今月4日間、劉思婷さん(財大4年生)の故郷の農村を訪れた時、思婷さんとお母さんの間にはかなりキビシイ意見の食い違いがあったと、後で聞いた。
お母さんは思婷さんから電話で
「日本人の先生が家に遊びに来るよ。」
と聞いて、春節にはまだ早い1月4日には蘇州の出稼ぎ現場から家に戻り、昨年の春節以来誰も住んでいなかった家の大掃除をしたり、娘の老師を出迎えるため、いろいろなものを買って準備をしてくださっていた。
毎日、朝から晩まで母娘だけでは有り得ないご馳走でもてなされ、私は恐縮しっぱなしだった。
元々私は3泊4日もお邪魔する気はなかったが、思婷さんが
「隣村で11日に市場が開かれるから、それを見てはどうか。」
と言ってくれたので、即座にその言葉に甘えて、滞在予定を延ばしたという経緯があった。
しかし、思婷さんのお母さんは、その考えに真っ向から反対した。
私が2階の部屋に引き揚げた後、親子は寝るまで言い合いをしていたそうだ。
お母さんは、自分の村の人々には事前に、娘の大学の日本人老師が村を訪問することを周知徹底宣伝し、村人たちは私に対して実に好意的な雰囲気で出迎えてくれた。思婷さんと村を散歩すれば出会う人たちがみんな、
「婷婷の先生かい。日本から来たのかい。」
とニコニコするのだ。私はひたすら「ニーハオ」「請多多関照」とか、知っている言葉を並べニコニコ返しをした。
私が2日目の夕食にカレーライスを作ると、早速近所に配りまくってくれたのもお母さんだ。
カレーの味は非常に不評だったが(「漢方薬の味がする」という感想が圧倒的)、日本人が日本の家庭料理を作ったことは、好感を持ってくれたようだった。お母さんの親友の一人は、隣の若者と一緒にやって来て、私たちが晩御飯を食べているのをジッと見ながら、
「テレビドラマの日本人と全然違う。」
と言った。この言葉は嬉しかった。この村を初めて訪れた日本人として(ていうか、あらゆる外国人としても初めてだけど)、今もなおテレビのどこかのチャンネルで毎日放映されている日中戦争時の日本軍人の残虐非道な姿と、現実の普通の日本人は切り離してもらいたい、と私は切に願っていた。この村の人々が慎み深く、日本の戦争犯罪について詰め寄りもせず、本当にフレンドリーに接してくださったことで、私は(ああ、普通の訪問ができて嬉しいな)とただ単純に喜んでいた。
それなのに、なぜお母さんは隣村の市場見学にそんなに反対したのか。
それは、お母さんの力が隣村までは及ばないからだった。始めお母さんは思婷さんに、
「そんな遠いところまで行くのは、たいへんだから。」
「そんな市場に行ったって、ろくなものはない。」
とかいろいろ言っていたが、とうとう最後に
「もし、老師が日本人だと分かって、人々が何かしたら、それはもう、先生とお前という問題ではないんだ。日本と中国の問題なんだよ。」
と言いだした。それがお母さんの心配だったのだ。
当日、頑として出かけるという娘と私に(私はそんな議論があったことも知らず、浮かれていた)、
「春節用に買いたい物があるので。」
と言ってお母さんも行くことになった。
真の理由が、今なら分かる。
お母さんが、その日、自分のお母さん(思婷さんのお祖母さん)の病院付き添いという予定を変えてまで、隣村の市場に行ったのは、私と娘を守るためだったのだ。結果的には何も異変は起こらなかった。ただ私がやたら写真を撮るので、市場の人々は「なんや、何で写真撮んねん?」と照れたり、質問したりしていたが、それだけだった。
しかし、お母さんの心配は、うっかり屋で忘れっぽい私に中国と日本の間に横たわる深い溝をまざまざと思い出させてくれたのだった。
お母さんは思婷さんから電話で
「日本人の先生が家に遊びに来るよ。」
と聞いて、春節にはまだ早い1月4日には蘇州の出稼ぎ現場から家に戻り、昨年の春節以来誰も住んでいなかった家の大掃除をしたり、娘の老師を出迎えるため、いろいろなものを買って準備をしてくださっていた。
毎日、朝から晩まで母娘だけでは有り得ないご馳走でもてなされ、私は恐縮しっぱなしだった。
元々私は3泊4日もお邪魔する気はなかったが、思婷さんが
「隣村で11日に市場が開かれるから、それを見てはどうか。」
と言ってくれたので、即座にその言葉に甘えて、滞在予定を延ばしたという経緯があった。
しかし、思婷さんのお母さんは、その考えに真っ向から反対した。
私が2階の部屋に引き揚げた後、親子は寝るまで言い合いをしていたそうだ。
お母さんは、自分の村の人々には事前に、娘の大学の日本人老師が村を訪問することを周知徹底宣伝し、村人たちは私に対して実に好意的な雰囲気で出迎えてくれた。思婷さんと村を散歩すれば出会う人たちがみんな、
「婷婷の先生かい。日本から来たのかい。」
とニコニコするのだ。私はひたすら「ニーハオ」「請多多関照」とか、知っている言葉を並べニコニコ返しをした。
私が2日目の夕食にカレーライスを作ると、早速近所に配りまくってくれたのもお母さんだ。
カレーの味は非常に不評だったが(「漢方薬の味がする」という感想が圧倒的)、日本人が日本の家庭料理を作ったことは、好感を持ってくれたようだった。お母さんの親友の一人は、隣の若者と一緒にやって来て、私たちが晩御飯を食べているのをジッと見ながら、
「テレビドラマの日本人と全然違う。」
と言った。この言葉は嬉しかった。この村を初めて訪れた日本人として(ていうか、あらゆる外国人としても初めてだけど)、今もなおテレビのどこかのチャンネルで毎日放映されている日中戦争時の日本軍人の残虐非道な姿と、現実の普通の日本人は切り離してもらいたい、と私は切に願っていた。この村の人々が慎み深く、日本の戦争犯罪について詰め寄りもせず、本当にフレンドリーに接してくださったことで、私は(ああ、普通の訪問ができて嬉しいな)とただ単純に喜んでいた。
それなのに、なぜお母さんは隣村の市場見学にそんなに反対したのか。
それは、お母さんの力が隣村までは及ばないからだった。始めお母さんは思婷さんに、
「そんな遠いところまで行くのは、たいへんだから。」
「そんな市場に行ったって、ろくなものはない。」
とかいろいろ言っていたが、とうとう最後に
「もし、老師が日本人だと分かって、人々が何かしたら、それはもう、先生とお前という問題ではないんだ。日本と中国の問題なんだよ。」
と言いだした。それがお母さんの心配だったのだ。
当日、頑として出かけるという娘と私に(私はそんな議論があったことも知らず、浮かれていた)、
「春節用に買いたい物があるので。」
と言ってお母さんも行くことになった。
真の理由が、今なら分かる。
お母さんが、その日、自分のお母さん(思婷さんのお祖母さん)の病院付き添いという予定を変えてまで、隣村の市場に行ったのは、私と娘を守るためだったのだ。結果的には何も異変は起こらなかった。ただ私がやたら写真を撮るので、市場の人々は「なんや、何で写真撮んねん?」と照れたり、質問したりしていたが、それだけだった。
しかし、お母さんの心配は、うっかり屋で忘れっぽい私に中国と日本の間に横たわる深い溝をまざまざと思い出させてくれたのだった。