雨が冷気に包まれると雹になります。
噛みくだくと中から甘い水やウイスキーの出てくるあの砂糖菓子のように、雹の中に雨水が入っているわけではないのに、包という字を使っているのは、包には、外側から包むだけでなくひとまとめにしてしまう意味があるということなのでしょうか。
外からの見かけだけでまとまっているうちは、雹になりきれません。
"ひょう"という読みの響きには、どこかきつそうなところがあって、それが激しく降れば、人を痛い目にあわせたり、生り物に傷をつけたりするのもうなずけます。
全く意味は違いますが、"ひょう"を集めること、失わないことが、いつも気になっていて、何かにつけそのことにしか能動の因として働かない人の集まりも、あちこちにあります。
そこに集められた"ひょう"は、いずれ水に流されてしまう必然の運命をもっています。
それもわかっていながら、ある時期が来ると、"ひょう"を一つずつ持って行って箱に投げ入れることに、義務感を押し付けられているような、よくわからない個別集団行動?が習慣にもなっています。
豹変、瓢箪から駒ということばもあるように、"ひょう"は、どこにあらわれても奇妙なもののように思います。