帝国主義の支配は物理的なものだけではなかった。日本が銃に象徴される物理的な力を動員したのは3・1独立運動当時の一回に限られる。
帝国主義の支配は精神的,文化的でもあった。帝国主義は進歩の化身のように見えた。人々は徐々に帝国主義の協力者に変わっていく。絶対的少数だった日本人の植民地支配が可能だったのは,彼らに友好的な多数の協力者がいたからだ。
いままで韓国の歴史家たちは民族の恥ずかしい面としてこのことについてきちんと語ってこなかった。
協力者は朝鮮時代に身分が抑圧されていた階層から多く輩出された。中でも「中人(チュンイン)」身分の協力者が多かった。中人は,代々,郡県の行政実務を担当した階層で,文字を読み,計算ができる専門的知識人だったが,社会進出には制限があり,両班階級から甚だしい差別を受けていた。
彼らは,日帝時代に,商人,あるいは地主に変身して経済的に成功する。農村社会は,中人出身の新興地主によって支配された。旧来の両班身分で,時代の変化にうまく適応できた者は少なかった。
1925年,朝鮮半島の郡守250人の大部分は中人だった。子弟は,多く日本に留学した。子供たちは東アジアの新しい中心である日本の新文明に圧倒され,やがて日本の協力者として育っていった。
しかし,日本で「人間の尊厳と自由精神」を学んだ者の中には,民族意識を自覚し,不当なる差別に抵抗する人々も現れる。
韓国の近代文化と学問は,日本留学組から生まれた。歴史学の崔南善,文学の李光洙,朝鮮語学の崔ヒョンベ,経済学の白南雲などである。
以前,このブログで紹介したことのある任文垣(→①②③)も,中人出身なのでしょうか。
朝鮮の不潔,無秩序,卑怯,無気力に絶望し,そのような野蛮な朝鮮が日本に積極的に協力し,日本人のように清潔で,秩序があり,勇敢で,協同する文明人として生まれ変わる道こそが,朝鮮民族が再生しうる道であると信じた李光洙。
日本の古蹟調査事業によって発掘された朝鮮の歴史的遺物が,整理され,博物館に陳列されたのを見て感謝しつつ,「日本人の手によって初めて朝鮮人の生命の痕跡が明らかにされることは,どんなにか大きな民族的羞恥だろうか」と嘆いた崔南善。
これら,後にチニルパ(親日派)として断罪される人々の精神的葛藤はいかばかりのものであったか。韓国に司馬遼太郎のような作家がいれば,すぐれた歴史小説が生まれるだろうにと思います。
友人の舅は京城帝大を出て朝鮮銀行に勤務し、後に
高等文官試験を受け郡守となりました。
友人は夫を亡くしていますが、韓国の夫の実家に「郡守であった父親を親日派として、、、。反論があるなら文書にして提出するように!」と政府から手紙がきたそうです。
「十年前に亡くなった舅をリストに入れて何になるのでしょう。政府は、こんな事にお金を使うより、もっと国のためになる有効なことに使ったらいいと思いましたよ。私に言わせると生き残った人達は皆親日派ですよ。」と笑っていました。
30年代後半以降は,独立運動は影をひそめていましたね。
刑務所から出てきた泥棒が,独立運動家を装ったということもあったようです。
ホント、好きですね。
http://www.chosunonline.com/news/20091109000036
http://www.chosunonline.com/news/20091109000037
朝鮮日報社説は,
光復(日本の植民地支配からの解放)直後、親日派を精算しようと強い意志を有していた反民特別委が選定した親日関係者は688人。抗日独立運動の元老の集まりである光復会が、2002年に発表した親日関係者名簿に収録された人物は692人だった。ところが、祖国光復運動に指一本触れたことのない正体不明の人物が、その時より6倍も多い人たちを「親日」として辞典に載せたというわけだ。
民族問題研究所はこの日、この辞典は韓国国民の募金によって作成されたと説明した。しかし実際は、金大中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)両政権が、『親日人名辞典』編さんのために国民の税金8億ウォン(現在のレートで約6174万円)を支援した。貴重な税金が、またしても大韓民国の正当性を削り取ることに使われたというわけだ。
と,批判的ですね。