「おクニのために死んでこい」「おクニはどちらですか」「正月はクニに帰る」「クニ定忠治」…。
各種のクニがある。
大阪にいるとき、「おくにはどちらですか。」と聞かれたら「えっと、北海道です。」と(ちょっと自慢げに)答える。外国で聞かれたら「日本です。」と(微妙に構える心で)言う。
両方に共通する「クニ」の概念は、自分が属しているところ、ということか。
日本から外に出たとたんに、(自分は日本人なのだ)と構えなければならない。「日本人」であることを要求されるからだ。自分ではコスモポリタンぽい人間だと思っているので、これにはかなり違和感を覚える。
2002~03年までアメリカのシアトルにいたが、その時、他のアジア人、セントラルアメリカや南アメリカ、東欧などから来た学生達は「いいねえ、日本は。金持ちで。」「先進国だよね。」「ハイテクだよね。」と、おしなべて羨ましそうな口ぶりだった。(内情を知らない外国から日本はそう見えるのかあ)とその褒められ方がこそばゆくて、自分が褒められた訳でもないのに「いや、たいしたことないから~。」などと、ふざけて調子に乗ったりしていた。
ここ南昌で、日本に関する話をするときは自然と慎重になる。授業中、私はよくいらんことを言うのだが、こと中国と日本の比較などに話題が及ぶと、駐中日本大使も感心する(であろう)ほど丁寧に話をする。
例えば、
学生「先生、中国と違って、日本には世界中のいろいろな食べ物があるんですね。」
私「そうですね。中国は中華料理だけでとてもたくさんおいしい料理がありますね。
日本の伝統料理は、う~ん、野菜の煮物かなあ。外国の料理が日本に入ってきて、
日本の食事はとてもおいしく、楽しくなりました。」
とか。学生は中国の料理がいろいろあって、おいしいと言われただけでニコニコしている。もちろんこれは嘘じゃない。事実なんだけど、私は、日本を褒められたとき、ここまで手放しに喜ぶ気になれない。
ここ中国の学生達は、幼い頃から中国人としてのプライド、誇りを常に教えられている。自分が属するところが貧弱で最低だとか思うより、この方が堂々としていられる。いいことだ。(自国への批判を受けつけない、となると行き過ぎだが…。)ありがたいことに、私の勤務する大学の学生の多くは、冷静に世界の中の中国を見定めようとしている。こういうのを「教養ある」態度と言うのだろう。
私は戦後民主主義教育を受けて育ってきた。「我々日本人は…」「日本民族は…」という括りで訓辞をされた記憶は、う~ん、あるのかも知れないけど覚えていない。それより「自分はどう思うのか」という方向で常に導かれてきた。戦後日本の教育が、一部の人たちから「自虐史観に基づく非国民的なもの」などと言われるが、私はまず個人を一人前にしっかりさせるという戦後教育を受けられて、取りあえずラッキーだと思う。
また知らないうちにどこかの国に連れて行かれて、戦わされたりしないように、一人ずつ自分で踏ん張る判断力をキープしたいものだ。
ま、私は「おバアさん」ですから兵役に取られる心配はないですけどね。ここ、中国に来て、「先生のようなオバアさん云々」(おそらく褒めているつもり)と語られるのにも“少~しずつ”だけど、慣れてきましたヨ。
ほんとに、ふと回りを見たら、同年齢の女性は小学生や中学生の孫がいる人が当たり前。自分の子どもが子どもを産まないものだから、日本では「おばあさん」と呼ばれたことがなかっただけなのだ…。
各種のクニがある。
大阪にいるとき、「おくにはどちらですか。」と聞かれたら「えっと、北海道です。」と(ちょっと自慢げに)答える。外国で聞かれたら「日本です。」と(微妙に構える心で)言う。
両方に共通する「クニ」の概念は、自分が属しているところ、ということか。
日本から外に出たとたんに、(自分は日本人なのだ)と構えなければならない。「日本人」であることを要求されるからだ。自分ではコスモポリタンぽい人間だと思っているので、これにはかなり違和感を覚える。
2002~03年までアメリカのシアトルにいたが、その時、他のアジア人、セントラルアメリカや南アメリカ、東欧などから来た学生達は「いいねえ、日本は。金持ちで。」「先進国だよね。」「ハイテクだよね。」と、おしなべて羨ましそうな口ぶりだった。(内情を知らない外国から日本はそう見えるのかあ)とその褒められ方がこそばゆくて、自分が褒められた訳でもないのに「いや、たいしたことないから~。」などと、ふざけて調子に乗ったりしていた。
ここ南昌で、日本に関する話をするときは自然と慎重になる。授業中、私はよくいらんことを言うのだが、こと中国と日本の比較などに話題が及ぶと、駐中日本大使も感心する(であろう)ほど丁寧に話をする。
例えば、
学生「先生、中国と違って、日本には世界中のいろいろな食べ物があるんですね。」
私「そうですね。中国は中華料理だけでとてもたくさんおいしい料理がありますね。
日本の伝統料理は、う~ん、野菜の煮物かなあ。外国の料理が日本に入ってきて、
日本の食事はとてもおいしく、楽しくなりました。」
とか。学生は中国の料理がいろいろあって、おいしいと言われただけでニコニコしている。もちろんこれは嘘じゃない。事実なんだけど、私は、日本を褒められたとき、ここまで手放しに喜ぶ気になれない。
ここ中国の学生達は、幼い頃から中国人としてのプライド、誇りを常に教えられている。自分が属するところが貧弱で最低だとか思うより、この方が堂々としていられる。いいことだ。(自国への批判を受けつけない、となると行き過ぎだが…。)ありがたいことに、私の勤務する大学の学生の多くは、冷静に世界の中の中国を見定めようとしている。こういうのを「教養ある」態度と言うのだろう。
私は戦後民主主義教育を受けて育ってきた。「我々日本人は…」「日本民族は…」という括りで訓辞をされた記憶は、う~ん、あるのかも知れないけど覚えていない。それより「自分はどう思うのか」という方向で常に導かれてきた。戦後日本の教育が、一部の人たちから「自虐史観に基づく非国民的なもの」などと言われるが、私はまず個人を一人前にしっかりさせるという戦後教育を受けられて、取りあえずラッキーだと思う。
また知らないうちにどこかの国に連れて行かれて、戦わされたりしないように、一人ずつ自分で踏ん張る判断力をキープしたいものだ。
ま、私は「おバアさん」ですから兵役に取られる心配はないですけどね。ここ、中国に来て、「先生のようなオバアさん云々」(おそらく褒めているつもり)と語られるのにも“少~しずつ”だけど、慣れてきましたヨ。

ほんとに、ふと回りを見たら、同年齢の女性は小学生や中学生の孫がいる人が当たり前。自分の子どもが子どもを産まないものだから、日本では「おばあさん」と呼ばれたことがなかっただけなのだ…。