ART&CRAFT forum

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造形論のために(終章)『存在の上澄みに向かって②』 橋本真之

2017-06-23 10:17:21 | 橋本真之
◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(撮影・高橋孝一)

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実(内部)」
撮影:橋本真之

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
撮影:高橋孝一

2005年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 36号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために(終章)『存在の上澄みに向かって②』 橋本真之

 一撃一撃と槌跡を積み重ねて曲面が形成される。その曲面のうねりの暗い坑道を幾曲がりも進んで行き、そこに斜めに射した光は私の記憶に幾重にも折り重なって沈んで行く。発端から、もう30年も辿り続けた、金属と共に運動する日々の鼓動の結果が、目の前に横たわっている。その内部の底に、天空からの雨滴が世界の塵埃を運んで来る。かのほの暗い空間には、もう私の肉体は戻れない。そこには小さな水溜まりが出来ていて、今は静かな水面を作っている。その水底にまで届く光は微かだが、そこにある空間の重い沈黙は、私と銅と結接した思想の澱だろう。銅の曲面を丁寧にたどれば、消え残っている歪みのそこかしこに、私の生の逡巡と葛藤が刻みつけられている。運動体と化した銅の気配は常に私の肉体の脆弱を嗤っているようだが、時として、長い「時」に耐え得ない肉の腐敗を憐れんでいる風を見せさえする。銅膜の表面の密度は拡散して行き、私の一撃一撃はその間を踏み行く。銅を叩けば槌目の重なりに限りなく顕われる頂点を、確実に叩き続けていると、あるいは銅の凹曲面の負の頂点の連なりを叩き続けていると…やがて膜状組織にみなぎる張力がやって来る。それは私の行く先を導くようにやって来る。空間を切り進むようにして、私の「時」を喰らって銅が成長する。それは銅を肉体とした私の消耗して来た「時」の成長でもある。そして、私自身の肉体の「時」の手応えとして、そこに自らの思考の運動を見ることになる。私はこの幾曲がりを、何度繰り返したことだろう?

 世界の濁水の中に、塵埃と共に時を過ごす存在の沈黙の日々。この地球上のいかなる場処においても、同様に事々は沈黙のまま循環し、充満している。この水底深くに沈潜し、息を殺して、自らの包む水の層が静かに澄んで来るのを、私はじっと待つのだと、20代の初めに覚悟した。すでに40年近い年月が過ぎ去った。まだ自らの方法論さえ獲得出来ぬ頃の、焦燥に充ちた宛のない願望が、今も私の心を占めている。鍛金という限界だらけで時代離れした金工技術によって、自らの方法論を見い出した後にも、同じ願望に誘なわれて、いたずらに時を過して来た。すでに、いつの日にか成就出来るか?というような私の年令ではないのは重々承知している。わずかな手懸りをたよりに進んでいるけれども、危険な幾曲がりの紆余曲折を経ながらも、常に指針として方位を示す磁力のごとき空間の中心軸。私がすでにこの全身で感触して来た事々の延長の先に、そして、だどって来た筋道の全体に、おそらくそれは遍満して在るのだろう。それらの凝集する澄明の日々はいかにしてやって来るべきか?

 すでに老いの迷宮が始まっている。行く先に待っている昏迷の日。人々に忌み嫌われて来た老いの向こうに分け入る時節が来たのである。覚束ない感覚の揺れの中から垣間見る自我の結晶作用、あるいは欲望の昇華作用の運動展開、その道筋の私の乏しい経験の中からも、私はその手懸りを獲得して来た。その手懸りの覚え書きとして、この「造形論のために」は縷々書きついで来たのだった。扨、私はもうひと押ししなければばならない。少なく見積もっても、もう20年ばかりの時間が必要だろう。その後に私の生がまだ尽きていなければ、この章の続きが書けるに違いない。

 私に解ったことは簡単なことだ。形に意味がある訳ではない。運動展開する構造の動態に特有のフォームが形成される時、そのフォームが私の造形思想を自証するのである。すでに西洋近代の色と形の構成論・表現論は消費しつくされているのだが、この運動構造形成論の鉱脈はいまだ無尽蔵である。

 騒音の中に聞いた聖歌、海辺の林檎、厳そかな帰り道、いずれも私の20代の頃の乏しい経験がもたらしたものが何であったのか、今私には解る。これらの表現の方途を持たなかった世界の顕現の経験が、長い月日の間に私の具体的な認識の足の踏み処となって来たのである。造形行為というものが、そうした認識作用を伴なわずには、なされ得ないことは確かなのだ。私にはそのように思われる。

 しかし、私の前にある銅がなくては、また右手に握った金槌なしには、造形思考は始まりはしなかったのである。それらの具体的な経験は、私に方位を示しはしたが、具体的表現の手立てやイメージを与えはしなかった。もっとも、イメージ操作で事がすむくらいなら、私は疾っくに造形行為を捨てていたはずだが、私はそうした芸術的詐術よりも、具体的事物から出発しなければならなかったのである。実に異物としての銅が、私の肉体中の結石のように、痛みを伴いながら結晶を成長させるのを待たねばならなかったのである。それは長い時を要する、生の限りを使い果たす造形行為なのだということを、私は覚悟したはずだ。いや、むしろこの単純な労働行為がささえる方法が、私に覚悟をせまったのだった。この異物を抱え続ける日々の思考の中で、私の世界が次第に言語の隙間を縫って緊密に組織立って来るのを見た時、その筋道が物質とそれを扱う技術の中から、じりじりと導き出されて来ることに、驚きを覚えた。すなわち私の素材と方法の理路は、当然の事ながら物質的限界を持つことを覚悟するところから始まったのである。

 我々がこの世界に生きるということは、そうした事なのだ。プラトンが言うように(注)、我々は洞窟の中で光に背を向けさせられて一生壁に映った存在の影だけを目にして生きているというのであれば、我々の認識そのものが影だということだろう。そのような認識が我々の生を貧しく空疎なものにして来たのではなかったか?その後の哲学も大なり小なりプラトニズムを底に沈めたイデア思想ではなかったか?むしろ、この限界を出発として、世界の存在を充足させ得る認識に向かうことが出来なければ、我々はいつまでも擬いものの認識を押しつけられ続けることになるはずだ。我々は、この充足の手応えを徹底して自覚してこそ、虚無に向かって悠揚として消滅することが出来るに違いない。存在の上澄みとは、その様にしてこそ清々しく顕現するのでなければならない。この結石を抱き続ける苦汁の日々。目の前の林檎を因習を捨てて見るということの素朴な抵抗感が私を動かした。かの日々の持続する思考の動態として、いまも物質が私と共に運動している。この表裏一体に絶対運動膜がある。さもなくば、この生は欺瞞である。目の前の実在さえ動かし得ずに、一体何を動かそうというのか?
 今ここに自らの肉体が育てた果樹園が運動体と化している。この鼓動は私のものか?
 (注) プラトン「国家」
 

永い間の連載になりましたが、今回をもって終了と致します。御愛読有難うございました。
  山口県立萩美術館にて4月22日より来年2月頃まで「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」の新作部分を含む展示が行われます。また茶室展示「揺れる日々の中に」も合わせて御覧いただければ幸いです。                橋本真之

『インドネシアの絣(イカット)』-絣の魅力-  富田和子

2017-06-21 10:39:59 | 富田和子
◆富田和子 矢絣(木綿、経絣・経ずらし絣)

◆聖獣バロン

◆魔女ランダ

◆琉球絣(木綿、経絣・緯絣・緯ずらし絣)

◆伊予絣(木綿、経緯絣・経絣・経ずらし絣)

2005年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 36号に掲載した記事を改めて下記します。

 『インドネシアの絣(イカット)』-絣の魅力-  富田和子

◆絣について
 経糸と緯糸を組み合わせて布を織っていく…。織物を習い始めた頃は、色糸を組み合わせて縞や格子を作り出すことが楽しかった。自分で糸を染めることを覚えると、やがて絣の布を織ってみたいと思うようになった。織物を勉強した人、あるいは布に興味のある人ならば、絣に心惹かれる人も少なくないように思える。
  絣はインドで発生したと言われている。アジャンタ石窟の壁画に矢絣風の模様が見られることから、少なくとも7世紀頃には絣が織られていたと考えられる。その後、絣技法はユーラシア大陸を通過し、世界各地に伝えられた。他の織技法に押されてあまり発展しなかった地域もあるが、インドから、インドネシアを始めとする東南アジア、そして日本へ至る地域では、各地各様の絣が展開していった。日本には14~15世紀頃、外国との交易が盛んに行われ始めた沖縄に絣の技法も伝えられ、当時の琉球文化圏で日本の絣の基礎が築かれた後、徐々に本土各地に分布した。日本の絣といえば、誰もが藍で染めた木綿の紺地に白抜きの絣模様を思い浮かべるほど、江戸時代以降、明治から大正時代にかけて、木綿の絣は広く日常着として活用され、日本人の生活には欠かせないものとなった。日本各地に絣の産地があり、また、絣模様を作り出す様々な技法があることからも、絣は日本人にこよなく愛された織物のひとつと言えるであろう。
 ヨーロッパに絣技法が伝えられたのは日本よりも古く、中近東を経て10世紀頃と推定される。ルネサンスの初期である14世紀から、17世紀に至るまで、スペインやイタリアを始めとし、ヨーロッパ各地へと広まった。 日本の絣の技法のひとつに「ほぐし絣」がある。これは、粗く仮織りした糸に捺染(プリント)をして絣模様を作り出す方法であるが、元々はフランスの捺染絣という技法が明治の頃に伝えられたものである。東方の影響を強く受けながらも独自の技法を作り出したにも関わらず、ヨーロッパの絣は現代に受け継がれては来なかった。なぜアジアで、なぜ日本で、絣は好まれたのだろうか。

 ◆善と悪の終わりなき戦い-バロンダンス
 神々の住む楽園と言われ、芸能・芸術の盛んなバリ島はインドネシア随一の観光の島である。島民の日々の暮らしは、バリ・ヒンドゥーへの信仰が基本に成り立っている。バリの伝統的な芸能文化である音楽、舞踊、絵画、彫刻などは、本来、全て神々に捧げるものであり、神々と交信する手段として代々受け継がれてきた。その中の一つに「チャロナラン/バロンダンス」という伝統舞踊がある。

善の象徴である聖獣バロンと、悪の象徴である 魔女ランダの戦いを物語るもので、魔女ランダが呪いや魔術をかけると、聖獣バロンがそれらを取り除くという戦いが繰り広げられるのだが、バロンとランダの力は互角で決着がつかない。どちらが勝つこともなくバロンダンスは幕を閉じる。
バリでは善(良い魂)と悪(悪い魂)とがいつも同時に存在していると信じられているという。 現在では観光用のお馴染みの舞踊だが、本来は   墓地のある寺での儀式と
して演じられ、その際にトランス(憑依)によって、あの世からのお告げや指導を仰ぐためのものでもあるというこのバロンダンスは、聖獣バロンと魔女ランダの姿を借り、両者の終わりのない戦いを通して、善と悪、聖と邪、生と死といった相対立する概念は常に同時に存在し、無限に続くというバリ人の世界観を体現している舞踊である。
 当然のごとく勧善懲悪の結末を予想していたので、初めてこの踊りを見たときには、決着のない結末に衝撃を受けながらも、妙に納得し、感動さえした。確かに、一個人を考えてみても、誰もが善と悪とを併せ持っているし、そんな人間達が作り出す世の中もまた清濁混沌としたものである。長所と短所が背中合わせの表裏一体で存在するように、正義を振りかざしたとしても、見方や切り口を変えれば、その正義は悪に成り得ることもある。そんな曖昧な真実の上に世界は成り立っているのではないか。その曖昧さを是とするか非とするか。白黒はっきりと決着をつけないと治まらない民族と、曖昧なグレーゾーンでどのように折り合いをつけていくかを重要と考える民族の違いは、どこから来るのだろうか。宗教を一例に挙げれば、唯一絶対の神を信じることと、八百万の神々を受け入れることなど、宗教観や信仰心の違いとも重なるように思える。洋の東西を問うならば、東洋文化の中で絣もまた、はぐくまれ花開いた。

◆なぜ絣に心惹かれるのか…?
 絣は、基本的には糸を括って染まらない部分を作り、模様を表すという非常に単純で素朴な技法である。だが、糸を模様通りに染めること、その模様を崩さぬように織機に準備すること、模様を織り合わせることなど、各工程において、長い時間と正確な技術が要求され、大変な作業である。しかも、確かな技術を持ってしても、絣模様を完璧に揃えることは難しい。明確な織模様を求めるならば、直接的な綴織や組織の変化で表す技法が適している。正確に模様を織りだそうと懸命に努力しても、絣模様はずれてしまったり、かすれてしまったりする。また、括った部分と括らない部分との境界線には、微妙な色の移り変わりがでる場合もある。しかし、それらが絣独特の美を生み出していることも確かである。自然に発生する不均一で曖昧な模様表現が、魅力あるものになっていることは不思議であるが、完璧でも絶対でもない曖昧な絣模様を美しいと感じる人は、絣に心惹かれてしまうのである。

『硝子越しの陽射し』 榛葉莟子

2017-06-19 10:43:07 | 榛葉莟子
2005年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 36号に掲載した記事を改めて下記します。

『硝子越しの陽射し』 榛葉莟子


 寒すぎる仕事部屋から薪ストーブが燃える暖かい部屋に避難する日がほとんどの冬の日々だった。まさに冬籠もりの動物たちのごとく、本を読みかけたままとろとろ睡り何かしかけてはいつのまにかとろとろ睡り、いったい何なんだこの睡魔はとはっとしては、四六時中丸くなって睡っている猫の体質がうつってしまったのかしらと熟睡中の猫のせいにしたりする変な冬の日々だった。

 朝ストーブを燃やすのは最初に起きる私の役目になっている。溜まった昨日の灰を取り出してから、薪を一本入れ二本めは一本めを台にして斜めに置き空間を作る。それから焚き付けの小枝か新聞紙を丸めて空間に入れて火をつける。新聞紙がめらめら炎を上げ小枝がぱちぱち音を立てはじめる。かといって薪にすぐ炎は染みてはくれない。うまい具合に薪が炎を吸い取ってくれる時もあれば、部屋中もくもくと煙がたち込めてしまい朝から燻される時もありで、役目としては火付けはうまくない。久しぶりに会った都会の友が鼻をひくひくさせて開口一番なんだか燻製のような香ばしい匂いがすると言っていたが、なるほどこの香ばしさは誰の奥底にも染みついている懐かしさをともなった古代の匂いなのだ。

 そういえば新聞紙は冬の我が家の貴重な焚き付けの役目があるので、新聞がたまれば束ねて置く場所に次次と積まれていく。ストーブの必要がなくなる頃置く場所は空になる。なが年新聞紙のお世話になっているので気ずいたのだけれども、この数年新聞紙は灰色の灰にならない。黒い形を留めたままの燃えかすとなって残っている。以前はきれいな灰色の灰であり原料は純粋にパルプと疑りもしない証だった。ねじって入れた新聞紙がねじったまままっかに燃える時、ほろほろした赤をこもらせたまま幾層もの薄い紙の縁をじわじわと黒いふちどりを残しながら燃えていく。その黒と赤のふるえるように燃える透明感の妖しくも美しいつかの間。ねじりのかたちは瞬間の静止をみせたまま残骸となる。それにしても灰色の灰にならない不自然は紙の原料かインクに良くない何かが混入しているのだろうかと疑っている。新聞を作る方は新聞の行方は知る由も無いだろうけれど、子供の頃、魚屋さんや八百屋さんが四角くカットした新聞紙の束に太い紐を通して柱にぶら下がっているのをさっと一枚とって、はいありがとっと魚や何かを包んでくれたり、駄菓子やさんのこ袋だって活字の袋だった。誰も疑りもしない原料は純粋に木なのだから。でもこの頃疑る。

 新聞はためておく必要上使う時には古新聞になっている。新聞を隅から隅まで読む方ではないので、使う段になって時を経た記事にふと目がとまり新鮮が飛び込んでくる事がよくある。ある朝、炊き付けに新聞を丸めようとした時ふと目にとまった一行、タマネギはなぜ丸くなるのか。と、とんち問答かなぞなぞ遊びのような書き出しだった。植物成長の研究で、じっと見続ければ植物が教えてくれると説くそんな姿勢が熊楠と共通と評価されて、南方熊楠賞を受けられた方の研究が「ひと」欄に紹介されていた。丸くなる訳を書き写してみると、タマになるのは葉の付け根。この部分の細胞は普通ひも状の器官でぐるぐる巻きにされ縦方向にしか伸びない。ところがタマネギのタマは昼間が長くなると四方に均等に伸びて丸くなる。ひもが働かなくなる。二十数年、電子顕微鏡を覗き続けタマネギは何故丸いのかの謎に挑戦されていたという。要するに細くなるダイエットの努力を放棄した訳です。とあった。ねっ、おもしろいでしょとは書いてはないけれどそんな声が聞こえてくるようだ。知らなかった事を知りなるほどと知識をもらっただけではなく、何だろうこの開いた感覚。と、感じているのはあのシンプルな疑問の視点、タマネギはなぜ丸いのかの一言にメカラウロコの感動のせいかもしれない。台所でタマネギをじっと見ながら琥珀色の薄皮をはぐ。タマネギを見る目は昨日の場所から少し移動している。

 やかましいくらいの雨音は屋根に積もっている雪が猛烈な勢いで溶けて烈しい雨ふりを演じているからだ。急に気温が上がったのだろうか烈しい雨音はしばらく続いていた。雨樋に穴が開いていたりずれていたりしているせいも手伝って、雪解けの水は滝のごとく屋根の傾斜を流れ落ちてくる。けれどもまもなく気がつくとばたっと静かになっていた。毎日厚い雲に覆われていた空は少しずつ剥がれて灰色に薄青い空色が滲みてきた。そうして懐かしいような硝子越しの陽射しは部屋の隅に侵入し動いているのかいないのか微妙な陽射しは、垂直に伸びたラジオの銀色のアンテナを射貫いたのか強烈に輝いた。キーンと音をたててアンテナの中から痛いようなまぶしい光が飛び散った。そう見えた。そして陽射しは小刻みに移動して散らばり部屋はただの平たい明るさになっていった。なまぬるい冬籠もりの心身共に運動不足の日々自分のアンテナが射貫かれたような気さえした。

『一本の線につながれて』 藤岡恵子

2017-06-17 11:28:35 | 藤岡恵子
◆ Breathing the sea 2003/senbikiya gallery Tokyo
 Size: 225×140×20cm material: collargen silk

◆藤岡恵子「終わりのない風景」

◆藤岡恵子
私のプリニウス<クラーケン> 1992 size:45×35×6cm material:ウール、地衣類、リネン

◆藤岡恵子
 C0COON 1994/Wacoal art space Tokyo size:160×50×35cm material:collargen 

◆藤岡恵子
Breathing the sea 1998/senbikiya gallery Tokyo  size:80×60×8cm 
material:collargen silk naylon acryllic frame

◆藤岡恵子
Surface tension 2001/senbikiya gallery Tokyo size:38×50×6cm 
material:collargen newspaper acryllic case

◆藤岡恵子
Breathing the sea 2003/senbikiya gallery Tokyo  size:50×48×48cm 
material:collargen pylon silk 

2005年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 36号に掲載した記事を改めて下記します。

 『一本の線につながれて』 藤岡恵子

 人は色々なことに興味を持ちその出会いが将来に大きく影響することが多い。私の中にも沢山の出会いがある。 子供の頃、父の書斎で良くイタリアの彫刻家 <ドナテロ>の本をみていた。(昭和19年、洸林堂出版)15世紀初期に制作された <ダビデ> 像、もう一つは15世紀半の <聖ジョージ>、この二つの立像のページを何度となく見た記憶がずっと私の中にあり、成長してからもあの時に私は何を思いながら見ていたのかと、ふと手にとって見る事がある。となりにあった <フィレンツェ> と題した本にも目をやっていたが、内容については殆ど覚えていない。後にわかった事であるが、寄寓にも高校で教えをうけた美術の先生の清水多嘉示先生が <ドナテロ> の本の序文を書かれていた。先生はブルーデルの弟子で有名な彫刻家であられた。清水先生の書かれた<ドナテロ> の序文によれば、<<ドナテロは彫刻で究めたルネッサンスの彫刻家で、ミケランジェロと異なるところは、後者は彫刻によって究めた世界をむしろ絵画の上で綜合し素晴らしい創造をした。彼の最も尊敬するドナテロは彫刻で究めたところを、彫刻で綜合せるものと言う事が出来る。ここに二人の作品の相違がある。ルネッサンスに於けるドナテロの位置はあたかも絵画のほうで言えばジョットに相当するであろう。>>と述べられている。幼少時に見ていた本はルネッサンスから現代までの芸術家に多大な影響を及ぼした彫刻家のものだった。この高校時代の清水先生との偶然の出逢いと、高校3年生で読んだ <ゲーテのイタリア紀行> この二つの出来事が後に私がイタリアへ行くきっかけとなる。武蔵野美術大学に入学すると、またそこで清水多嘉示先生が教鞭をとっておられ再び出会う事になる。私はじきじきに1年生の時、ギリシャ神話の美、豊穣、恋愛の女神で泡から生まれたともいう <アフロディティの誕生> の模写の指導を受けた。レリーフの立体感は背後のかたちがどうなっているのか良く考えて肉づけをするようにと、大きな手で粘土を取り肉付けの手ほどきしてくださった。先生の優しいまなざしと力づよい大きな手、その時のことを今でも鮮明に覚えている。振り返ると彫刻家 <ドナテロ> は私の背後にいつもあり、私を形成していく上で大切なきっかけをつくり、それらの出来事が1本の線上にあることに改めて驚きを覚えている。

イタリアでの仕事
 若いと言う事は無謀であり、ときには自分の実力以上の事に挑戦したがるものである。ブレラ美術学校で学んだ後、まず私が向かった所は建築家エットーレ・ソットサスの事務所だった。なんの面識もなく事務所の門戸をたたく。幸運にも入所を許された私は天にものぼる気持ちだった。ソットサスは当時OLIVETTIの仕事をしていたが、私は彼個人の仕事を手伝いたかった。
 初めに手掛けることになった <ヤントラ> と言うテラコッタの花器のシリ?ズは60数点あった。花器というより彫刻や建築物に近いデザインであり、複雑な形態の組み合わせが多かった。図面をひいている私の背後から、彼は大きな手で私の肩を掴み、もっと強く、大きくと叫ぶ。デザインのイメージは時にはインドネシアやインドの建築に見られるフォルムであり、シヴァ神や太陽など造形的な構成であった。一年間の間にプラスチックの家具、自動車の真空成型器を使ったつみき状のベットや家具、大きな鏡などから照明器具に至迄、夢中で図面をひいたものだ。ソットサスの事務所で私はものと人とのかかわり合いについて多くの事を学び、また、彼のフィエーラに出品された作品のまえで釘づけになったこともある。ストライプのライテング・ビューロの上に置かれたランプはブルーとピンクの光りを両面から放っていた。本当に動けなかった。涙もでてきた。雑念が取り払われスーッとその世界に吸い込まれるようだった。その強烈な体験から私も人に何かを感じてもらえる作品が創りたいと思い作品づくりに入ることにした。これらの仕事を終えた後に自分の作品制作に入る。ソットサスの事務所での体験が土台になっていた事は言うまでもない。イタリアに来る前のテキスタイルデザインをやっていた時のように、テキスタイルに装飾性を求める事はなくなっていた。 作品の制作意図は人とものとのコミュニケーションを重視し素材の持つ触覚性を前面にだす。それは石の建築や大理石の床、プラスティックの家具に対する極端なまでの原始の風景である。題して <終わりのない風景>。 この個展にむけてDMにコメントを書いて頂いたが、ソットサスは <<日本的な物の見方がどこまで西洋的なものの見方と共存出来るか、または出来ないかをさぐっている>>また、<<原始的な風景は日本の中世の物語りに出てくる血塗られた運命と同じように、(中略)沈黙のなかで、はるかな霧にかすんだ城の部屋の中の惨劇のようだ>> このコメントと私の思いはは少し異なるが、かなりアグレシブであったようだ。見る側と創る側の思いと受取りかたは自由であっていいと思っている。イタリアでの3年の月日は、過去の人生のなかでもエネルギーに満ちた新鮮で自由で素晴らしい時間だった。

イメージの発想について
 作品づくりを触発するものは何だろうか。私は日々の生活の中にあると考える。決して特別なものではない。けれど生きる姿勢、心の目をどのくらい大きく見開いているか、様々な事に対する批判精神や、驚き、好奇心、自然の神秘に対すること等。これらは、人により各々相違はあると思うが、時代や年令、又その日の内でも時間とか、身を置く空間などによりアイデアは広がり又狭められ、作品への思いはかたちにされていく。のんびりと安らぐ時間、自然の中でときを過ごすことは都会の騒音の中で暮らす現代人が失いかけた人間性を取り戻す上で大切なのではないだろうか。作品を見た人が感動したり、好感を持つ作品はどのようなものだろうか。 最近若い人の創った作品で強いメッセージを発し語りかけ、迫ってくる情熱を感じる作品に出逢った。何かが違う。伝えたい言葉は作品のなかにあった。人間としての素直な新しい出会いと感動の中から彷彿とした溢れんばかりの思いをぶつけていた。エネルギーの源は時に旅であり、出会った人間や民族性、異文化に触れたとき、今まで生きてきた自分の世界では考えられかった新鮮な発見があったからだろうか。その時に感じた素直な感情が作品の中に表現されていた。ほとばしる情熱を作品にぶつけるのは旅での出会いばかりではない。 例えば偉大な作家アバカノヴィッチの作品は幼少のころ大戦が勃発、その時の体験を自らの手で作品の中で示さなければならなかった。芸術家の身じかでの強烈な体験が作品のメッセージとなっている。その迷いを探りながら、自身にとっても最後迄明かすことが出来ない創造することの巨大な苦悩と戦っている。まさに創造とは終わりのない旅なのではないだろうか。 個人的にはコンセプチュアル・アートと云うのが好きでない。 ファイバーの仕事に関わらず説明がなくとも作家の体験をとおして表現した作品のほうが強いし好きである。見る側も五感をつかって素直にこころの目をひらけば作家の声をきくことができる。

自然讃歌
 先に書いたように作品の発想は私の日々の生活の感動の中から生まれていく。また、出会える事のない未知の世界を本を通して言葉からイメージを得ることも多い。好奇心とイメージを彷彿させてくれる本は、時には澁澤龍彦の著書であったり、地球の素晴らしさは生命の輝きであることを教えてくれたレエイチエル・カーソンの <海辺> と、人生を色々な貝に例えて書いたリンドバーグ夫人の <海からの贈り物> 等々。これらの本はいつ読みなおしてみても感動を覚える。また自然のなかに出かけ自然の神秘に出会うこと、それは大切な心の洗濯でもある。収集した自然物を身じかに置いて観察し対話しながらイメージ化することも多い。渋澤龍彦のビブリオテ?カのシリーズを読んだ中で、最もイメージを視覚化出来たのは <幻想博物誌> である。ローマ時代の博物学者プリニウスの本を読んだ著者が彼の視点で書いた本である。<プリニウスの博物誌> については中野定雄・里美・美代の三氏が年月をかけ訳しており、ローマ時の事を知るには大変興味深いが、百科事典のようでイメージを沸せてくれる文体は澁澤のほうが圧巻である。澁澤の本をもとに制作した <私のプリニウス> のシリーズは言葉からのイメージを基に、身近かなところで見つけた小さな自然を素材に制作してみた。自然はあっと驚く神秘的な造形を次から次へと見せてくれる。自然の繊細な仕事は小さなところにあり、見のがしてしまいそうだが、近くに寄って時には虫がねを通して見ればとんでもない神秘を見つけられる。その度に興奮と嬉しさを抑えきれず、人間より素晴らしい造形力を持っている自然の生命の神秘に対し讃歌をおくっている。
最後に私のこの10数年の作品について書く。いま使っている素材コラーゲン・ケーシングには特別になにか魅かれる不思議なものがある。人口的につくられているケーシングは牛皮中のコラーゲンを原材料とした可食性素材である。作品のなかに可食性という意味を重ねることは私にとって今までの素材とは異なる視点で方向性を見いだして行ききたいという意図がこめられている。素材の特徴を引きだすのに、多くの実験を重ねなければならなかったし、今も実験の日々である。コラーゲン・ケーシングには実は無数の小さな穴が空いており、人の皮膚に似た感覚があるのも魅力だ。作品は食べられるコスチューム <コクーン> から始まり <サーフェース・テンション> <海を呼吸する> <Memory・2001/11/September> <刻のかおり> そして新作を進行中である。海のテーマは子供の頃に育ったふるさとであり、海辺の生物にはいまでも興味を持ち続けている。また、海には無限の時を費やしてきた地球の歴史の息づかいがあり私のイメージの宝庫でもある。砂浜と海の境目なんてあるようでない、潮のひいた浜辺に残されたかたち。波にあらわれた貝や石も生物もすべてが私の心を解き放ってくれる。今制作中の作品は水面下と空気の境目の空気感をとらえて見たいと思っている。 常々私は純粋な自由な心を持ち続けたいと願っている。今後も姿勢を変えずに制作を続けていきたい。最後にレエェチエル・カーソンの言葉で締めくくる。

   自然にふれるという終わりのないよろこびは、けっして科学者だけのもの
   ではありません。大地と海と空、そして、そこの住む驚きに満ちた生命の
   輝きのもとに身をおくすべての人が手に入れられるものなのです。  
                        センス・オブ・ワンダーより
                       

『松葉のかご』 高宮紀子

2017-06-15 13:23:02 | 高宮紀子
◆アナ キング “red sky at night”

◆写真1 高宮紀子「無題」

2005年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 35号に掲載した記事を改めて下記します。


民具のかご・作品としてのかご(21) 高宮紀子
 『松葉のかご』 高宮紀子

 前号で2004年7月の末から9月の末まで平塚市美術館で行われた「かご展」のことを書きましたが、その出品者のスコットランドからきたアナ キングさんというバスケットメーカーのワークショップに参加する機会がありました。テーマは松葉を使ったコイリングのかごです。

 アナさんはテキスタイルの出身で、織りの作品を作っていますが、かごの技術と出会うチャンスがあったようです。しかし最初はどうも自分には合わない、と思ったと話しています。その時、教えてくれた人からコイリングをやってみたら、とアドバイスされたのがきっかけになり、その後もいろいろな素材でコイリングの作品を作るようになりました。彼女が使う素材は自然素材で、多いのが松葉、そしてそれを巻きとめる麻糸、綿糸、絹糸など。その他の素材を飾りに使ったりします。その他、加工された素材、ナイロンやテグス、紙などといった素材も使います。

 コイリングは、芯材と巻き材で構成されます。芯材を底から渦巻き状にして、巻き材で巻いて留めながら、積み重ねていく、という作業で作ります。立体に立ち上げる方法というのは、芯材が前段の芯材にどういう角度でつながるか、ということで決まります。それは手の指を当てて、どれくらいの角度で編むかという手ごころなのです。コイリングほど手ごころの加減が全体のフォームを決める技術は無いともいえます。

 アナさんのかごはだいたいが普通のかごのフォームをしています。二枚目の写真、赤い羽根の作品がアナさんの作品です。タイトルは“red sky at night”で、芯材はサイザルの繊維を束にしたもので、細さが3mmぐらいのものを細い綿のような糸でコイリングして作っています。それが土台になっていて、その上に小さな羽根がぴっちり付いています。おそらく羽根の根元を芯材に留めながら作ったのだろうと思いますが、ひじょうにぴったりとおさまっています。よく見るといろいろな羽根の色の配置がよく考えられていて、生き物の暖かさを感じられるようにも思えます。かごの一番膨らんだ所を見ていると羽をたたんだ鳥が休んでいるようなイメージにも見えます。
かごは直径が7cm、高さが4cm、ちょうど手のひらに乗る小さなものです。たいていのアナさんのかごは技術の構造を展開した形というよりは、フォームを限定し、素材感を魅力にした作品で、かごの形をしています。アナさんの作品が普通のかごと違うのはアナさんの体験に基いたメッセージがあるという点です。かごの周りに、いろいろな物、例えば散歩の途中でみつけた木の実や、海岸でひろった貝殻などが糸で付いていたり、またかごの中に別の物が入っていることが彼女の作品の特色といえます。
でもそれは単なる飾りではなさそうです。飾りの付け方や種類に注意深さが感じられるからです。写真のかごの中にはピンク色の豆本が入っています。通常でしたらサイザルの繊維を巻いた裏が中に見えるのですが、アナさんのかごは違います。中に赤いふわふわしたフェルトが敷かれていて、裏が見えないようになっています。その中に小さな2,5cm角の本が入っている。ピンク色の表紙で中に和紙のページがあり、ちゃんと糸で綴られています。そのページには赤い夜の空についての文章が書かれています。そういえば、外側の羽根の部分を見ていると赤い空に見えてきます。夜の赤い空はいい兆しなのか、恐ろしいことの前兆なのか、どちらにもとれる、そういうことに気付きます。表紙には小さな本物の貝殻がつけられています。その貝殻は本のタイトルのシンボルであるようです。

 彼女が来日したのは展覧会の終わりの方でワークショップは二日間ありました。一日目は、松葉を使ったコイリングの方法を具体的に習い、実際に松葉を使って自分のかごを作り、二日目は他の素材を使い、自由なコイリングを試すといったものでした。
いろいろな素材が用意され、集まった参加者はどんなことをしても、何を使ってもいい、でも困った時にはアナさんに相談して、アドバイスを受けながら作業をしました。参加者は当初の予定、確か7,8名だったのが、はるかに超えて30名近くいましたが、皆さん松葉を手に奮闘することになりました。
美術館のワークショップの部屋の大きな作業台の周りにそれぞれ座り、作業が始りました。素材に使う松葉は参加者がめいめい集めて持ってくることになっていました。庭で集めた人や、公園や空き地で採ってきた人など、いろいろな色や長さ、太さの違う松葉が机の上いっぱいに広げられ、部屋中にいい匂いが満ちました。
おそらくかごを初めて作った人も中にはいたのだろうと思います。かごの作品を作る仲間も何人か参加していましたが、アナさんのようなやり方で松葉を使うのは初めてだったと思います。私自身、以前に松葉を使ってコイリングをしたことがありましたが、その時はさほど感動はありませんでした。松葉が乾いて茶色になっていたせいかもしれませんが、だからワークショップを受けるにあたって、あまり新しいことは無いだろうと思っていました。でもそれは違っていたのです。
アナさんの松葉をコイリングする方法というのは、松葉をそのまま緑色が鮮やかなまま使う、そして束をせいぜい4本ぐらいにして細さを一定にし、巻き材には縫い糸のような白く細い糸を使うというものでした。今まで太い巻き材で束を巻いてコイリングしていた私にとっては、これが新鮮でした。細い巻き材を使うとコイリングのステッチがまるで刺繍のように見えてきます。早くざくざくというのではなく、1針1針、大切に巻いてコイリングする、という感じです。そのゆっくりとした時間の中で素材を慈しみ、観察しながら形を作っていくことができます。彼女はコイリングするリズムが大切だと言っていますが、このリズムというのは、ただ早くとか、流れるようにというのでなく、素材をどう使うかとか、自分の手がどういう働きをしているか、ということに向き合いながらの、いわば観察をする時間を含んでいるという感じなのです。私も素材に対する観察という意味では常にしているつもりでしたが、違う素材を使うことで、またその時間を意識して作業をすることで、新しい体験をしたような新鮮な気持になりました。
二日目は自由に素材を選んで使うということだったのですが、まだ松葉に執着したい気持がありました。最初にスタートしたダイオウショウ(松葉が長い)のかごができず、このままでは、今掴みかけたことが逃げていくような気がして、一つのかごをまずは完成させてみようと思ったのです。たいていの人は、かごの作業が終了すると、拾い集めたいろいろな素材をかごの表面に糸でくっつけていました。私も何かつけたい、(今まで滅多にこういう気持になることはありませんでしたが、アナさんと出会えた記念だから)他の葉をかごの口に付けたのです。そうすると、アナさんがやってきて手にとり不満そうに眺めて要素が多すぎる、と言いました。

 かごを作り終えるとより自分らしくしたくなります。だから何か付けたくなるのでしょうが、私の場合、別の大きなものを付けすぎた。その結果は客観的に見ると、今までやってきた仕事をだいなしにする作業だったに違いありません。私の今までの作業では、飾りをつけるなんて、絶対にやらないのですが、今までにしなかったことをしてみたいと思い、実は心の中ではどうだい!、と思っていました。アナさんから指摘され、少し恥ずかしい気持になりました。

 かごを作る作業に入ると、どうしても作業の方向を変えたいという思いが頭をよぎります。大方、それらは今、手にしている素材と自分には関連の無いことだったり、無理だったりすることかもしれません。ファクター(要因)が多くなると、とってつけたようなかごになってしまいます。それはそれでいいのかもしれませんが、作っている自分の気持はどうかといえば、何かすっきりしない気持が残ります。全体が自然でなくなると思うのです。私は、今眼の前にある状態と自分の意志を天秤にかけ、どちらかといえば自分の意志を優先し、選択してきました。だから、その意志を具現化できる素材を今まで選んできたわけです。でも松葉のかごはちょっと違いました。情況を観察し、よく考えることで自分の作業の方向を見定めるということが必要でした。
素材とコイリングの作業の性質、ぐるぐると螺旋状にすることとか、ステッチの間隔とか、そういう全部のファクターを絞って、自分の作業の方向を選択する、そういう作り方がある、と彼女が教えてくれたのだろうと思います。

作業をしている時、見えているファクターを絞るというのは、とても観察力がいりますし、自分の思いついた良いと思っているアイデアを選択、あるいは捨てる覚悟が必要です。ある意味、自分の意思をそいでいく、そんな感じもします。でも、結果としての作品に自分の意志はちゃんとあるのです。この体験は、素材に対する気持を深めるきっかけになりました。20年もかごの作品を作っていて、分かっているつもりのことでしたが、松葉という素材だったからこそ、よく確認できたのだろうと思います。改めて素材というのは深いものなのだ、という気持になりました。

 アナさんのワークショップの数ヶ月後、東京の飯田橋のスペースパウゼというギャラリーでグループ展をすることになりました。いい機会だから、ワークショップのその後の作品ということもテーマにしてみよう、ということになり、再び松葉を使ってアナさんからもらったメッセージを実践してみようと思いました。
一枚目の写真がそのかごです。関口千鶴子さんにもらったケナフの糸を使い、松葉をコイリングしています。最初のスタートで、ステッチの方法を少し変えてみました。ほんとうは最初のステッチがうまくいかなくなり、細い糸でコイリングするのはたいへんだったので、密に巻く部分を間隔をあけてやってみようと思ったのがきっかけです。途中、忍耐が続かなくなって違うことをやってみたくなりましたが、その度にゆっくり見て結果を予想し、眼の前のファクターが絞れているかどうかを確認しました。その結果がこのかごになりました。
いつものオブジェを作る時は、組の構造の展開というテーマなので、素材は、自分の実験を形にする特性のもの、つまり紙を選んでいます。構造や技術のプロセスの展開に魅力を感じるし、自分に合っていると思っているからです。これはこれで楽しいし、スリルがあります。音楽でいえばドライブ性がある作品(新しいと感じ、知的でいきいきとしていてスピード感があるとか、そういう意味です)を生み出したいと思っているので、このアプローチが合います。
今回の松葉のかごのように、素材と自分との関わりで決めていくというのは、私にとってはむつかしかったのですが、もう一度、自然素材と向き合ってみようと思うきっかけになりました。松葉は記念的な素材となったわけですが、その体験を今度はどんな素材を使ってみるか、ますます作ることが楽しみになってきました。