2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。
「あれや これや」 榛葉莟子
冷たい風が吹きはじめた頃から、あの猛々しかった面影は薄れ犬はめっきり老いた。突然老いたと人間の眼には写る。なにしろ犬は生後一年で十五歳だそうで次からは人間の四倍速で歳をとっていくと聞く。子犬の時からの年月を指折り数え、人間の尺度の歳の数に合わせていけば、顔も体つきも足腰もめっきり老いたのはあたりまえなのだった。犬はそれ以来家の中で暮らしている。
夜遅く一日の終りの小便に連れ出す。ねえ、早くしてね寒いからと、場所の定まらぬ犬に言いながら夜空を仰ぎ驚いた。すごい星!見上げた東の方角に騒がしいほどに星々がきらめいている。桜の木の枝々がからんで、ぽっかり空いた穴の向こうにいっせいに集合したかのように星々が接近しあっている。大きなオリオン座、三ツ星、赤い星あれはなんといったっけ。覚えても忘れてしまう星の名前。みつけるたびにみとれる星もいる。まるで蛍籠の星。ちらちらきらきら小さな星が連なり重なりあって、群生する蛍のような光の集合。プレアデスという星の集団と星座図鑑に教わった。この夜その星の集団がスバルとも呼ばれているということをはじめて知った。おなじみのスバルとはあの星のことだったのだ。清少納言が枕草子の中で「星はすばる‥‥」とその美しさをたたえているということも知る。スバルというのは首飾りの玉のことだそうだが、単に輝く宝石をたたえているのではない気がする。「すばる」は「昴」元々の日本語であった。カタカナ語と思っていた自分を笑い昴の語源を尋ねれば、なるほどと背後のイメージに合点がいく。「星はすばる‥‥」とその美しさをたたえて清少納言の眼差しの奥行きの根に触れたような気がして気にかかり始めた。奈良、平安の時代に生きた女性、清少納言や紫式部の鋭い観察の眼差しに触れてみたいとメモした覚えはあっても、「枕草子」も「源氏物語」もいつかいつかと思うばかりでいまだ手にとったことはないが、奈良平安の時代千年もの昔のある夜、星空を見上げている十二単の女姓の眼を、千年後の今夜庭先で星空を見上げる自分の眼に感じることはおもしろく親しみはいっきに近づく。
外側からの情報の引っかかりは皮膚の表面にぶら下がっているだけだから根は育たない。身体はなにか付着しているようなむずがゆさを感じつつ放置したままである。ぶら下がり続けているか、ずり落ちるかは内のエネルギーとの結びに関わってくる。つまりは内から発する気にかかりに優先権がある。予測出来ないなにかの刺激に、身体の内側から触手がゆるゆると外に向かって伸びてきて、持ちこたえている外のぶら下がりとの結びのイメージが見えてきたら、自分の根からの発信だから自分の事としておもしろくなってくる。「どうしても」というわくわくするエネルギーが沸いてくる。つまりは自家発電。あれやこれやの気にかかりのそこには自分の内のなにかが投影されている。気にかかりは自分への挑発なのだ。
晴れた朝の陽がゆっくり庭を照らす頃の空の色はすばらしく青い。赤や黄に照り輝いていた木立は次第にくすみを増しているけれども、遠目に見る青い空と赤い木立の対比は美しい。ふと指の窓から青と赤だけの一部を切り取り覗いてみた。ふたつの色はいっそう冴えた明るさが感じられ、その明るさは陽に照らされた明るさというよりも、なにかかげりが含まれた明るさと見える空間が気にいる。それにしてもあんまり青い空がきれいすぎて、ひときれくださいと空に言う。すると間もなくひらひらひらひら青いものが舞ってきた。手のひらにすくうとまぎれもなく青い空の一片‥‥思わず掌を覗いたりして。雲ひとつない青空に昼の白い月が遠く高くにいてくれたりするのを、いつまでもぼーっと眺めていると身体中空っぽになってくる感覚。ふと、ぴんと張った細い一本の線が頭をかすめたその時、銀色の小鳥みたいな飛行機が現れてこんなふうに?とでも言うように白い線を引きながらまっすぐに空を突き抜けていく。
こんないい陽よりにひとりで散歩していると、長い道のりがつらくなって家の中で寝そべっている犬がちらちら浮かぶ。あたりまえだか歳は年々とるのである。歳を考えなさいと親の説教を思い出すくらいで、日頃いちいち歳を考える事もないけれど、歳をとるの「とる」はどのような漢字を使うのだろかとふと思った。漢字のひと文字にはさまざまな展開がイメージされてきて、漢字の素を尋ねるうち思いがけず遠い所につれていかれる事がある。空というひと文字にしてもそうだ。高齢の場合など齢(よわい)を重ねという表現があるが、「とる」に注目して手元の辞書をみると「とる」は取る・採る・執る・捕る・撮る・摂る・盗る・獲る‥‥と、もっとありそうだ。じっとそれらの漢字をみているとすべて当てはまり、現実そのもの生身を生きる生きざまの映しのようでもあるし、刻々と発酵する酒樽の中身のようでもあるし。
「あれや これや」 榛葉莟子
冷たい風が吹きはじめた頃から、あの猛々しかった面影は薄れ犬はめっきり老いた。突然老いたと人間の眼には写る。なにしろ犬は生後一年で十五歳だそうで次からは人間の四倍速で歳をとっていくと聞く。子犬の時からの年月を指折り数え、人間の尺度の歳の数に合わせていけば、顔も体つきも足腰もめっきり老いたのはあたりまえなのだった。犬はそれ以来家の中で暮らしている。
夜遅く一日の終りの小便に連れ出す。ねえ、早くしてね寒いからと、場所の定まらぬ犬に言いながら夜空を仰ぎ驚いた。すごい星!見上げた東の方角に騒がしいほどに星々がきらめいている。桜の木の枝々がからんで、ぽっかり空いた穴の向こうにいっせいに集合したかのように星々が接近しあっている。大きなオリオン座、三ツ星、赤い星あれはなんといったっけ。覚えても忘れてしまう星の名前。みつけるたびにみとれる星もいる。まるで蛍籠の星。ちらちらきらきら小さな星が連なり重なりあって、群生する蛍のような光の集合。プレアデスという星の集団と星座図鑑に教わった。この夜その星の集団がスバルとも呼ばれているということをはじめて知った。おなじみのスバルとはあの星のことだったのだ。清少納言が枕草子の中で「星はすばる‥‥」とその美しさをたたえているということも知る。スバルというのは首飾りの玉のことだそうだが、単に輝く宝石をたたえているのではない気がする。「すばる」は「昴」元々の日本語であった。カタカナ語と思っていた自分を笑い昴の語源を尋ねれば、なるほどと背後のイメージに合点がいく。「星はすばる‥‥」とその美しさをたたえて清少納言の眼差しの奥行きの根に触れたような気がして気にかかり始めた。奈良、平安の時代に生きた女性、清少納言や紫式部の鋭い観察の眼差しに触れてみたいとメモした覚えはあっても、「枕草子」も「源氏物語」もいつかいつかと思うばかりでいまだ手にとったことはないが、奈良平安の時代千年もの昔のある夜、星空を見上げている十二単の女姓の眼を、千年後の今夜庭先で星空を見上げる自分の眼に感じることはおもしろく親しみはいっきに近づく。
外側からの情報の引っかかりは皮膚の表面にぶら下がっているだけだから根は育たない。身体はなにか付着しているようなむずがゆさを感じつつ放置したままである。ぶら下がり続けているか、ずり落ちるかは内のエネルギーとの結びに関わってくる。つまりは内から発する気にかかりに優先権がある。予測出来ないなにかの刺激に、身体の内側から触手がゆるゆると外に向かって伸びてきて、持ちこたえている外のぶら下がりとの結びのイメージが見えてきたら、自分の根からの発信だから自分の事としておもしろくなってくる。「どうしても」というわくわくするエネルギーが沸いてくる。つまりは自家発電。あれやこれやの気にかかりのそこには自分の内のなにかが投影されている。気にかかりは自分への挑発なのだ。
晴れた朝の陽がゆっくり庭を照らす頃の空の色はすばらしく青い。赤や黄に照り輝いていた木立は次第にくすみを増しているけれども、遠目に見る青い空と赤い木立の対比は美しい。ふと指の窓から青と赤だけの一部を切り取り覗いてみた。ふたつの色はいっそう冴えた明るさが感じられ、その明るさは陽に照らされた明るさというよりも、なにかかげりが含まれた明るさと見える空間が気にいる。それにしてもあんまり青い空がきれいすぎて、ひときれくださいと空に言う。すると間もなくひらひらひらひら青いものが舞ってきた。手のひらにすくうとまぎれもなく青い空の一片‥‥思わず掌を覗いたりして。雲ひとつない青空に昼の白い月が遠く高くにいてくれたりするのを、いつまでもぼーっと眺めていると身体中空っぽになってくる感覚。ふと、ぴんと張った細い一本の線が頭をかすめたその時、銀色の小鳥みたいな飛行機が現れてこんなふうに?とでも言うように白い線を引きながらまっすぐに空を突き抜けていく。
こんないい陽よりにひとりで散歩していると、長い道のりがつらくなって家の中で寝そべっている犬がちらちら浮かぶ。あたりまえだか歳は年々とるのである。歳を考えなさいと親の説教を思い出すくらいで、日頃いちいち歳を考える事もないけれど、歳をとるの「とる」はどのような漢字を使うのだろかとふと思った。漢字のひと文字にはさまざまな展開がイメージされてきて、漢字の素を尋ねるうち思いがけず遠い所につれていかれる事がある。空というひと文字にしてもそうだ。高齢の場合など齢(よわい)を重ねという表現があるが、「とる」に注目して手元の辞書をみると「とる」は取る・採る・執る・捕る・撮る・摂る・盗る・獲る‥‥と、もっとありそうだ。じっとそれらの漢字をみているとすべて当てはまり、現実そのもの生身を生きる生きざまの映しのようでもあるし、刻々と発酵する酒樽の中身のようでもあるし。