油絵具の臭いに吐き気を覚えた。私の生理的限界だった。

 これは物を見るということにおいて、自らの目で徹底して見るという経験であって、自分自身の生理的限界を実感する苦い経験でもあった。これらが、自分自身の意志と集中によって、20代の始め迄に起こった日常的な感覚世界を突き抜けた経験である。これらは外在的存在が、私の造形的発端となって内在的経験と化した地層である。ひとはそれぞれ平坦な経験を踏み抜いて、感覚世界の基底に足を触れることがあるに違いない。概念化した世界では、それさえも気付き得ずに素通りしているのかも知れぬ。世界を徹底して見ることは、この肉体に包まれた精神作用によって、図式を突き抜けて世界を認識する最初の造形的手がかりなのである。   (つづく)