水の門

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一首鑑賞(48):岡野大嗣「消しゴムも筆記用具であることを」

2017年09月24日 02時58分17秒 | 一首鑑賞
消しゴムも筆記用具であることを希望と呼んではおかしいですか
岡野大嗣『サイレンと犀』


 一見ちょっと大仰な言いぶりでユーモラスな雰囲気もあるが、その実とても真摯な叫びが込められている。
 消しゴムはそれ自体、書く道具ではない。だが、鉛筆やシャープペンシルで書く際には欠かせない筆記用具だ。もしこれが修正液だったら、下の句の「希望と呼んではおかしいですか」に託された含意が半減してしまうに違いない。修正液は、間違いの上から塗り潰すだけで、間違った箇所そのものを消し去るわけではないからだ。
 この歌を読んで、イザヤ書43章25節がパッと思い浮かんだ。

  わたしこそ、わたし自身のために あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。(口語訳)

 神様は、人の罪を消し去ると言う。それも、跡形の無いかのように。この大きな愛は、コリントの信徒への手紙 一 13章5節の英訳(NIV)で〈…it keeps no record of wrongs.〉(愛は悪を記憶に留めない)と書かれている愛そのものだろう。
 私達が自己中心に振る舞って人に迷惑をかければ、たとえ反省し悔い改めたにしても、人間関係に何らかのしこりを残す。この点で、神様と人間は全く異なる。
 生きることは、毎日毎日を何かに綴っていくようなものである。その歩みにおいては、大きな過ちをおかすこともある。神様は私の咎を消して下さると、御言葉は語る。あたかも消しゴムで綺麗に拭い去って下さるかのように——。
 復活の主イエスは、三度イエスを否認したペトロに「わたしの羊を養いなさい」と繰り返す(ヨハネによる福音書21章12〜19節)。このイエスのペトロへの呼び掛けについて、服部修牧師は「失敗した自分にこだわるのではなく、外に向かって愛するよう招く言葉」と記している(『信徒の友』2017年3月号)。
 過日、私も大きな過ちをおかした。礼拝堂の席に座っているのも居た堪れない心地が長く続いた。そんな私に主が語りかけて下さった御言葉は、ペトロの手紙 一 4章8節の「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」だった。

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