◆榛葉莟子「物語のおくへ」 2002年
2002年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 25号に掲載した記事を改めて下記します。
「爪を切る」 榛葉莟子
指先が重いような気がして、見るとみにくく爪がのびている。爪を切る。つい先日爪切りをしたばかりのはずがもうのびすぎている。爪ののびが早いと感じるのは、たいがい両手が四六時中働いているときだ。爪を切ればつまんだり、めくったり、引っ掻いたりいろいろと指先を使う段になって、切らなければよかったと必ず悔やむ。けれども数日で具合良くのびてくるので不便はなくなる。そういえば生まれてこの間、身体の部位でのびては切るを繰り返しているものといえば、爪と毛だけではないかしら。どちらにしてものび放題にしておくわけもいかず、普通は切ったり刈ったり手入れをする。表皮が堅くなったものだというこの弾力のある指先の堅さは、尖らせたりぎざぎざにしたり、さまざまな繊細な仕事の最良の道具でもある。それに爪を切るというのは、指先に多少なりとも突き出た不要な突起物を切り離すということだから、指先を包む空間はわずかに広がる。爪を切ったあとの指先に感じる軽やかさはそれかもしれない。身体から離れた爪の欠片は、もともとの乳白のカルシュウム色。
爪を切っている時はそのこと一点に集中するもので、パチンパチンと爪きり片手に小さなカーブを作っていく。右利きは左手を意識する。左利きは右手を意識する。身体の一部がパチンの音と共に切り離されていくのだから深遠な一瞬なわけだ。深夜、アパートの壁の向こうからパチンパチンと何かを切る音がかすかに聞こえてきて、ふと眼を覚ました若い頃のある夜がふと浮かんだ。こんな深夜に何を切っているのかわからないパチンパチンという音は不気味に不思議な音だった。あの音は爪きりだったのかと今判明した。
桜貝のような薄桃色の初々しい爪の色とはいかないが、生まれてこの間いったいどれほどのびては切るを繰り返したことか。じっと手を見るではなくじっと爪を見る。この半透明の爪を通して見るほのあかるさを何色と表現できるだろう。指先のこの堅くつるつるした丸みの小さなスペースのほのあかるさは奥底でちろちろと燃えている炎のかげの色とでも。その色を何色と絵の具の名前で言えない色はたくさんある。爪の色もそうだし、夕暮れ時のせつないような稲田の色もそうだし、回りを見渡せば何もかもほんとうは言い切ることなどできない。それにしても爪の先の空間などなぜ見てしまうのだろう。じっと見ていると身体中が顕微鏡を覗いている感覚に押されてくる。爪からつながる何やら意識が生まれてきて、その意識の流れについていくと、流れは枝葉にわかれては結ばれを繰り返しとてつもない遠いところにつれていかれる。気がつけば陽が暮れている。長旅をしたような、とめどもなく長いおしゃべりをしたような妙な疲れを眼の奥に感じる。
爪の先の空間から眼を離すと、窓の向こうから蔓ばらの赤い花が覗いていた。想うがままに蔓をのばし大きな束の様な蔓ばらに赤い花というよりも鮮やかなマゼンダ色の花がいっぱい咲いている。射しこむ夕陽が一重の花弁の花々や緑をいっそう透明に濃くしている。外に出る。ずっと曇り日や雨続きで久しぶりに見た夕陽は、あまりにも真赤に大きく眩しい。顔を眩しさに向けると身体中に眩しさが注入されていく熱を感じる。夕陽色が降り注いだそこいら中、ほんのいっときあたりは郷愁の色彩に包まれる。薄暗がりの神社の杉木立ちの一角に夕陽が射し込むと、下草の緑は苔を敷きつめたかのような柔らかい光の緑地に変貌する。そこに杉木立ちの影の柱がくっきり写し出された荘厳な空間、ただ無言で魅入る大地のスクリーン。刻々と影は移動しつつ薄くなりいつしか見慣れた薄暗がりの杉木立ちの一角に戻っていく。刻々と変化するあたりをぼーっと見ていると、「ねえ、露草が増えすぎて今抜いたところなんだけれどいる?」と近くに住む友達が声をかけてきた。「あっ、西洋露草でしょ。ほしい」と早速自転車を引く。庭の片隅に群生する青紫の絵が浮かんでいた。友達の庭は花盛りだ。夕陽射す植え込みの陰影のあちこちから鮮やかな色が眼に飛び込んでくる。「ほらね、こんなに増えちゃって、ここを歩くと洗濯物にぽつぽつ青い色が染まってなかなか落ちないのよと」と言いながら友達はつぼみがいっぱいついている西洋露草の一抱えを袋に入れてくれた。はかなさの気配を漂わせる日本古来の露草の名とはほど遠い西洋露草の束を眺めながら、その名にはうなずけないものが残るなと思った。
2002年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 25号に掲載した記事を改めて下記します。
「爪を切る」 榛葉莟子
指先が重いような気がして、見るとみにくく爪がのびている。爪を切る。つい先日爪切りをしたばかりのはずがもうのびすぎている。爪ののびが早いと感じるのは、たいがい両手が四六時中働いているときだ。爪を切ればつまんだり、めくったり、引っ掻いたりいろいろと指先を使う段になって、切らなければよかったと必ず悔やむ。けれども数日で具合良くのびてくるので不便はなくなる。そういえば生まれてこの間、身体の部位でのびては切るを繰り返しているものといえば、爪と毛だけではないかしら。どちらにしてものび放題にしておくわけもいかず、普通は切ったり刈ったり手入れをする。表皮が堅くなったものだというこの弾力のある指先の堅さは、尖らせたりぎざぎざにしたり、さまざまな繊細な仕事の最良の道具でもある。それに爪を切るというのは、指先に多少なりとも突き出た不要な突起物を切り離すということだから、指先を包む空間はわずかに広がる。爪を切ったあとの指先に感じる軽やかさはそれかもしれない。身体から離れた爪の欠片は、もともとの乳白のカルシュウム色。
爪を切っている時はそのこと一点に集中するもので、パチンパチンと爪きり片手に小さなカーブを作っていく。右利きは左手を意識する。左利きは右手を意識する。身体の一部がパチンの音と共に切り離されていくのだから深遠な一瞬なわけだ。深夜、アパートの壁の向こうからパチンパチンと何かを切る音がかすかに聞こえてきて、ふと眼を覚ました若い頃のある夜がふと浮かんだ。こんな深夜に何を切っているのかわからないパチンパチンという音は不気味に不思議な音だった。あの音は爪きりだったのかと今判明した。
桜貝のような薄桃色の初々しい爪の色とはいかないが、生まれてこの間いったいどれほどのびては切るを繰り返したことか。じっと手を見るではなくじっと爪を見る。この半透明の爪を通して見るほのあかるさを何色と表現できるだろう。指先のこの堅くつるつるした丸みの小さなスペースのほのあかるさは奥底でちろちろと燃えている炎のかげの色とでも。その色を何色と絵の具の名前で言えない色はたくさんある。爪の色もそうだし、夕暮れ時のせつないような稲田の色もそうだし、回りを見渡せば何もかもほんとうは言い切ることなどできない。それにしても爪の先の空間などなぜ見てしまうのだろう。じっと見ていると身体中が顕微鏡を覗いている感覚に押されてくる。爪からつながる何やら意識が生まれてきて、その意識の流れについていくと、流れは枝葉にわかれては結ばれを繰り返しとてつもない遠いところにつれていかれる。気がつけば陽が暮れている。長旅をしたような、とめどもなく長いおしゃべりをしたような妙な疲れを眼の奥に感じる。
爪の先の空間から眼を離すと、窓の向こうから蔓ばらの赤い花が覗いていた。想うがままに蔓をのばし大きな束の様な蔓ばらに赤い花というよりも鮮やかなマゼンダ色の花がいっぱい咲いている。射しこむ夕陽が一重の花弁の花々や緑をいっそう透明に濃くしている。外に出る。ずっと曇り日や雨続きで久しぶりに見た夕陽は、あまりにも真赤に大きく眩しい。顔を眩しさに向けると身体中に眩しさが注入されていく熱を感じる。夕陽色が降り注いだそこいら中、ほんのいっときあたりは郷愁の色彩に包まれる。薄暗がりの神社の杉木立ちの一角に夕陽が射し込むと、下草の緑は苔を敷きつめたかのような柔らかい光の緑地に変貌する。そこに杉木立ちの影の柱がくっきり写し出された荘厳な空間、ただ無言で魅入る大地のスクリーン。刻々と影は移動しつつ薄くなりいつしか見慣れた薄暗がりの杉木立ちの一角に戻っていく。刻々と変化するあたりをぼーっと見ていると、「ねえ、露草が増えすぎて今抜いたところなんだけれどいる?」と近くに住む友達が声をかけてきた。「あっ、西洋露草でしょ。ほしい」と早速自転車を引く。庭の片隅に群生する青紫の絵が浮かんでいた。友達の庭は花盛りだ。夕陽射す植え込みの陰影のあちこちから鮮やかな色が眼に飛び込んでくる。「ほらね、こんなに増えちゃって、ここを歩くと洗濯物にぽつぽつ青い色が染まってなかなか落ちないのよと」と言いながら友達はつぼみがいっぱいついている西洋露草の一抱えを袋に入れてくれた。はかなさの気配を漂わせる日本古来の露草の名とはほど遠い西洋露草の束を眺めながら、その名にはうなずけないものが残るなと思った。