ART&CRAFT forum

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「三本の糸」   三宅哲雄

2017-06-06 13:35:40 | 三宅哲雄
◆礒辺晴美 Time Space & Place 245×457cm 撮影:河辺利晴 所蔵:滋賀県立近代美術館 

◆礒辺晴美「遊体展-フェルトワークとゲルのミラーワークス-」に出品した作品

◆礒辺晴美「遊体展-フェルトワークとゲルのミラーワークス-」に出品した作品


◆礒辺晴美「The Misa Flora(野の花)」375×157cm
撮影:河辺利晴
所蔵:京都国立近代美術館

◆礒辺晴美、ロジャー・ニコルソンの絵画を織った作品(タイトルなし)

◆林辺正子・二人展  1996  ギャラリーいそがや

◆林辺正子「多能な表面体Ⅴ・都会の遊牧民たちの為に」
個展  1990

2005年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 35号に掲載した記事を改めて下記します。

 「三本の糸」   三宅哲雄

 日が昇り、日が沈む。生まれそして死す。このような当たり前のことを私は日常意識することは少ないのですが、昨年(2004年)ほど考えさせられた年はありません。頻繁に上陸した台風や新潟県中越地震などの自然災害と共に世界中で今尚続く戦争による犠牲者、そして最も大きな衝撃は礒辺晴美さん、林辺正子さん、小林正和さんの訃報を受け止めたことでした。
 日本におけるファイバーワークの歴史はわずか40年たらずですが、今日では作家の数や作品の多様性と質の高さは世界のトップクラスに位置していると言っても過言でありません。しかし何事も一夜にしてならずと言われているように、このような環境に育て上げるには強い意志を持ち続ける個性的な作家と教育者そして研究者、編集者などの協力がなければ生まれないと思います。特に独自の制作を続ける作家が数十人の規模で地域を超えながらも同一の団体に属さず交流を継続的に続けていった結果でしょう。1977年に京都国立近代美術館の内山武夫氏の協力を得て37名の作家を紹介する「ファイバーアーティスト日本」を川島文化事業団より出版しましたが、今振り返ってみるとこの本に掲載された作家を中心とした制作活動と教育が根幹をなしているように思えてなりません。
 私は30余年自由な造形教育の場つくりに関わっていますが、一人で維持継続できたわけでなく、この間ひたむきに作品を制作し続けてきた作家の存在が私の夢を大きく支えてくれていたと痛感したのは三人の逝去により内面に大きな空洞が出来、隙間風が吹き抜けるのを感じた時でした。一人で生きて、一人で仕事をしているのでは無い。多くの人々によって支えられて生きてきたのだ! と改めて思い直し、三人の思いを再び内面に取り込み私がなすべきことは何なのかを常に自問しながら続けていきます。
                 ◆
 「はあいー 三宅さん」と満身の笑みをたたえながら、今にも研究所の入口から入って来る礒辺晴美さんの顔が浮かびます。礒辺さんとの出会いは私が川島テキスタイルスクールに関わった1974年頃で、当時、礒辺さんは㈱川島織物のデザイン室に勤務し主にインテリアテキスタイルの織物のデザインを担当していました。時折、昼食を学校に食べに来るなどの機会から面識が出来、その後彼女の軸足は徐々に織物会社から学校に移っていきました。第一印象は京都生まれで、控えめだが根気強い性格を持っているように見受けられましたが後に以外な側面を見せてくれるようになつたのです。織物作家としての特異性は本誌(6号)で記したので今回は触れませんが、今でもタペストリーの作家として礒辺晴美さんを超える作家と作品に出会っていません。
 何年前でしたか、千疋屋ギャラリーの個展会場である作品について痛切なコメントをしたことがあります。礒辺さんは黙って聞いていましたが、私は誰もが出来る表現方法を何故礒辺さんが作品の中に取り込むのか理解出来なかったし、又、礒辺さんにはしてほしくなかったからです。それなりの年月を付き合い十分に理解しているつもりでいましたが、実は表面だけしか見ていなかった自分に反省しています。礒辺さんの織物はスウェーデンで学んだ表現方法に基づいていますが、所謂スウェーデン織ではありません。かといって西陣の綴織でも勿論なく礒辺晴美の織物です。こうした作品を創るように何故なったのかと考えると、いくらか想いあたることに気がつきました。彼女の身体は長期間同じ場所に留まることを求めず、ある周期で移動することを欲していると思われます。その彼女にとって最もふさわしい生活パターンであったと思われるのがロジャー・ニコルソンとの結婚により英国と日本の生活、そして北欧とのつながりなどを有機的に持つことが出来た時代ではないでしょうか。礒辺さんは日本人としての血をしっかり持つた上で自分が生き、生活してきた風土、環境、文化などを無意識のうちに積極的に取り込み、自分の中で燃焼させて作品に表す。この持って生まれた感性と己に忠実に生きようとする姿勢がある時、ある作品については欧米の作家がよく使う安易な表現方法で制作したと私には見えたのかもしれません。
 彼女の作品のほとんどは自然素材を使って織物技法で表現していますが、ハンドフェルトの楽しさ、美しさを日本で始めて作品と教育で紹介したのも礒辺さんだと思います。自由に素材を選び、最もふさわしい表現技法として織物を選択して制作しているわけですが、これらに拘束されて制作しているのでなく、結果的に選んだ素材を用いて機の上で絵を描くのです。素材の糸が絵の具で機はキャンバスなのです。原画(下絵)があり忠実に織るという織物の制作をしたことが無い彼女が原画のある織物を織ったのは亡くなったロジャーの絵を織ったのが始めてでした。ロジャーが生きている時には織りたいとも思わなかったようですが、彼が亡くなり、残された絵に向かった時始めて織ってみようと思ったと話してくれました。たしかに原画と大きく異なることの無いタペストリーに仕上がっていましたが、ただ絵柄を忠実に織ったわけでなく、彼を内なるものとして受け止め、彼が表現したいものは何なのか、それを私が表現するとどうなるのかを考えながら制作した結果だと思います。身近な人の死は、残された者の心に大きく残り、受け継がれていくものなのでしょう。
 思いのままに、少女のごとく自由に世界を飛び回り、美しい作品を数多く生み出した礒辺晴美さんに会うことは出来ません。ただ彼女が残した作品からは今後とも失われることの無い自由へのメツセージが永遠に発せられています。
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 オープニングパーティー後の二次会、三次会で相当お酒が入り酩酊状態で不用意な発言を私はしばしばしていました。そのような折に「そうとは私は思わないわ!」と林辺正子さんに良く意見されたことが脳裏をかすめます。林辺さんは前に記しました1970年代に作品を発表し始めた作家から10年程経て次々と衝撃的な作品を発表し始めた作家です。
物づくりの出発点はいかなることや、いかなる場所からでも生まれるものですが、日本では久しく工芸のジャンルに位置付けられてきた結果、染織造形の作家で言語を出発点にする作家は生まれてきませんでした。林辺さんの実質的なデビュー作「多能な表面体」は絹糸と真鍮線を経糸と緯糸にして織り上げてから成形する手法でテクスチャーは布の暖かさを維持しながらも平面の布から形状保持された立体の織物彫刻として表現されたものです。
以後、彼女の使用する素材はラテックス、木、粘土、石膏、鉛、蝋、胡粉、ナイロン糸、アルミニームなど染織のジャンルで一般的に使用する素材とは全く異なる素材を使用しながら、技法も織にとどまらず自由に使用しています。このような制作手法に基づいて生まれた作品に不慣れな人々に林辺さんは「人間の出現以前、つまり人間が介在することのない世界をイメージして制作しました」又「素材である物質との接触を通じて『私』を見いだす作業」と応えています。
 現代美術の世界ではコンセプトが重要とされていますが、ときにコンセプトとは似て非なる作品に出会うことが多々あります。私はこのような作品はたぶん「私」への問いが浅いまま形にした結果でないかと想像するものです。林辺さんの経歴を読むと東京外国語大学ドイツ語学科卒、ストックホルム大学大学院にて宗教史を学ぶと記されています。たしか数ケ国語を話し、作家活動の他、翻訳家としての顔ももたれていたようです。こうした彼女が生み出す作品の出発点はリアルな物質を前にして、多様な言語と自己が同時に脳裏で重なり、その結果イメージされた形を制作していると思います。素材や技法を誇示したり用途や機能の制約から生まれる形に逃避しない状況に身を置いたとき、残るは内面でどこまでイメージを熟成させることが出来たか否かで作品が発するエネルギーが異なってきます。このような制作姿勢と手法を選択し作品を作り続けることは現代社会では今尚困難を伴い位置する処はありません。ただ作品は誰の為に創るのか、どこを向いて創っているのかが明確に定まっていれば困難を困難と思わず、制作し続けていくことが出来ます。こうした数少ない作家の一人林辺さんは己に正直に又芸術の本来あるべき姿で素直に表現し続けてきたのだと思います。
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 当研究所の前身で川島テキスタイルスクール東京工房時代であったでしょうか、特別講義を小林正和さんにお願いしました。小林さんは住まいを京都市内から北桑田郡京北町に移されて間もない頃で、講座の終了後、東京の空を眺めながら「洛北では山々から静かにおりてくる霧の一つ一つが水滴として見えるのですよ!」と穏やかに話されたことが忘れられません。
 ご存知と思いますが、小林正和さんは京都市立芸術大学塗装科を卒業後、㈱川島織物デザイン室に勤務する傍ら作家活動を続けスイスのローザンヌで開かれる国際タペストリー・ビェンナレーには第6回展(1973)から第9回展(1979)迄連続出品するなど国内外で高く評価された日本を代表する作家の一人で、小林正和さんと言えば染織に関わる多くの人が「ああ!あの流れるように糸をたらした作品を創る作家さんですね」と、答えるように染織の世界の常識を覆す美しい作品を次々と発表してきました。当時タペストリーの多くは綴織の技法で制作されるのが一般的で織巾がほぼ作品巾であり、大きな作品を作るには自ずと大きな織機が必要でありましたが、会社勤めの小林さんにとって個人の作品作りは自宅での制作が主となります。もちろん若い夫婦が生活する場にゆとりがあるはずがなく、限られた環境の中でも創意工夫をして最大の効果を生む作品作りに取り組んだ結果「Windシリーズ」が生まれたと想像します。小さく織って、大きく見せる。制作途中では出来上がりの全体像を確認することが出来ませんが緻密な計算に基づいて織り上げ、仕上げをして、極端な話としては会場で展示して始めて最初のイメージとおりに制作出来たか否かを確認する間違いの許されない仕事だと思いました。
 1981年に私は居を東京に移すことになり小林さんとの接点も少なくなり、ほとんど作品との出会いになりました。同年、ギャラリー・ギャラリーの個展で発表した「Room Ⅱ」から使用する素材は主として身近にある藁や樹木を取り入れ、のびやかで心安らぐ作品を制作しているように見えました。小林さんはいかなる環境も前向きに受け入れ、そこからしか生まれない作品つくりをしてきましたが、彼が求めたのは自然の多様な営みの中に身を委ねての静かな生活と制作活動だと想像します。
 小林さんの仕事は今日の人々が失った大切なものを再び思い起させてくれます。
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 便利な都市に人々が集中する傾向は日本だけでなく世界的問題で、人々の関心は金銭と物に偏り、世界中に降り注ぐ太陽の光や雨、風などの自然現象、そして動植物の営み、国籍や宗教を超えた人々の交流、等々は身近でありながら遠い存在になってきています。
自然はしっぺ返しに台風や地震等によって警告を与えていると思いますが、こういう時代こそアーティストからのメッセージに目や耳を傾け豊かに生きることが求められているのではないのでしょうか。
 三本の糸は今後新しく織られることはありませんが、織られた布(作品)を通して語りかけてくる裏糸の想いは永遠に受け継がれることを願うものです。


[お詫び]
 私事でありますが、本原稿を書いている途中に次男の交通事故の知らせを受け混乱した状態が続き、小林正和さんの掲載写真の依頼をする時間が失われ、写真の掲載が出来ませんでしたことをお詫び申し上げます。