昨日(1月28日)、淀川区十三のロマネハウス2階にある『帰国者の友』で「何はともあれ集まろうパーティー」をした。忙しくて一瞬だけ顔を見せてすぐ立ち去った人も含めると、20人ぐらいが参加していつも通りの和やかな会になった。仕事中にわざわざ電話をくれた人もいた。
今回は李達夫さんが、
「昨年夏以来ずっとお世話になってきた『李達夫応援団』のみんなに是非感謝の言葉を言いたい。」
というので、急遽催すことになった経緯がある。しかし、応援の中心を担ってくれていたフミちゃんや田村さん、いの一番にカンパしてくれたユミコさんは、現在ご家族が入院中だったり、家庭内で要介護だったりして、正直、声をかけるのも気兼ねする状態だし、他のメンバーも介護や仕事でかなりくたびれていた。私は中国でただハラハラしていただけなのだが、みんなの辛さが伝わってきて、自分までちょっと元気を失っていた。
そういうわけで、私は応援してくれたみんなに丁寧に声かけもせず(他のメンバーは違うかも)、当日を迎えたのだが、やっぱりやってよかった。これで一区切りついた、と思った。
李さんは、亡き娘の夫から送られた茅苔酒(MOUTAI)という貴州の、というより中国の『国酒』を持参し、さらに途中で、段ボール一箱分のビール、ミカンも一箱、お菓子もてんこ盛り買ってきた。彼の「帰国者の友」への想いが感じられ、みんな、「こんなにお金使って…。」と胸が詰まり絶句した。
2003年、60歳で日本に帰ってくるまで中国語だけで暮らしてきた李さんにとって、日本語学習は生きるための闘いと言える。妻の遅素媛さんと自分の生活を守るために一生懸命学んだ日本語で、感謝の言葉を述べる李さんの姿は、日本語教師のはしくれとして、居住まいを正される思いだった。どうしたら日本語学習を効果的にできるか、継続学習を支援できるか、という視点で再度自分の教え方を検証しなければならない。
それと同時に、日本語が話せない者の生活上の不利益を減らさなければならない、と思う。
素媛さんが北京の病院から日本の病院に転院を希望したとき、大阪近辺の病院(脳神経外科)のうち、20近くの病院に断られた。
「日本語を話せない者への治療は責任持てない。通訳を24時間つけられないでしょう?」
というのだ。最終的にはLINKの助けもあって、何とか大阪市内の富永脳神経外科に奇跡的に入院できたが、日本の病院の多くは日本語を話せない患者は受け付けない。そもそも、転院はA病院の医師がB病院の医師に宛てた紹介状のようなものをもっていないとダメで、中国の医師が書いたものは紹介状に当たらないと断る病院もあった。
日本の学校では必ず「国際理解教育」がなされている。教師たちが身近なところに目を向けて、日本の子どもたちが排外的にならないように、日本で暮らす帰国者や外国人が、安心してのびのびと暮らせるように、丁寧な実践をしてもらいたい。日本社会は今、かなり変になっているので、学校の先生たちは、まじめに頑張れば頑張るほど辛いだろうと思う。しかし、子どもは社会の変化の突破口になる。子どもが変われば、親が変わる。親が変われば地域が変わる。先生たち、歯を食いしばって踏んばってください。
今回は李達夫さんが、
「昨年夏以来ずっとお世話になってきた『李達夫応援団』のみんなに是非感謝の言葉を言いたい。」
というので、急遽催すことになった経緯がある。しかし、応援の中心を担ってくれていたフミちゃんや田村さん、いの一番にカンパしてくれたユミコさんは、現在ご家族が入院中だったり、家庭内で要介護だったりして、正直、声をかけるのも気兼ねする状態だし、他のメンバーも介護や仕事でかなりくたびれていた。私は中国でただハラハラしていただけなのだが、みんなの辛さが伝わってきて、自分までちょっと元気を失っていた。
そういうわけで、私は応援してくれたみんなに丁寧に声かけもせず(他のメンバーは違うかも)、当日を迎えたのだが、やっぱりやってよかった。これで一区切りついた、と思った。
李さんは、亡き娘の夫から送られた茅苔酒(MOUTAI)という貴州の、というより中国の『国酒』を持参し、さらに途中で、段ボール一箱分のビール、ミカンも一箱、お菓子もてんこ盛り買ってきた。彼の「帰国者の友」への想いが感じられ、みんな、「こんなにお金使って…。」と胸が詰まり絶句した。
2003年、60歳で日本に帰ってくるまで中国語だけで暮らしてきた李さんにとって、日本語学習は生きるための闘いと言える。妻の遅素媛さんと自分の生活を守るために一生懸命学んだ日本語で、感謝の言葉を述べる李さんの姿は、日本語教師のはしくれとして、居住まいを正される思いだった。どうしたら日本語学習を効果的にできるか、継続学習を支援できるか、という視点で再度自分の教え方を検証しなければならない。
それと同時に、日本語が話せない者の生活上の不利益を減らさなければならない、と思う。
素媛さんが北京の病院から日本の病院に転院を希望したとき、大阪近辺の病院(脳神経外科)のうち、20近くの病院に断られた。
「日本語を話せない者への治療は責任持てない。通訳を24時間つけられないでしょう?」
というのだ。最終的にはLINKの助けもあって、何とか大阪市内の富永脳神経外科に奇跡的に入院できたが、日本の病院の多くは日本語を話せない患者は受け付けない。そもそも、転院はA病院の医師がB病院の医師に宛てた紹介状のようなものをもっていないとダメで、中国の医師が書いたものは紹介状に当たらないと断る病院もあった。
日本の学校では必ず「国際理解教育」がなされている。教師たちが身近なところに目を向けて、日本の子どもたちが排外的にならないように、日本で暮らす帰国者や外国人が、安心してのびのびと暮らせるように、丁寧な実践をしてもらいたい。日本社会は今、かなり変になっているので、学校の先生たちは、まじめに頑張れば頑張るほど辛いだろうと思う。しかし、子どもは社会の変化の突破口になる。子どもが変われば、親が変わる。親が変われば地域が変わる。先生たち、歯を食いしばって踏んばってください。