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『手法』について/岡本敦生《寡黙容量》 藤井 匡

2016-11-18 11:18:36 | 藤井 匡
◆岡本敦生《寡黙容量》 花崗岩 160×400×300cm 1991年

2001年7月1日発行のART&CRAFT FORUM 21号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/岡本敦生《寡黙容量》 藤井 匡


 作品を見ることは、直接的には何らかの物質を見ることである。このとき、作り手の思考が純粋に伝達されることが目的ならば、物質とは単なる経路に過ぎない。だとすれば、素材の選択とは目的に応じて交換可能なもの、情報を完全に伝え得るものあるいは経路上で発生するノイズの最小限なものが望ましいことになる。
 しかし、素材はそのようにして作者に従属するものだろうか。こうした疑問を導く要因のひとつに、物質である以上は時間の経過の中で必ず変容していくことが挙げられる。勿論、使用される素材や展示される状況によって事情は変わってくる。しかし、かたちあるものが永遠に存在し続けられるのでない以上、それは程度の差でしかない。観念的にはどうあろうと、現実的な問題として未来は裏切っていく。
 ここから考えはじめるならば、素材とは自意識を盛るための容器とは見えなくなる。自己を社会(非自己)へと繋ぐ経路に素材があるのではなく、素材に関与することそのものが非自己と対峙することを意味する。そうした意識をもたらすことになる作品の物質的な変容を、自覚的に問う作品について考えてみたい。

 岡本敦生《寡黙容量》(1991年)は、直方体に近いブロックと扇形に近いブロックとの二つの花崗岩から構成された屋外彫刻である。制作過程において、これらは一度ある程度の大きさに分割、バラバラに解体されてから再結合される作業を経ている。その過程は隠蔽されることなく――むしろ強調されるように――結合箇所のいくつかには鉄のかすがいが使用されている。そしてこの分割と再結合の経緯は、作為性の少ない形態と表面とによっても前面に出されることになる。
 二つのブロックは幾何学形態に準拠してはいるが、その内に括られるには不用心な姿をしている。これは岩盤から切り出されたときの、石の目に沿って割れた姿が作品に持ち込まれているためである。ここでは、形態を操作しようとする志向は素材の性質よりも下に位置している。こうして、作品の形態は作者の主体的な意志に基づきながらも、結果的にはそこ収まらないものとなる。また、表面には割れ肌が使用されており、ここでも作者は制作主体として石の存在を制御することを意識的に回避している。
 このように、作品は作者の手を経由したものながら、形態も表面も作者の内面に回収されてしまわないように成されている。作品のフォーマルな要素は自立的な意味を示すものではなく、分割と再結合の経緯の提示を補強するためのものとなっている。
 岡本敦生における石を割ることの契機については何度も語られている。(註 1)
 石切場から切り出される巨大な石塊は圧倒的な存在感を放つ。さらに、花崗岩の岩盤を〈地球の皮膚〉(註 2)と認識する作者にとって、石とは地球の表象であり全体像を直感することが困難な大きさと思われている。そこから、地球上の一点に自分が所在している=石に包み込まれている感覚が導かれる。
 一方、花崗岩が何万年もの時間をかけて形成された変成岩だという認識も、数十年の生しか果たすことができない自らを超越した存在としてある。そして、その時間の流れの最末尾に自分が連なっている=石に包摂されていることが想起される。石とは空間的・時間的に、作者の身体を超越したものとして想像されるのである。
 この超越的な物質と関係を構築する手続きとして、制作の第一段階で石は身体を対峙させる(実際に自分の手で持ち上げる)ことができるサイズにまで分割される。この作業によってはじめて、作者と石とは交通可能な状態となる。分割とは制作上の単なるプロセスではなく、制作の根拠に直結する必要不可欠な『手法』となっている。

 物質としての石は分割されて素材としての石に変換される。次の段階では直方体は内部がくり抜かれてから再結合され、箱の形状と機能とが与えられる。そして内側には作者に直接関係しているもの――自身の身近なものを撮影した未現像の写真フィルムなど――が納められる。
 内側に納められたものとは、作者にとって私的なもの(言語化されないもの)であり、他人と共有することが困難なもの、伝達が不可能という意味で他人と遭遇する現実の場では不可避的に喪失されるものである。それをあえて保護するために分割した石をもう一度結合する『手法』によって、内側と外側とを分離する箱の機能が設定される。
 このとき、内と外とにまたがって存在する石は作者の志向に即した素材であると同時に、作者を超越した物質であるという、両義的な性格を所有する。制作段階での分割(素材化)と再結合(物質化)の二つの作業は、この両義性をつくりだすことにある。
 素材を再結合して出現した箱とは観念的なものではなく、石としての質量を持った有限の存在である。石は他の物質よりも相対的に風化に強いものであるが、それでも白色の花崗岩は空気を吸って変色していく性質があるという。(註 3) 箱は時間の経過の中で変容を遂げて行き崩壊へ向かう。
 その結果、やがては境界線の機能は失われ内側は外側へと露呈される。内側に位置するものであっても、それを取り囲むのは現実原則であり、永遠に存在することは許されていない。境界線は内側を形成するためのものでありながら、物質として外側の世界に所属しており、終わりが必ず訪れるのである。
 直方体の隣に位置する扇形は、直方体と同様に一度解体されてから再結合される手順が採用されているものの箱の形状をもたず、内側と外側とが形成されることはない。しかし、この扇形は別の意味で内側と外側との関係を暗示する。外観の大半には直方体と同じ割れ肌が残されるが、窪んだ部分の表面には柔らかな形態が彫り出されている。この原始生命をイメージさせる有機形態はエディプス的な世界(自我=世界)と観念的に連合しており、内側の世界を示していると考えることができる。
 扇形は直方体の境界線が崩壊して以降の状態と理解され、二つのブロックは同一物の現在(直方体)と未来(扇形)との並置と見なされる。つまり《寡黙容量》においてはその終わりが始まりの時点で既に自覚されているのである。そしてそれが耐久性に優れた石によって実行されているため、終わりが訪れるという安易な結末も否定されることになる。

 こうした分割と再結合という『手法』をもたらした要因のひとつに、作品が屋外に展示され続ける間に生じる変容への意識が考えられる。特に屋外展示においては作品が初期の状態を維持することが困難であり、変容していくことを生存条件として受け止めねばならないことが意識されていると思われる。
 作品の完成をある時点に位置づけることは可能だが、その場合には完成以降の変容(劣化)は醜悪なものとして目に映るだろう。作品は観念的には美術という時間に対する超越性をもちながらも、物質的には過ぎゆく時間の中に置かれた普通の物体であり、不可避的にエントロピーを増大させていく。それも、日光や風雨に晒され、文脈的に美術の位置付けすら曖昧になる屋外においては変容はより顕在化されることになる。
 箱の内側という他者が存在しない場所とは、作者の自我が全面的に達成される観念的な世界である。しかし内側は現実に対して閉じられており、見ることも感じることもできない。この箱を無理に開いて確認しようとしても、内側の未現像フィルムは感光してしまいはやり確認することはできないのである。箱が閉じられて以降は作者も同様に外側に存在しており、境界線を越えて内側には到達できない。
 社会の中にありながら、自己に内面化されない社会と関係するための機能(箱)として《寡黙容量》は制作される。そこでは分割したもの(素材)と再結合したもの(物質)という石の両義性を通して社会と繋がることになる。
 作者も作品も社会の中にあり、社会に対して超越的にあるのではない。超越的にあると思うならば必ず未来に裏切られることになる。(註 4) そして、誰もこの条件を越えることはできない。肥大化した自意識を社会に投影することへの拒否はこの理路を通ってくるのである。
 他者に囲まれて存在する現実の中で、内側の世界は保護されなければ確実に喪失される。しかし、それを保護しようとしてもあらかじめ(そして永遠に)失われている。限りなく徒労に近いことが充分に自覚された上で、箱をつくることは実行されるのである。主体的に変えることが不可能な生存条件を直視しながら絶望的にあがらい続けること、その意志によって《寡黙容量》は成立する。


註 1)例えば「市民フォーラム」での発言『'98米子彫刻シンポジウム』報告書 1998年
  2)「岡本敦生の写真典④」『Stoneterior』Vol.36 1994年
  3)「第14回現代日本彫刻展 作家コメント」毎日新聞山口版 1991年
  4)座談会「環境アートが彫刻に期待するもの」『Stoneterior』Vol.36 1994年