逝く秋にきちじやう草の咲きゐたり老いたるマリアいかに過しし
黒田はクリスチャンホームに生まれ幼児洗礼を受けた。長年、女子受刑者の短歌指導に携わり、藍綬褒章や瑞宝双光章を受章している。現時点で最新の歌集『橋』は、80歳を過ぎて編まれた。歌集中には自然詠が多く、穏やかな詠み口が特徴である。それゆえか、時々に挟まれる受刑者に目を向けた歌や信仰に基づいて詠まれた歌は、一層鮮やかに印象に残る。
かすかなる喜びならん死刑囚茶を点つる時間待ちゐるといふ
香に遠き日々の受刑者木犀の花咲く頃を最も喜ぶ
上に挙げた二首は、受刑者のささやかな喜びについて詠まれたものである。一首目は、死の執行を待つ死刑囚が、心を無にして一服の茶を味わう静かな時間を楽しみにしていることが描かれている。また二首目は、寂寞とした刑務所にいても風に運ばれて漂ってくる木犀の香りに浮き立つ受刑者の様子に着目している。それらの喜びは「かすか」でありながら、確かなものであるだろう。とは言え、受刑者の喜びを掬い取った歌の底には、刑務所の生活の厳しさ・やり切れなさも透けて見えてくるようで、胸を打つ。
自分のできること、為すべきことを淡々と果たしつつ老境を迎えた黒田の目に、ある時キチジョウソウが映った。そして、マリアの晩年に思いを馳せたという。聖書の中には何人かのマリアが登場するが、掲出歌の「マリア」はおそらくイエスの母マリアであろう。謂れなき罪状を着せられ十字架で処刑されたイエスの昇天後も生き残り、余生というにはまだまだ長い人生を送ったであろうマリア。受刑者と共に歩み、幾人の死を見送って、折々に彼らを偲んで過ごす黒田——。イエスの死後、初代教会の弟子達に囲まれて日々を過ごしつつも、ふとした時に頭をもたげてくるマリアの憂いを思うことは、黒田にとって救いであったかもしれない。
黒田淑子『橋』
黒田はクリスチャンホームに生まれ幼児洗礼を受けた。長年、女子受刑者の短歌指導に携わり、藍綬褒章や瑞宝双光章を受章している。現時点で最新の歌集『橋』は、80歳を過ぎて編まれた。歌集中には自然詠が多く、穏やかな詠み口が特徴である。それゆえか、時々に挟まれる受刑者に目を向けた歌や信仰に基づいて詠まれた歌は、一層鮮やかに印象に残る。
かすかなる喜びならん死刑囚茶を点つる時間待ちゐるといふ
香に遠き日々の受刑者木犀の花咲く頃を最も喜ぶ
上に挙げた二首は、受刑者のささやかな喜びについて詠まれたものである。一首目は、死の執行を待つ死刑囚が、心を無にして一服の茶を味わう静かな時間を楽しみにしていることが描かれている。また二首目は、寂寞とした刑務所にいても風に運ばれて漂ってくる木犀の香りに浮き立つ受刑者の様子に着目している。それらの喜びは「かすか」でありながら、確かなものであるだろう。とは言え、受刑者の喜びを掬い取った歌の底には、刑務所の生活の厳しさ・やり切れなさも透けて見えてくるようで、胸を打つ。
自分のできること、為すべきことを淡々と果たしつつ老境を迎えた黒田の目に、ある時キチジョウソウが映った。そして、マリアの晩年に思いを馳せたという。聖書の中には何人かのマリアが登場するが、掲出歌の「マリア」はおそらくイエスの母マリアであろう。謂れなき罪状を着せられ十字架で処刑されたイエスの昇天後も生き残り、余生というにはまだまだ長い人生を送ったであろうマリア。受刑者と共に歩み、幾人の死を見送って、折々に彼らを偲んで過ごす黒田——。イエスの死後、初代教会の弟子達に囲まれて日々を過ごしつつも、ふとした時に頭をもたげてくるマリアの憂いを思うことは、黒田にとって救いであったかもしれない。
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