水の門

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一首鑑賞(59):竹内亮「生け垣の道を通って許していった」

2018年08月04日 10時13分21秒 | 一首鑑賞
百日紅の白い花咲く生け垣の道を通って許していった
竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』


 何気ない歌だが、こういうことあるなぁと頷ける。掲出歌は屹立性が高く、この一首を含む連作を見渡しても、誰の何を許していったのかを示唆する情報は見当たらない。そのことが歌の深度を増すのに一役買っている。
 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように」(マタイによる福音書6章12節)。社会人一年目の頃、私はこの主の祈りの中の有名な一節を繰り返し心の内に叫んだ。社会で揉まれて何かあるごとに、親兄弟を赦せず癒えていない憤怒が思い出されて再燃してしまい、途方に暮れたからだ。古傷が疼くたびにこの御言葉に必死に食らいついていく日々だったが、ある時ふと肉親への憎悪が薄らいでいることに気づいた。主への叫びは聞かれていた。私が主の祈りに取り縋るたびに主イエスも共に祈ってくださっていたのだと解り、癒されるとはこういうことなのかと身をもって感じた。
 竹内の歌の下句「道を通って許していった」からも、許すのにいくばくかの時間を要した様が窺える。歩みを進めつつ、少しずつ解き放たれていったという様が。
 しかし、人間は罪深い。一つの隔てが取り除かれても、赦していくことは一生続けるべき業(わざ)だ。昨夏ご迷惑をかけたことを引きずる私に「何かあったっけね。気にしなくていいんだよ」と某教会員さんは仰った。後日の聖書通読で開いたイザヤ書43章で、私はハッとした。

  先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
  見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
  あなたがたは、それを知らないのか。
  確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
(新改訳イザヤ書43章18〜19節)

 神様も人も赦して下さっていたのに、私はいつまでも自分を赦さず拘っていた。私も自分自身を赦さなくては……。

 掲出歌をもう一度よく見る。竹内が許していったのは誰なのか、言明されていない。自分に許せないことを為した誰かとも取れるし、自分でも許せないようなことを人に対して為してしまった自分とも取れる。どちらかの解釈を選びどちらかを棄却することは、おそらく適切でない。許されながら、許していく——背景にはひっそりと百日紅の白い花々があった。何と美しい光景だろうか。

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2 コメント

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こだわり (さとうまさこ)
2018-08-04 13:19:42
素敵な記事です。
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ちょうど (とど)
2018-08-04 16:32:17
★さとうまさこ様、

ありがとうございます。
ちょうど二年前に読了した歌集でした。
この一首はその当時からとても心に残っていましたが、なかなか書けませんでした。
聖書通読と、教会の方々との交わりによって、ようやく鑑賞を書き上げられました。感謝です。
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