「にくらしい」という言葉は、「にく」の字で意味ががらりと変わります。
「憎」と「肉」、「憎」の場合には「憎らしい」が一つの言葉になっていますが、「肉らしい」は一つになりきれていない、「肉」と「らしい」との合わせものであるようです。
食べものは、それぞれの味の「それらしさ」がだいじなところです。
素材の味や香りを消したり変えたりしてしまうことを「味付け」と思う人が増えていくと、むやみに味が濃くなっていきます。
臭い肉や、全く味のない肉は、スパイスを利かせて濃い味をつけなければ食べられないでしょう。
食肉は牛、豚、鶏の三種類とも「それらしい」味を持ったものと、そうでなく淡白という表現もあてはまらない、味も素っ気もないものに分類されるようです。
本当は分類ではなく分布と言ったほうが正確なのですが、人間の生活様式が二極化しているように、食肉の味質も普通の味のものと無味のものが、分類と言いたくなるほど二極化してしまっています。
普通の味には美味い不味いが言えても、無味のものにはそれ自体の評価のしようがありません。美味い不味いは、つけた味の評価になってしまいます。
無味の素材の割合は、調味料を味方につけて、どんどん増えます。
人間の味覚が衰え、調味料が発達すれば、食品の素材は販売量だけを維持する方向に傾いていきます。
手近な店では、ラップの外側から目を凝らすしか選別の方法を許されない購買者は、味はそれらしいものには程遠く、形だけがそれらしい肉を買って帰るしかありません。
キッチンでは味のない肉の合わせものになる「味付け」材料が、今日はどんな奴がくるかと並んで待っています。
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