苦しみの実りのごとき柿ありて切なしわれの届かぬ高さ
日本には柿が1000種類以上存在するが、そのうち完全な甘柿は17種類しかなく、他の殆どが渋柿だという。甲州百目は不完全渋柿に分類される。渋柿は樹の上で熟し切るまで放っておくと「熟柿(じゅくし)」となって渋が抜けるが、大抵の場合は渋抜きしたり干し柿にしたりして食卓に上る。
掲出歌は〈『仰臥漫録』を読みながら〉と副題のついた連作のうちの一首である。『仰臥漫録』は、正岡子規が死の直前の一年間に綴った病牀日録。三枝が詠んだ柿は実景として目の前にあったようだ。おそらくは渋柿。簡単には手の届かぬ高さにある柿が色づいている様を、三枝は「苦しみの実り」と表した。
「苦しみの実り」という言葉は、実は聖書に登場する。イザヤ書53章11節の「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」(新共同訳)がそれである。この聖句にある「彼」はイエスを予言したものと言われている。キリストは人々の罪を贖うために十字架に架けられて殺されたが、彼はその苦しみの実りを見て満足したというのだ。
昂之氏の弟の三枝浩樹氏はクリスチャンの歌人として知られている。だから、兄の昂之氏も折々に聖書の言葉に触れる機会があった筈だ。その予備知識の上に「苦しみの実り」という言葉を選定したのではないか。
言い添えると、「苦しみの実り」は新共同訳に独特な表現である。口語訳聖書では「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」となっており、新改訳では「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」である。聖書の英訳の主立ったものは、口語訳や新改訳に近い叙述がなされている。その中でNew American Standard Bibleの訳は新共同訳に幾分ニュアンスが似ているが、それでも「As a result of the anguish」(苦しみの結果として)となっている。
閑話休題。歌人の魚村晋太郎は、掲出歌の「苦しみの実り」は苦しみを代償として得られた成果とは違うと推論し、「ひとの苦しみ。その苦しみ自体がきわめられて、あかるく灯っている」のだと捉えた。『仰臥漫録』には日ごと食したものもメモされている。子規の最晩年の食卓を彩った柿に想いを馳せつつこの歌が詠まれたのだとすれば、魚村の読みは正鵠を射ているだろう。
掌のなかに宇宙はありと思うまで甲州百目肉透きとおる
苦しみの実り——、新共同訳の中に図らずも実現したこの訳語は、イエスへ信を置くのをためらう多くの日本人にとっても、心の襞に入り込んでくる言葉なのかもしれない。
三枝昻之『甲州百目』
日本には柿が1000種類以上存在するが、そのうち完全な甘柿は17種類しかなく、他の殆どが渋柿だという。甲州百目は不完全渋柿に分類される。渋柿は樹の上で熟し切るまで放っておくと「熟柿(じゅくし)」となって渋が抜けるが、大抵の場合は渋抜きしたり干し柿にしたりして食卓に上る。
掲出歌は〈『仰臥漫録』を読みながら〉と副題のついた連作のうちの一首である。『仰臥漫録』は、正岡子規が死の直前の一年間に綴った病牀日録。三枝が詠んだ柿は実景として目の前にあったようだ。おそらくは渋柿。簡単には手の届かぬ高さにある柿が色づいている様を、三枝は「苦しみの実り」と表した。
「苦しみの実り」という言葉は、実は聖書に登場する。イザヤ書53章11節の「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」(新共同訳)がそれである。この聖句にある「彼」はイエスを予言したものと言われている。キリストは人々の罪を贖うために十字架に架けられて殺されたが、彼はその苦しみの実りを見て満足したというのだ。
昂之氏の弟の三枝浩樹氏はクリスチャンの歌人として知られている。だから、兄の昂之氏も折々に聖書の言葉に触れる機会があった筈だ。その予備知識の上に「苦しみの実り」という言葉を選定したのではないか。
言い添えると、「苦しみの実り」は新共同訳に独特な表現である。口語訳聖書では「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」となっており、新改訳では「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」である。聖書の英訳の主立ったものは、口語訳や新改訳に近い叙述がなされている。その中でNew American Standard Bibleの訳は新共同訳に幾分ニュアンスが似ているが、それでも「As a result of the anguish」(苦しみの結果として)となっている。
閑話休題。歌人の魚村晋太郎は、掲出歌の「苦しみの実り」は苦しみを代償として得られた成果とは違うと推論し、「ひとの苦しみ。その苦しみ自体がきわめられて、あかるく灯っている」のだと捉えた。『仰臥漫録』には日ごと食したものもメモされている。子規の最晩年の食卓を彩った柿に想いを馳せつつこの歌が詠まれたのだとすれば、魚村の読みは正鵠を射ているだろう。
掌のなかに宇宙はありと思うまで甲州百目肉透きとおる
苦しみの実り——、新共同訳の中に図らずも実現したこの訳語は、イエスへ信を置くのをためらう多くの日本人にとっても、心の襞に入り込んでくる言葉なのかもしれない。