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造形論のために『方法的限界と絶対運動⑧』 橋本真之

2017-06-03 13:50:13 | 橋本真之
◆橋本真之 果実の中の木もれ陽」2000年(第3回設置)

◆橋本真之「秋の陽の悦楽に」 1985年 (現代美術の祭典)

◆橋本真之「果実の中の木もれ陽」 1987年  (現代美術の祭典)

◆橋本真之「果実の中の木もれ陽」 1993年 (大分現代美術展)

◆橋本真之「果実の中の木もれ陽」 1996年 (埼玉県立近代美術館第1回設置)
撮影:高橋孝一

◆橋本真之「果実の中の木もれ陽」 1997年  (埼玉県立近代美術館第2回設置)


2004年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 34号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために『方法的限界と絶対運動⑧』 橋本真之

 「果実の中の木もれ陽」
 「果樹園-」から分離した作品「果実の中の木もれ陽」が所を得たのは、田中幸人氏が埼玉県立近代美術館長として在職していたからだろう。さもなければ、この様な作品は今だに仕事場の庭の片隅の木々の間に横たわって、無聊をかこっていたことだろうと思う。
 1995年開催の宇部の現代日本彫刻展に、招待作家として私に出品依頼が来たのは、「手わざと現代展」で私の仕事を見ていた田中氏の推薦によるものだったのかも知れない。1985年以来制作して来た「空間変成論」を「時の木もれ陽」という題名で出品したのだったが、その作品は買上賞の宇部市野外彫刻美術館賞と埼玉県立近代美術館賞のふたつを受賞した。表賞式後のパーティの歓談の場で、ビールのコップを片手に田中氏にお礼を申し上げたが、「埼玉県立近代美術館賞というのは紙だけなんですか?」と賞状を示して冗談を言っていると、隣りにいた酒井忠康氏が、「いや、埼玉県立近代美術館賞が一番めんどう見が良い賞なんだ。」と笑っておられた。田中氏が、「宇部の美術館に買上げの優先権があるから、他の作品を何か作ってもらおうと思うんです。相談しましょう。」と話しかけられた。「有難うございます。それでしたら、私の仕事は次々と展開して行く増殖の在り方を取っているんです。そうした作品の在り方そのものを収蔵してもらえないでしょうか?」にべもなくはねつけられることを覚悟で、私はこう切り出した。「それをやって見ましょう。」即座に田中氏の口から結論が出た。

 「果実の中の木もれ陽」の前身の「秋の陽の悦楽に」は、1985年、「現代美術の祭典」に参加して埼玉県立近代美術館のある北浦和公園の唐カエデの木に寄りかかり、樹幹にからむかたちで展示した。その後、形を変えて「果樹園-」の一部として1986年のアートスペース虹の個展で発表した。翌年「果樹園-」とは分離して、「果実の中の木もれ陽」は再び「現代美術の祭典」で発表している。美術館のレストラン前のアオギリの木の、二股に分かれた樹幹からぶら下げるかたちで展示した。(注)その後、1993年の大分現代美術展で樹木に寄りかかる形で展示した後、私の仕事場の庭に横たえてあったが、その横たえた状態からの展開が「今日の作家展」の展示の一部として、発表したばかりだった。私はその後の展開のために、恒久設置としての定位置が欲しかったのである。

 かのアオギリの背景となっていた薄暗い植え込みは、割り石を積んで囲んだ小さな島のようになっていた。そこには美術館が建つ以前の師範学校の敷地内に育っていた古い樹木が数本と、実生から育ったと思われる若木が混在していて、灌木のオオムラと蔓草のヘデラで覆われていた。私は田中氏と学芸課の人達に向かって、ここに設置したいと、私の気持ちを表明した。計画案のドローイングを提出して学芸課の人々に説明すると、誰かから、作品が内臓を思い出させてレストランの前の植え込みに設置するには、ふさわしくないのではないか?という意見が出たが、私にはすでに狭山市立博物館のレストラン前に設置されている私の作品が、そのような問題になっていることはないと話して、前例を示して安心してもらった。問題はむしろ、公立美術館が収蔵した作品が変化して増殖することがゆるされるか、という事であっただろう。この前例のない作品の在り方に、いかに予算をつけるか?が美術館の姿勢を示すことであり、また問われることでもあっただろう。誰であったか、補修費で予算をつけたらどうか?という妙案を出した。あたりは成る程とばかりに同調しそうな気配だった。けれども田中氏が強い口調で「半端な事では駄目だ、正面から行きなさい。学芸員が県を説いて回わるのだ。購入委員会を片っ端から説いて回わるのだ。そういう作品なのだから、そういう作品として収蔵するのでなければいけない。」と言い放ち、散会になった。私はこのプロジェクトが通りさえすれば、搦め手だろうが何だろうが、最高の作品を作るために、やりたいようにやり切ることが出来れば、それで良いと考えていた。私は呆っ気に取られた。これぞ公人というものだ。

 私と美術館長・田中幸人氏との間で覚え書がかわされた。2000年迄の三回の増殖計画と、その後の展開については美術館側との相談で展開する、というものだった。この仕事は最高のものにならねばならない。とうとう公が動いたのだと知った。しかし、これは人が動いたのであって、機構や制度そのものが動いた訳ではない。結果的に制度や機構が動かざるを得なかったのではあるが、それは特例としてであった。それについて、後に田中氏自身の口からこうした言葉を聞いた。「これは、誰にもゆるされることではない。あなたの仕事だからゆるされたのだ…」

 「果実の中の木もれ陽」は1996年に設置して一年間、新収蔵作品として人々の目に触れた。かってアオギリにぶら下がっていた「果実の中の木もれ陽」が、植え込みの中に横たわったのを見た人々の直接の反応は、私には見えなかった。けれども、時として他の作家の冷たい嫉妬の目を感じざるを得なかった。そうした目に囲まれて仕事をすることの気の重さが、いまさら私をたじろがせるのだった。翌年、作品を仕事場に搬び去ったとき、「あの作品はどうしたのか?」という観客の言葉が田中氏を通じて伝わって来たとき、「これなら、やれるだろう。」私はそう思った。私の作品を心に留めていた見知らぬ人々が居たのだ。
 仕事場に搬送した作品を一年の間作り続けた。観客の目に露わだった形は、反転した新たな形に包み込まれて内部構造となった。かってアオギリにからんでいた形態は、虚空に向かって触手を伸ばしていたが、新たな包摂する形態に結びついて確実な強度を得た。最後の溶接部分は美術館での公開制作とした。仕事場で制作するには大きくなり過ぎて、トラックによる搬送が出来なくなるおそれがあったのである。二度目の設置のための屋外での公開制作は、集まった学生達や学芸員、そしてボランティアの人々にささえてもらったり、動かすのを手伝ってもらった。熔接メガネを持って来て、私の熔接する手元を見ていた金工の学生達の間に、身を乗り出してのぞき込んでいた田中幸人氏の目があった。作品の内部に木もれ陽を注ぎ入れるために現場でドリルの穴をひとつひとつ開けて行った。

 三度目の増殖設置は2000年10月。すでに設置した部分は移動が困難であるために、新たな展開部分を仕事場で制作しながら、空間を理解するために幾度も現場に行き、展開の方向と位置を確認しなければならなかった。カシの木から伸びる若い枝が風に揺れて、その成長を作品と競っている。野鳥が止まり木にして作品に糞を落とすのだが、私はこの枝の動きを大事にしたいのである。いずれ南側に生えているカシとボダイ樹の間に向かうためには、作品がねじれて展開する方向軸の動きが重要だった。そして、高さに向かう動きをささえる脚部になる形態の強度が問題だった。このプロジェクトの係の学芸員、中村誠氏の背丈を借りて制作途中の展開部分の高さ設定をした。彼の頭の上で途中の作品をささえてもらって、地面からの寸法を取ったのである。すなわち、中村氏の身長がそのまま方向転換する展開部の下端の高さ、脚部の高さになった訳である。

 北側に生えている大きなエノキを、今は放っておくきりないが、いずれ最初の木にぶらさげた記憶を思い出すようなものが、そこに必要であると思っている。それが北側の空間の緊密感のために重要な要素になるはずである。

 次第に先を読むことの難しさが加わって来る。具体的に空間と地面に接触すれば、作品にとって何が必要なのかがはっきり見えるだろう。かつて庭師によって、こんもりとした形を作られていたオオムラの背丈を低く切りつめてもらった。東側からの遠目の視線にさらすためでもあったが、上に伸びる次の展開には、地面との関係をしっかりと私の目でつかむ必要があったからである。

 私の背丈を越える高さに向かう展開は、私にとって、いつも冒険感覚を伴う。作品の自重をいかに分散させるかが、形態をさぐる上で重要な問題になるのである。最初に提出した計画案のように、脚部を百足のように択山作るのも手だが、私は制作を始めた後になって、樹木の高さに対してバランスをとりたいと思うようになったのである。この仕事では脚部を三つ、又はふたつにおさえたい。さもなければ上に向かった形態が安定し過ぎて、接地に向かうダイナミズムが半減してしまうだろう。できれば接地点が支点となってシーソーに荷重をかけるように、この先の展開の先端部を極端に重くするつもりなのである。そのことによって、これまで二本の脚部でささえられていた形態の幾分かでもつり上げるようにすることができるに違いない。私は最初に提出した計画案から離れて造形的工夫をしなければならなかった。私は百足のようなささえを捨てて、数百年後の樹木の時空域に向かいたい。そこに「運動」のダイナミズムを欲したのである。

 この仕事は常に途上にある。目の前の植物を見ながら、数百年後のその植物について語ることは、寿命というものを無視した奇怪な欲望かも知れぬ。こうした現状では、この国が、また世界が数百年後にも存立していると確信できもしないのに、公のプロジェクトに向かうことの理不尽を嗤われるに違いない。私は、理想の国家よりももっと滅び易いが、生きている樹木の充実を相手にしたいと思うのだ。二本の樹木が育って、その間に横たわる作品の先端部を圧迫し、徹底的に歪めるか?あるいは樹木が作品を包み込むように成長するか?この作品空間は、その時初めて、今この場処にいる私達の存在の意志を、そして樹木への敬意を顕らかに示すことになるはずだ。その遅延した感応こそ、この作品世界が「時」の破壊力を自らの作品空間の力にするということなのである。私達が数百年後の空間の変容を思い見るのとは逆に、その未来の場処から現在を思い返す人々との感応にこそ、物質と結接した、私達の惑星的存在が顕われ出ることになるはずである。私と銅と樹木とがひとつに結びついた在り方の中に、世界が共に浸入して運動するのであれば、そして、人々もまた関わってこそ、ここに起きている個々の存在の輝ける陶酔も愚行もゆるされるのではなかろうか?たとえ樹木の枯死が待っているとしても、新たな実生の樹木がその場処に発芽するのを、ゆっくりと待とうではないか。また私の死の後に、全てが「時」の破壊にまかされる日が来るとしても、ここに充足した日々を思い起こす人々が居る限り、世界はこの徹底の空間を親密な時空域として味わうことができるに違いない。後に生え出る植物によって起こるに違いない破壊の形さえも、人々はその変容として許容することができるのではなかろうか?このようなプロジェクトを、戸惑いながらも歓び迎え入れた人々が居た。そのことを、この乱脈な時代のささやかな美徳として、私は感謝して受容した。

 田中幸人氏は2004年3月26日、膵臓癌で逝去した。享年66歳。「果実の中の木もれ陽」の空間は氏の鋭気の記憶を抱きながら、運動し続けることになるだろう。この仕事に助力し、賛意を送り続けてくれた様々な人々の全ての悦びが賞揚される作品空間が、いつの日か現出する時の来ることを、私は願望する。
 
注) この翌年の美術館企画の「花の表現展」で再び展示している。(1987年)