9:50頃に教会に到着。こども園父母の会の礼拝に参加した。礼拝終了後、地域で配食に尽力してる方よりお話を伺い、ウチの牧師夫妻との奇遇と言わざるを得ない再会の話を聞いた。私はつい「まさに詩篇の『私の時は、御手の中にあります。』(新改訳第三版 詩篇31:15)ですね」と述べた。(←この手のコメントが偉そうに聞こえてしまうと知ったのは、つい最近である。母教会では、信徒同士でも「◯◯(イエスの弟子や預言者の名前)みた〜い!」とか、お世辞でなくて言うことが結構あったが、どうもそれって教団の教会では稀なことのようである。)11時頃から、こども園の年長児・年中児が来て一緒に礼拝を守った。改めて、ウチの牧師先生がこども達に話すのがいかに上手か感じた。また、メッセージの後の「主の祈り」は文語体で子どもには難しい文言も多いと思うのだが、「悪より救い出したまえ」のところは、後半の中ではちゃんと唱えられてる子が多く、声のボリュームが上がってるのに私は気づいた。
子ども達が園に帰って行った後、持参の昼食(私はパン)を食べつつ、何となく「こひつじの会」の打ち合わせが始まった。私は、今朝ノートの切れ端に書いた2025年度計画案のメモを会の取り纏め長老さんに渡した。2024年度をざっくりと振り返って意見を出した。長老会で難局にぶち当たってるせいか、会の長老さんは悩み悩み次年度の構想について一点一点確かめるように問いかけ等をされてた。ある計画をした場合の参加人数の把握を牧師夫人がかなり心配されていたので、私はしどろもどろになりつつも列王記下4章1節〜7節のエピソード(エリシャがお金の無いやもめに空の器を近所から沢山集めて油を注ぐよう命じた話)を話し、<列王記下4章6節>の[器がどれもいっぱいになると、彼女は、「もっと器を持っておいで」と子供に言ったが、「器はもうない」と子供が答えた。油は止まった。]に言及し、神様は器が揃ってないところに油をドバドバ注いだりはしない、と語った。引退牧師のご夫人の方がそれを「神様は備えてくださる」と信仰深く言い換えてくださった。私は「チラシを直接手渡せる方が限られてると雲を掴むような感じがするのは事実だけど、これまでも見栄えのするチラシを段取り良く入稿→納品→配布開始をした時はそれなりに集客したことを指摘し、押せ押せにならずに準備すれば神様が祝福してくださると思うと主張した。何となく次年度の方向性も見えてきて、14時過ぎにお開き。真っ直ぐに帰った後、鎮静剤3mgを飲んだ。仕切り癖は多少出ちゃったけど、独擅場じゃなかったから良かったのかなぁ?主の導きに感謝。