◆橋本真之「自転する人体」(1969年制作)鉄、クロームメッキ
◆橋本真之「林檎の肖像」 (1969~70年制作) 鉄、クロームメッキ、ポリエステル樹脂(東京芸大資料館蔵)
◆橋本真之「林檎・馬糞・乳房」 (1970年制作) 鉄
2001年7月1日発行のART&CRAFT FORUM 21号に掲載した記事を改めて下記します。
連載1 造形論のために
『方法の理路・素材との運動②』 橋本真之
2001年7月1日発行のART&CRAFT FORUM 21号に掲載した記事を改めて下記します。
連載1 造形論のために
『方法の理路・素材との運動②』 橋本真之
円形の金属板を、同心円状に打ち絞り続けていると、人はやがて、その回転運動から中心軸の存在に思いを致すことになるだろう。金属板のつくる張りぼてに過ぎない形態に、仮空の基軸ができはじめるのである。同心円の歪んだ等高線をたよりに打ち絞る「変形絞り」も、この基軸の変化の動きを考えるならば、形態の変形の仕組みを理解しやすいだろう。鍛金による造形は、この回転運動の軸と等高線状の形態把握が基本なのである。
私が初期の鍛金制作の中で、林檎に仮空の中心軸を求めることによって、張りぼてに造形性を求めていたのも、後の「作品構造の展開」という観点から見れば、あながち見当はずれのことではなかったのである。むしろ、中心軸の問題が、作品構造の展開を導き出したのである。実際のところ、この認識なしに形作っていても、時代遅れで不自由な劣った技法として、彫刻技法の内のひとつにおとしめられるのが落ちであると、学生時代の私には思えるのだった。‥‥不自由な技術というものなぞ、実は無くて、その技術の本性を取り違えているために、不自由を余儀なくされていると理解すべきなのである。いかなる技術にも、その展開の道筋を見誤まらなければ、充全な開花のダイナミズムが必ずある。……と自覚したのは、もっと後のことである。私のこの中心軸の認識の芽は、当時すでに顕われていた。私は大学の卒業制作の直前の夏休みには、旋盤を使って、直径80ミリの鉄の丸棒を削り、人体の回転体を作っていたのである。私の卒業制作は、最初、鍛金による人体の回転体と林檎の回転体の対比による作品制作の予定だった。
当時、自宅から東の方角の雑木林や耕作地の続く一帯を越えて散歩に出かけると、あたり一面すすき野が広がっていて、私はひと気のない、その荒れ野の真中で、子供の頃の遊びを一人で繰り返していた。自ら立っていられなくなるまで自転して、あたりの風景がメリーゴーランドの様に回転するのを楽しむ遊びである。自らが回転軸となって、世界が回わる遊びが私をとらえていて、一人で幾度も幾度も繰り返していた。そうした青年の姿を誰かが見つけたなら、異様な情景だったに違いないが、私にはワラをも掴もうとする試みだったのである。そうした私の中心軸を見い出そうとする行動が、ある時、造形化し得るように思えて、「自転する人体と林檎」という考えが始まったのであった。この回転することによって、中心軸が自ずと成立するという考えが私をとらえたのである。
けれども、幾つかの試みの後に、私がそれらの計画を放棄したのは、学生仲間の一人に自転する人体の類例を示されたがために、急速に意欲を殺がれてしまったからである。そのことによって、私のひと夏の旋盤を扱う強引な努力は、鉄の丸棒から回転体の器を削り出して、そこに赤いポリエステル樹脂を満たしたものと、鍛金による鉄の林檎とを、菱形の台上に等価な形で対置する作品に展開することになった。その旋盤の回転運動がもたらす回転体のフォルムとして林檎の器はできたのである。その器にあふれるように満たして、表面張力で静止している赤い液体、それは林檎の象徴であり、私の自我の象徴であった。器を一個の具体的林檎の形態と対置することによって、そのふたつの間に、仮空の膜が等号として成立するのを、私は望んだのである。しかし、最初の計画では、菱型の3っの角には林檎のシワのよったものを含めてそれぞれに配置し、ひとつの角に器状の形態にポリエステル樹脂を満して構成する予定だった。全てが完了して、作品を見ている内に、シワのよったふたつの林檎を取り去ってシンプルな対比にしたのである。
私の卒業制作が、他の四苦八苦している学生達よりも、かなり早くできてしまったので、私はもう一点作ることにしたが、その一点は、私にとって跳躍であった。ひとつの林檎を作る時、上下ふたつの半球を同時に作るのだが、そのふたつの半球を並べて、矩形の台上に溶接したものである。ただし、そのふたつの形態は歪み波打っていて、観照者には一見して林檎の形態とは判断できないに違いない。『林檎の肖像』からシワの寄った林檎を取り除いたことによって、私はそれらの新たな発芽を必要としていたのに違いない。短期間の内に作品は出来上がり、私はそれを、『林檎・馬糞・乳房』と題した。すなわち、ここでは比喩を連続して全てから等距離にあるような、ひとつの概念に固着させずに、ひとつのフォルムが全てを包含するような、つまり何ものも意味しない、ニュートラルな方向に向かっている。これは明らかに、私が一歩を踏み出した問題だったのである。
これが鍛金によって、22才までに獲得した私の造形の理路である。後者の作品には、明らかに、かの日常を踏み抜いた経験が反映していて、その後の展開の芽となるものである。そのような作品は、当然だれからも注意を向けられることもなかった。密度の点で比較的完成度があった『林檎の肖像』が芸大資料館の買上賞となった。
これらは、いずれも私の初期の造形思考を如実に示している点で、ひとつの出発を示しているが、『林檎の肖像』はこの後、この種の象徴的作品の直接的な系譜が途切れることになる。けれども、ここで密度を獲得した造形の、「等価の構造」の萌芽は別の形をとって顕われて来ることになる。私にとって等価の構造に向かう理由は何処にあるのか?そうしたバランス感覚が、私を充足させるのに違いないのだが、それが何処からやって来る感覚なのか?私にはまだ充分に理解できていない。おそらく、五月の風に吹かれるような、毛穴を開放する皮膚感覚に近いのだが、私はこれらの感覚をめぐって、試行錯誤して来たのでもある。
卒業制作というものは、当の学生にとってそれぞれ意味は異なる。あるものにとっては終わりの制作であり、また始まりの制作である。あちらこちらから引っぱって来て、ようやくなされたでっち上げの場合もあれば、長い研究の後のささやかな成果である場合もある。第三者が卒業制作を見る面白さは、若い鋭敏な学生が時代に何を見て自ら反応したのかが、あからさまに見えるという点である。けれども、卒業制作の成果をもって、後の仕事を想像して期待するのは、過大評価というものだ。彼の仕事は、いまだ前例の後を行く成果を出ないことが殆どだからである。学生時代の半年間というものは、後の四・五年に匹的する。様々な知的経験や感覚的経験が目白押しにつまっているために、三日前の彼と同一の思考の圏内に居ることは、稀有のことと思わねばならぬ。そうした時代の内的経験を、ひとつひとつ思い出すことは至難のことだ。当時の私の覚書ですら、真の記録とは言えぬ程に、経験は日に日に充満していて、真に重要な転機となる出来事が、出現の当初は適切な言語表現に成り得ずに洩れていることが起こる。ようやくにしてまとめ上げられた、やわな思考のノートは、常に新たな経験の覆兵にくつがえされて、新たな筋道をたどりなおすことになる。それが若年の造形思考の姿である。
私もまた、筋道をたどり踏み迷っては突きくずし、また筋道を立ち上げて踏み迷うという繰り返しをしていたのである。経験と実作が自らの実証であると思うより他はなかった。言語表現はようやく後からついて来るより仕方がなかったのである。