水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

一首鑑賞(40):葛原妙子「はつかなるかなや月光を賜ぶ」

2017年01月04日 11時11分54秒 | 一首鑑賞
おほきなるみ手あらはれてわれの手にはつかなるかなや月光を賜ぶ
葛原妙子『鷹の井戸』


 葛原妙子は周りは皆クリスチャンという家系に育ち、自身若い時よりイエスに対して並ならぬ関心を抱きつつも、洗礼を受けたのは死の五ヶ月前の78歳であった。葛原は、 日常のうちに見てはならぬものを視、聞いてはならぬものを聴きだし、自在に詠む歌風から、「幻視の女王」と歌人の塚本邦雄に称された。
 葛原の生涯の歌を一つ一つ追っていくと、短歌を詠み始めてさほど経っていない頃から少しずつ視力の弱まっていったことが見て取れる。掲出歌の収められた連作の序盤には次の歌があり、目の衰えた葛原にとって既に亡き大作曲家の存在が慕わしく感じられていたことが分かる。

  郭公の啼く聲きこえ 晩年のヘンデル盲目バッハ盲目

 また、「天使」のモチーフは葛原の初期の歌から見られたものであるが、歌歴の後半になるとその頻度は増す。さらに特筆すべきは、盲目や弱視の天使を詠み込んだ歌が散見されるようになることである。

  石塊を抉り刻める天使像直陽(ちよくやう)のもとまなこをうしなふ『朱靈』
  雙眼のふかく盲ひたる石(せき)天使劃然(かくぜん)と移る西日に立てり『朱靈』
  めがねかけし天使天上に翔びゐたり月のごときちちぶさみえて『をがたま』

 視力を失いゆく葛原にとって、人を愛しているという神の遣いを自らの境遇に引き寄せて想像を膨らませたのはごく自然なことだったに違いない。
 その上で掲出歌を改めて見てみよう。「おほきなるみ手」は、神ご自身の御手もしくは天使の手ということであろう。その御手が葛原に微かな月光を零すのだという。闇に包まれた葛原の視野に淡い月光が注ぐように感じられることは、どれほどの慰めであろうか。
 あるいは葛原の脳裏には、次の聖句が浮かんでいたのかもしれない。〈イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 何か見えるか」とお尋ねになった。 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。〉(マルコによる福音書8章22〜25節)この盲人は、イエスに触れられてすぐに病が癒えたわけではなかった。再び触れていただく必要があったのである。
 『鷹の井戸』は、葛原自身が編集上梓した最後の歌集である。長く目を病んだ葛原の晩年に射してきた光——。それは、たとえ仄かなものであったとしても、主ご自身の御手に包まれるような思いがしたのではないか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一首鑑賞(39):三枝浩樹 “「... | トップ | 総合病院の会計みたい。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿