浅草木馬座前でも呼び込みに足を止められる。今日の演目はと確認すると,立川の名は一つもない。最近好んで聞くのは志の輔落語。談春なんかもいいね。立川落語は浅草のどこでやってるかな、と歩きながらスマホで調べようと思うけど,次々いろいろな誘惑が飛び込み,調べきらないうちに関心は次へと移ろいでいく。
そして帰宅すると、談志師匠死去のニュースが。もっともお亡くなりになられたのは数日前なので、虫の知らせってわけじゃないけど、ちょっとドキッ。
また昨晩の爆問ではこの虫の知らせについて解明していた。夢枕に立つおばあちゃんにイヤな予感がしたら、その1時間後に亡くなったという偶然。こういうスピリチュアル体験はおどろおどろしく語られたりするけど、この手の一致は日本で1日に12人(件)はある(数字は不確かだけど)と確率で説明していた。また不一致には目もくれず,一致にのみ意義を見いだそうとするのが人間だとの話。なるほど。
大学受験のとき,前の晩になにげに本棚から抜き取ってなにげに開いたページの文章がそのまま出ていた時の驚き。ずーっと自分には何かあると思っていたけど,意義付けするほどのことではないわけね。じゃあ,高校時代生物のテストを受けている自分を上から見ている夢を見た翌日、上から覗いたのと同じテストペーパーが配られたっていうのは、どう?これも単なる一致というわけかな。その後この話が教室で広がり,次のテスト当ててくれと言われたけど,その後こんな偶然は起きなかったけどね。
何かに夢中になっている時は,それだけアンテナが一杯伸びているから、偶然の一致になりそうな重要情報をキャッチしやすくなっていると理解した方が,意義付けしやすい。しかし夢の事例はどうかな?
中学受験の子ども達にこう言われることがある。「やった問題でませんでしたよ。」しかしよく聞くと予想問題と数字が違うとか,公園が学校だったとか、ヨシオ君がサトシ君だったという違いじゃないの。こういうのはやった問題が出たって言うんでしょ、オイオイ。この場合は,確率でも偶然でもなく過去問研究の成果なんだけど、小学生には抽象化が難しいから、成果を生かせないのです。だから口酸っぱくなるくらい、問題の具体化抽象化を繰り返さないといけないのです。
ワイドショーで談志師匠が取り上げられ知ったのは、落語協会脱退しているっていうこと。その関係から木馬座に出演はしないっていうこと。いかに知らないことが多いかと身が縮む思い。見えるものも見ずに通り過ぎているに違いない、と思う瞬間。
そして帰宅すると、談志師匠死去のニュースが。もっともお亡くなりになられたのは数日前なので、虫の知らせってわけじゃないけど、ちょっとドキッ。
また昨晩の爆問ではこの虫の知らせについて解明していた。夢枕に立つおばあちゃんにイヤな予感がしたら、その1時間後に亡くなったという偶然。こういうスピリチュアル体験はおどろおどろしく語られたりするけど、この手の一致は日本で1日に12人(件)はある(数字は不確かだけど)と確率で説明していた。また不一致には目もくれず,一致にのみ意義を見いだそうとするのが人間だとの話。なるほど。
大学受験のとき,前の晩になにげに本棚から抜き取ってなにげに開いたページの文章がそのまま出ていた時の驚き。ずーっと自分には何かあると思っていたけど,意義付けするほどのことではないわけね。じゃあ,高校時代生物のテストを受けている自分を上から見ている夢を見た翌日、上から覗いたのと同じテストペーパーが配られたっていうのは、どう?これも単なる一致というわけかな。その後この話が教室で広がり,次のテスト当ててくれと言われたけど,その後こんな偶然は起きなかったけどね。
何かに夢中になっている時は,それだけアンテナが一杯伸びているから、偶然の一致になりそうな重要情報をキャッチしやすくなっていると理解した方が,意義付けしやすい。しかし夢の事例はどうかな?
中学受験の子ども達にこう言われることがある。「やった問題でませんでしたよ。」しかしよく聞くと予想問題と数字が違うとか,公園が学校だったとか、ヨシオ君がサトシ君だったという違いじゃないの。こういうのはやった問題が出たって言うんでしょ、オイオイ。この場合は,確率でも偶然でもなく過去問研究の成果なんだけど、小学生には抽象化が難しいから、成果を生かせないのです。だから口酸っぱくなるくらい、問題の具体化抽象化を繰り返さないといけないのです。
ワイドショーで談志師匠が取り上げられ知ったのは、落語協会脱退しているっていうこと。その関係から木馬座に出演はしないっていうこと。いかに知らないことが多いかと身が縮む思い。見えるものも見ずに通り過ぎているに違いない、と思う瞬間。