世に「一般言語学講義」の名で知られている講義は、スイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールが20世紀の初めにジュネーブ大学において行った、3回に渡る講義です。
3回といっても、3学年度にわたる、それぞれ数十回からなる年間講義です。
第一回は、1907年1月から7月まで、出席者6人、
第二回は、1908年11月から9年6月まで、出席者11人
第三回は、1910年10月から11年7月まで、出席者12人。
最終講義が終わってから、今年で100年になります。
この100年の間に、「講義」は数奇な運命をたどりました。その最大の理由は、ソシュールが講義を終えてから約2年半後、55歳の若さで亡くなり、一般言語学についてまとまった書物を残さなかったことにあります。
講義内容の価値を知っていた出席者たちはこれが後世に残らないことを惜しみ、その意を受けたジュネーブ大学の二人の弟子が講義内容の出版を決意しました。バイイとセシュエです。しかし、彼らはソシュールの弟子ではありましたが、講義には出席していませんでした。すでにジュネーブ大学の教授として自分たちの講座をもっていたために、講義に出席できなかったのです。
二人は、ソシュールの死後、机の中から発見された古い手稿と講義出席者たちのノートを集め、「講義」を再構成しました。そうしてできあがったのがバイイ、セシュエ編『一般言語学講義』で、ソシュールの死の三年後に刊行されました。
『講義』は、当時ヨーロッパの学問の移入に熱心だった日本の学者の目にとまり、はやくも1928年には、小林英夫の手によって日本後に翻訳されました。これは、『講義』の世界初訳だとのことです。なお、小林は後に京城帝国大学の言語学教授を務めました。
『講義』は世界の思想界に衝撃を与え、20世紀の重要な思想的潮流である「構造主義」の原点と目されるようになりました。
ところが、1950年代に入って、この『講義』に疑問を投げかける研究者が現れました。きっかけは、1955年から58年にかけて、それまで知られていなかった資料が発見されたことです。それは①ソシュールの講義関係の手稿、②講義出席者の一人でバイイとセシュエが『講義』編纂時に参考にできなかったコンスタンタンのノート、そして③ソシュールの神話研究、アナグラム研究のノートです。
ジュネーブ大学のゴデルは55年に発見された手稿を整理し1957年に出版。それに続いてベルヌ大学教授のエングラーは、バイイ、セシュエの『講義』がどの資料を参考にしたかわかるような対照表を、手稿、コンスタンタンのノートも含めて作成し、1967年から74年にかけて刊行しました。
これらの研究により、バイイ、セシュエの編纂になる『講義』が、三回の講義の順序を組み換えて、さらには二人の独自の解釈を交えて再構成されていたことが明らかになりました。
以後、『講義』という書籍はソシュールの思想を正しく伝えていない、という批判が噴出し、日本では中央大学の丸山圭三郎がソシュールの思想の真の姿を追求して、精力的な考証を始めることになります。丸山は、1981年の『ソシュールの思想』を皮切りに、大学でソシュールに関する講義を行うのと並行して、ソシュール関連の書籍を次々に刊行していきます。
エングラー版は、ソシュールの原資料(手稿、参加者のノート)を集大成した労作ですが、あくまでもバイイ、セシュエの『講義』の出典を明らかにすることを目的としていたため、『講義』に引用されなかった部分が割愛され、また順序が『講義』の順序に合わせられていたために、実際の「講義」の順序通りに読むことができないという難点がありました。
丸山は、1983年の『ソシュールを読む』(岩波書店)によって、エングラー版をもとに三回の講義の復元を試みましたが、全訳を示すことなしに、丸山自身の解釈を色濃く投影した再構成を行っています。
バイイ、セシュエ版の『講義』の問題点は大きくいって次の二点です。
1 講義に出席していなかったバイイ、セシュエが講義内容を正しく理解しておらず、誤解に基づいた順序の入れ換えや加筆を行ったため、ソシュールの考え方が誤って伝えられたこと。
2 一冊の本にまとめるにあたり、二人の判断で用語の統一を行ったため、ソシュールが4年半、3回にわたる講義の中で発展させていった思考の軌跡が捨象されてしまったこと。
このため、講義そのものの順序で、ソシュールの思考の発展過程をも味わいながら、すべての講義内容を読みたいという希望は、長い間満たされませんでした。
丸山はソシュール解釈から発展させ独自の言語哲学を展開したあと、1993年に故人となりましたが、講義の文献学的研究は別のところで進んでいました。
学習院大学教授の小松英輔は、ソシュールの「講義」に出席した学生たちの生原稿を筆耕して活字にする作業を続け、丸山が亡くなった1993年に、まず「第一回講義」についてリードランジェのノートを、「第三回講義」についてコンスタンタンのノートを英仏対訳で刊行、それに続き、「第二回講義」についてリードランジェとパトワのノートを刊行しました。
これらは日本語にも翻訳されています。市井のソシュール研究家、相原奈津江と秋津伶は2003年、小松版の『第三回講義』をエディット・パルクから刊行、続いて2006年には『第二回講義』、2008年には『第一回講義』、さらに2009年には2003年版の『第三回講義』にソシュールの講義メモを補った増補改訂版を矢継ぎ早に世に送り出しています。
一方、東京大学の影浦峡と田中久美子は、第三回講義のコンスタンタンのノートを、小松版を参照しながらも独自に筆耕し、2007年に東京大学出版会から刊行、第三回講義に関しては二種類の翻訳が読めるようになりました。
これにより、日本人は、ソシュールの歴史的な講義、「一般言語学講義」の講義をすべて、講義が行われた順序通りに、講義中のソシュールの息づかいもそのままに、日本語で読むことができるという、大いなる幸せを味わうことができるようになったわけです。
以上が、講義終了後100年間に講義がたどった数奇な運命の顛末でした。
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